異質④
プロレスの試合では、まずロックアップをするのがセオリーだ。
ロックアップとは、組み合ってお互いの力と技量、コンディションを探るもの。
だが当然ながら、この世界のリング上にはそんな暗黙の了解など存在しなかった。
ロイスは動かない。
構えも取らず、ただこちらを待っている。
攻めてこない。
あくまで私の戦い方を見極めるつもりなのだろう。
どう攻めるべきか、一瞬迷う。
その迷いを見透かしたように、ロイスが口を開いた。
「俺のことなら心配しなくていい。全力で来い」
……上等だ。
プロレスラーのプライドに懸けて、本気で行く!
「行きます!」
正面から攻め入る。
手を開いたまま、くの字に曲げた右腕を薙ぎ払うように振り抜く。
——逆水平チョップ。
乾いた破裂音がリングに響いた。
だが、手応えがない。
掌に返ってくる感触がどこかおかしい。
確かに当たったはずなのに、厚い壁を叩いたような違和感だけが残る。
「ほう……いい音だな」
そう言いつつ、ロイスは微動だにしていない。
まだだ。
腰の捻りを加え、右肘を鋭く叩き込むエルボー・バット。
手は止めない。
左に振り抜いた右腕を返すように、もう一度逆水平チョップで胸元を薙ぐ。
さらに、エルボー・バットをもう一撃。
打撃は確かに当たっている。
音も鳴っている。
なのに、効いている感覚だけがない。
「……なるほどな。すまねえ、フェアじゃなかった」
ロイスがふっと肩の力を抜く。
さっきまで身体の周りにあった、見えない壁のようなものが、すっと薄れた気がした。
「ロイス、それは危険だ。何かを隠している可能性も——」
エレンが腕を組んだまま、少し声を張った。
「まあまあ、様子を見ようじゃないか」
それをターナーが穏やかに片手で制する。
やはりロイスに何か変化があったようだ。
マナとか加護とか、この世界独自の何かが。
「仕切り直しだ、アカネ。今度はこっちからも行くぜ」
……わからないものを考えてる場合じゃない。
来る——!
ロイスが右足を前にした構えから大きく一歩。
左手を大きく押し出すように掌底を放った。
すんでのところで両腕を交差させて受ける。
だが、衝撃までは殺し切れない。
体が後ろへ弾かれ、ロープまで吹っ飛ばされた。
「い……ったぁ……!」
ウェイトトレーニングで大きくした筋肉とは違う、実戦で鍛えられた筋肉から繰り出される打撃は、今まで味わったことのないものだった。
背中をロープに預け、歯を食いしばる。
硬い縄が背中に食い込む痛みで、逆に意識がはっきりした。
この程度で、止まっていられない。
「どうした? 終わりか?」
挑発にも似た言葉に、奥歯を噛みしめる。
「……まだです!」
ロープを押し下げ、背中を離す。
反動と呼べるほどのしなりはない。
それでも体を前へ戻す勢いに変え、ロイスとの距離を詰める。
まだ衝撃の残る右肘を突き出し、エルボーを放つ。
だが、ロイスは半歩だけ身を引いて、それを躱した。
それなら……!
リングの反対側まで走り、背を預ける。
ロープの感触を背中で受け止め、すぐに前へ走り出した。
マットの上を駆け抜け、右足を踏み込む。
振り抜く右腕。
ぶち抜け! ラリアット——!
右腕が空を切る。
気づいたときには、背後から腰に手を回されていた。
私の体が、経験が、この後に来る動きを予測していた。
この世界に、ジャーマンスープレックスという名前の技があるはずもない。
ただ森で私が見せた動きから、似た投げをしようとしているのかもしれない。
ロイスが後ろにのけぞる瞬間に合わせ、自らマットを蹴る。
投げられる力に逆らわず、むしろその勢いを利用する。
背中から落とされるはずだった体が、バク転をするように宙で一回転。
足裏がマットを捉え、再びリング中央でロイスと向き合った。
一瞬の静寂。
「うおー! アカネちゃんすげーッス!」
「おいおいおい、なんて反応速度だよ!」
ライノとラギの歓声が耳に届く。
二人の声を受け、拳に力が入る。
……やばい、楽しい。これだ。
やっぱりプロレスは、こうでないと。
もう一度、攻める——!
ロイスは構えも変えず、次の一手を待っていた。
避ける気配はない。
今度は真正面から受けるつもりだ。
逆水平チョップで胸元を薙ぎ、続けざまに右肘を叩き込む。
エルボー、エルボー、さらにエルボー……!
さっきまで弾かれていた打撃が、今度はちゃんと届いている。
掌に、肘に、確かな手応えが返ってくる。
ロイスの胸元が赤く染まった。
打撃を受けるたび、ロイスがじりじりと後ろへ下がる。
もう一押し……!
右足を軸に体を捻りつつ、低く沈み込む。
一回転。
左足の踏み込みと同時に、全身のバネを解放する。
「『ハートクラッシュ』!」
下から突き上げるようなローリング・エルボー。
身長の低い私が、それを活かすために磨き上げた技だ。
「ぐっ……」
確かな手応えに、ロイスの体が揺れる。
その足が、さらに一歩後ろへ下がった。
ロープまでは、約一メートル。
この距離なら……いける!
大きく二歩間合いを詰め、跳んだ。
空中でロイスの首筋に左腕を回し、頭を左脇に抱え込む。
同時に右足でトップロープを蹴り、マットと水平に体を回転させる。
空気が螺旋を描くように渦を巻き、ロイスの体もまた不穏な軌道で傾いた。
抱え込んだ頭は、離さない。
勢いを殺さず、さらに一周——!
回転する視界の端で、一瞬だけターナーと目が合った。
見定めるような視線。
技を見ているだけじゃない。
私という存在そのものを、測っている気がした。
その視線を振り切るように、左腕に力を込める。
——決める!
重心を落とし、自分の背中をマットへ叩きつけるように倒れ込む。
ロイスの頭を抱え込んだまま、遠心力と全体重を乗せ——。
「やああああっっ!」
真下に突き刺すように、頭から落とした。
鈍く重い衝撃音が、訓練室に響き渡る。
旋回式DDT。
間違いなく、完璧に入った。
ロイスの体がその勢いでマットの上を跳ね、転がる。
だが——。
ロイスは片手で首を押さえながら片膝をつき、何事もなかったように立ち上がろうとしている。
それを見て、考えるより前に体が動いていた。
マットに手をついて跳ね起き、そのまま一直線に駆け出した。
体勢を立て直しかけたロイスの胸元へ向け、右腕を振りかぶる。
大きく右足で地面を蹴り、その勢いのまま叩きつけた。
全力の、ラリアット!
「っらあああああ! 『ハートブレイク』!」
右腕にぐっと力を込める。
ブレーキをかけず、ロイスの体を真正面からぶち抜いた。
全体重を乗せたラリアットを受けたロイスは仰向けにマットへ沈み、轟音とともにリングを揺らした。
これが、今の私に出せる全力の決め技——フィニッシャー!
「はあっ、はあ……っ」
息を整えながら、ロイスを見下ろす。
「ははっ!」
ロイスは仰向けのまま、豪快に笑った。
ゆっくりと起き上がり、乱れた服を軽く払う。
「アカネ、やるじゃねえか!」
その一言で、張り詰めていたものが、ようやくほどけた。
「あははっ! ロイスさん、これが私です! これがプロレスです!」




