決着
「——裏切った?」
砂漠の上で、メーテールさんが小さく言う。
非常に澄んだ、感情の薄い声だった。開いていた瞳孔が閉じ、声が一段低くなっている。
「私が?」
「ええ」
ユースティスさんは、黒い神父服についた砂埃を払い、金灰色の稲妻で魔法陣を描く。
「裏切り者の、臆病者でしょう」
瞬間。
一閃が、ユースティスさんの首へ霹靂のように落ちた。
寸前、彼は腕を首と打棒の間に挟み込んでいた。衝撃を踵で殺しながら後退し、メーテールさんへと視線を向ける。
ユースティスさんは間髪入れず、火柱を横に迸らせる。
蹴りを叩き込み、メーテールさんを列車の外へ叩きだした。
「——ふざけるなよ」
血走った目を、メーテールさんはユースティスさんへ向けた。
意識のすべてが、ユースティスさんへ向く。
一本、また一本。
返された炎が、空中で潰されていく。
そのたびに、メーテールさんが打ち返せる角度が、少しずつ狭まっていった。
追い込んでいる。
ユースティスさんは、炎で、メーテールさんの逃げ道を一本ずつ塞ぎ。
――消えた。
ユースティスさんの姿が、車両から消えた。
次の瞬間には、砂漠の上。
メーテールさんの、真上だった。
灰色の稲妻をまとった右腕を、振り下ろす。
メーテールさんが、打棒を横にして受けた。
――ずんッ。
砂が、沈んだ。
メーテールさんの足元の砂漠が、半径十メテルほどにわたって、すり鉢状に陥没していた。
受け止めていた。
打棒では、受けていない。
触れる寸前で、打棒を僅かに引いていた。
代わりに、腕の刃が触れる瞬間の衝撃を、自分の身体を通して、足の裏から地面へ流していた。だから、砂が沈んだ。力を全部、大地へ逃がしたんだ。
ユースティスさんの眉が、ほんの僅かに寄った。
――今の一撃で、腕を折るつもりだったんだ。
僕には、そう視えた。
ユースティスさんは、腕の刃を引かなかった。そのまま、間合いを詰める。
拳。
肘。
膝。
手刀。
流れる水のように、途切れずに連撃を叩き込んでいく。
メーテールさんが、打棒で捌く。
捌く。
捌く。
受け流す。
ユースティスさんは、打棒に一度も触れなかった。
触れる寸前で軌道を変え、打棒の脇を、上を、下を、すり抜けていく。
メーテールさんも、ユースティスさんの腕の刃に触れない。変幻自在の手刀を、打棒と足さばきでいなし続けていた。
互いに、触れずに。
触れずに、殺し合っていた。
「あのような腐敗を!」
メーテールさんの声が、砂漠に響いた。
「悍ましい何もかもを! 見逃しているなど!」
打棒が、横薙ぎに振るわれた。
ユースティスさんは、それを受けなかった。
打棒の軌道の、ほんの少し外側に手を添えて、その力の向きを上へ逸らす。
触れていない。打棒の周りの空気ごと、力の流れだけを、空へ受け流していた。
逸らされた力が、真上の空へ抜けていく。
ユースティスさんの左手が、メーテールさんの胸倉を掴んだ。
引く。
メーテールさんの体勢が、崩れた。
「あの丘で。二千年前の、ロー・ヘレナで我らが誓った、陛下への――」
崩れた瞬間、地面に叩きつけられる。
しかし、それも一瞬。曲芸のような動きで足を地へおろし、衝撃を殺す。
即座に腕を払いのける。
メーテールさんが、叫んだ。
「――冒涜に、他ならない!!!」
片足を、上げて。
砂漠に、叩きつけた。
――どごぉんッ!!
