第二十七話 静かな距離
剣を振るうのは、日課だった。
目覚めてから一日たりとも、欠かしたことはない。
夜の空気は澄んでいるはずなのに、
どこか、まだわずかな重さが残っている気がした。
月明かりの下。
皆が寝静まった頃、ひとり静かに剣を振る。
あの日から――
セレナの言葉が、頭から離れない。
胸に棘のように刺さり、じわじわと痛む。
振り払うように、剣を振る。
アウレリア・アルフェンとして生きたかったわけではない。
今は、アメリア・ルシア。
けれど。
捨てたはずのものを、手放せない。
――矛盾している。
剣を振っても、息はもう乱れない。
魔力も、確かに戻りつつある。
完全に戻った時、自分はどうするのか。
答えは、まだ見えない。
束ねた薄茶色の髪に触れながら、ふと考える。
星護の森は、なぜ自分の姿を変えたのか。
意味はきっとある。
きっと――
アウレリアは剣を止め、
ステラ・ノクティスを静かに鞘へ収めた。
そして、そのまま木漏れ日へと足を向ける。
店に戻って間もなく、
カシャンと乾いた音が響いた。
手から滑り落ちたカップが、床で砕け散る。
「失礼しました。今片付けますので、気にしないでください」
今、店内にいるのはアウレリアとリオだけだ。
この前の騒動で忙しかったのだろう。
彼が訪れたのは、久しぶりだった。
ほうきと塵取りを取り出そうとした、その時。
「手伝う」
気づけば、すぐそばに立っていた。
「とんでもない。お客様にそんなことさせられません」
「構わない」
静かな声で言い切ると、半ば強引に道具を取り上げ、床を掃き始める。
「……すみません」
小さく息をつく。
近頃、どうにも集中が続かない。
「座ったらどうだ?」
「え?」
「疲れているのでは?」
銀灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
昔から、観察力がある。
「そんな風に見えますか?」
「普段なら、あまりこんなミスはしないように思っただけだ」
手際よく破片をまとめ、道具を差し出してくる。
「ありがとうございます」
笑顔を向けると、わずかに視線が揺れた気がした。
「じゃあ、お言葉に甘えて……隣に座っても?」
「勿論だ」
カモミールをブレンドしたハーブティーと焼き菓子を用意する。
ナッツをたっぷり使った、お気に入りのものだ。
疲れた時には、これがいい。
リオが焼き菓子に手を伸ばす。
「どうですか?」
「うまい。……とても」
ひと呼吸置いて、続ける。
「貴方の作るものは、どれも懐かしい味がする」
――どきり、とした。
アメリアの中に、アウレリアを見つけてもらえることが嬉しい。
そう思ってしまう自分に、気づいている。
でも、気づかないふりをしていた。
「セレナ夫人は、順調です」
「それは何よりです。私も気がかりでしたから」
風の噂で、第二子のことを耳にするようになった。
きっと安定期に入ったのだろう。
「貴方のお陰だと、夫人は喜んでいた」
「私には、過分な言葉です」
目を伏せた、その時。
リオは一瞬だけ動きを止めた。
それから、静かに手を取る。
「血が出ている」
「え?……あら、本当ですね」
指先に、わずかな赤。
「これくらい、大丈夫です。もう止まっていますし」
いつ切ったのかも分からない。
リオは眉を寄せ、懐からハンカチを取り出した。
そっと、傷口を押さえる。
そのまま、しばし手のひらを見つめていた。
――何かに気づきかけたように。
だが、やがて何事もなかったかのように口を開く。
「少し、自分のことを考えた方がいい」
――なぜ先生は、いつも自分より他人を優先するんですか?
不意に、記憶が重なる。
あの頃の少年の声と、今の声が。
変わっていない。
「実は……アルフェン公爵夫人がお店に来たと聞きつけて、連日大賑わいだったんです」
少しだけ肩の力を抜く。
「だから、疲れていたのかもしれません。少し休もうかしら」
そうだ。
疲れていたのだ。
そして、今は自分のために生きることができる。
微笑むと、リオは静かに頷いた。
「勿論だ。そうしたらいい」
もう、無理をしなくてもいい。
そう言われた気がした。
「ヴァルノクス隊長も、休んでくださいね。毎日ここに来れるくらいに」
「善処する」
わずかに、笑みが浮かぶ。
まだ名乗らぬまま。
それでも――
ほんの少しだけ、距離が近づいた気がした。