大地そのものを踏み抜くような、重い音。
踏み込んだ衝撃が、砂の中を走り、また線を描き、魔法陣を形作り、その中心に地脈の力が流れ込んでいく。
砂漠が、隆起した。
メーテールさんの足元から、放射状に、岩の柱が、突き出した。
砂の下の岩盤が、刃のように尖って、地面を割って次々に飛び出してくる。
「……っ」
わずかにユースティスさんの顔色が曇る。
一本、二本、十本、二十本。メーテールさんを中心に、円を描くように広がっていく。
立ち上がるそれらを躱し、躱した先で振り下ろされる【黒獅打矛】の打撃を受けることなく回避し続ける。
「――あなたが、何を見たのか」
岩の柱の間を縫って、ユースティスさんが踏み込んだ。
右の拳が、腕の長さを超えた。
肩が外れていた。肘が外れていた。
手首も、指の付け根も。関節という関節が、一瞬で外れて、腕が一本の鞭になっていた。
外れた関節の一つひとつが、別々の角度で曲がりながら、蛇がうねるように、メーテールさんの喉元へ迫っていく。
読めない。
《蒼眼》で視ていても、拳の先がどこへ曲がるのか、次の一瞬にならないと分からなかった。
メーテールさんが、首を傾けた。
拳が、頬を掠めていく。
掠めたその先で、拳がまた曲がった。耳の後ろから、首筋へ。
メーテールさんが、半身になる。
また曲がる。脇腹へ。
打棒の柄で、払う。
払われた腕が、たわんで、跳ね返って、今度は膝へ。
どれも、紙一重の攻防。
メーテールさんは、蛇のようにうねる拳を、一つ残らず、ぎりぎりのところで躱し、いなしていた。
ユースティスさんの腕が、引き戻される。外れていた関節が、ばちばちと音を立てて元の場所へはまっていく。
「なんとなく、想像はつきます」
彼は、何事もなかったように、そう言った。
メーテールさんの目が、見開かれた。
ユースティスさんの身体が、また炎と一つになった。
金灰色の稲妻が、その炎の上を走り回っている。
地面を、蹴った。
炎と稲妻を纏ったまま、まっすぐに、メーテールさんへ。
「向き合うことをやめて、決めつけるだけの貴女に」
声が、ほんの少しだけ、熱を帯びた。
「一体、何ができるのでしょうか」
※※※
メーテールさんの目が血走り、【黒獅打矛】の打撃で、僕等のいる列車めがけてユースティスさんを殴り飛ばした。
戦場の舞台は、砂漠から列車へ移り変わる。
そこからは、もう、僕の目では追いきれなかった。
炎が走る。
打棒が閃く。
砂が爆ぜる。
岩の柱が、立っては砕ける。
金灰色の稲妻が、砂漠の上に何本もの線を引いていく。
その線のどれかの先に、必ずメーテールさんがいて、その線のどれかの先で、必ず打棒が光った。
ユースティスさんの拳が、メーテールさんの肩を掠める。
軍服が裂けて、白い肩に赤い線が走った。
メーテールさんの打棒が、ユースティスさんの頬を掠める。
薄緑の瞳のすぐ下に、細い傷が開いた。
――閉じない。
メーテールさんの肩の傷が、閉じなかった。血が滲んだまま、傷口の縁がぎざぎざに裂けて、いつまでもそこに残っている。
ユースティスさんの頬の傷は、閉じた。白い靄のようなものが傷口を一撫でして、その下から、何事もなかったような肌が現れた。
《蒼眼》で、二人の身体を視直した。
打ち合いの中で、二人の拳や打棒の表面には、魔力が薄い結晶のようにこびりついていた。ただの強化ではない。魔力を極限まで練り上げて固めた、鋸の歯のような魔力だった。
そして、二人の全身を、それとは真逆の魔力が覆っていた。練り上げたものを、意思を込めずに、ただ外へ柔らかく発散させ続けている。
霧のように薄く、皮膚の上を絶えず流れていく、色のない魔力。
それが身体を薄く包んでいる限り、鋸の歯の魔力は肌に食い込みきれずに剥がされていく。
食い込んだとしても、その傷口を洗い流して、治癒の邪魔をするものを祓ってしまう。
攻めるための魔力と、それを祓うための魔力。
二人とも、その両方を、息をするように同時に使い続けていた。
外套の裾が裂ける。
法衣の袖が焦げる。
どちらも、一撃が決まらない。
一撃が決まれば、終わる。それが分かっているから、どちらも、一撃を決めさせない。
――どぉんッ!
衝撃波が、車両の窓を一枚残らず吹き飛ばした。
――ずんッ!
砂漠に、もう一つ、すり鉢状の穴が開いた。
――がぁんッ!
弾かれた炎が、遥か彼方の砂丘を一つ、丸ごと蒸発させた。
僕は、それを車両の中から見ていることしかできなかった。
さっきまで、あの人と打ち合っていたのが嘘のようだった。僕とリリアが二人がかりで戦っていたとき、あの人は、たぶん半分も本気を出していなかった。
そして今、この人も。
ユースティスさんも、たぶん、まだ。
「――お前に」
砂漠の真ん中で、二人の動きが、一瞬だけ止まった。
メーテールさんが、ユースティスさんを睨みつけていた。
顔が、歪んでいた。
口が、大きく開く。
打棒を握る手に、力が込もる。今までで一番、強く。灰色の瞳が、怒りで燃え上がっていた。
しかし、それも一瞬。魔力を滑らかに全身へ纏わせ、寸分の狂いもない強化を施していた。
「貴様になにがわかる。千年も生きていない、武で言えばローグ将軍にも届かないお前に、何がわかる」
メーテールさんは、冷たい目をしたままユースティスさんへ打棒を向ける。
「……もう。面倒だな」
メーテールさんはため息をつき、右腕を掲げた。
そこへ、膨大な魔力が収縮していく。球体の、ごく圧縮された魔法陣の周辺で青白い、魔力光がスパークを起こしていた。
ユースティスさんが動こうとする、その移動先へ打棒を向け、牽制する。
「<執行機関>No.2、No.4、No.5。何するものぞ。ここで全員、まとめて相手にして——」
魔法陣を完成させ、大技を放つ。
――その瞬間。
光が、過ぎ去った。
一条の、通り過ぎた淡い光。それが、横から差して。
メーテールさんの右腕が、飛んでいた。
「――ぇ」
肘から先が、くるくると宙を舞った。
打棒を握ったまま、いっそ滑稽なように空で弧を描いていた。
――ぱぁんッ。
僕の、すぐ後ろの壁に、穴が開いていた。
小さな、丸い穴だった。
拳ほどの大きさ。僕の背中側の壁をまっすぐに貫いて、メーテールさんが吹き飛ばされていった壁の穴から、外へ抜けている。
その線上に、乗客は一人もいなかった。
バリケードの端と、浮いた机の隙間と、僕の頭の横。
その全部をすり抜けて、ほんの僅かな隙間を縫うように、何かがまっすぐ飛んでいった跡だった。
僕は、振り返った。
《蒼眼》を、限界まで遠くへ伸ばす。
僕の背後。
列車が向かっていた方角。線路の、ずっと先である、【聖都】の方角。
そこに、列車がいた。
僕らの乗っていた<銀砂号>と同じ、銀色の流線型の列車。向こうから、こちらへ向かって、線路の上を走ってきている。
その、先頭車両の屋根の上に。
誰かが、立っていた。
小さな人影だった。
白いヴェールが、風に靡いている。その下から覗く、淡い青銀の髪。
そして、その人の周りに、光の玉が七つ、ゆっくりと回りながら浮かんでいた。
そのうちの一つが、さっきより、ほんの少しだけ光を失っていた。
「――リヴェータ【枢機卿】、ですか」
ユースティスさんが、小さく呟いた。
その同じ瞬間。
置き去りにされた車両の方角にて。
白銀の閃光が、走った。
《蒼眼》が、ほんの一瞬だけ、それを捉えた。
あの、七色の光を漏らしていた黒い巨体。
偽造創世神と呼ばれた化け物。その胴体に、白銀の何かが、真上から突き刺さっていた。
杭だ。
巨大な杭が、黒い巨体を地面ごと貫いて、縫い止めている。
黒い装甲に覆われた少年が、手を翳す。円の中に、幾何学的な術式がいくつにも描かれ、黒い泥に魔力が流入する。
七色の光が、一斉に消えた。
その上に、白い何かがいた。双つの頭を持つ、白銀の竜のような何か。四枚の翼を広げて、潰れた巨体の上に、静かに降り立っていた。
※※※
砂漠の上で、メーテールさんが立ち尽くしていた。
右腕の、肘から先がない。
断面から血が噴き出している。その顔が、真っ青になっていた。
「…………作戦は、失敗。か」
白い靄が、断面を撫でた。
さっきユースティスさんの頬を塞いだのと同じ、意思を込めない魔力だった。血の勢いが、少しだけ弱まる。
それでも、断面は閉じなかった。
僕の《蒼眼》には、傷口の奥に、細かな結晶の欠片がびっしりと食い込んでいるのが視えていた。
あの光が残していった、鋸の歯だ。メーテールさんの霧では、それを洗い流しきれていない。
さっきまで互角に見えた二人の差とは、比べものにならない差だった。
彼女は、遠くの列車を見た。
それから、後ろの車両の方角を見た。
唇を、強く噛んだ。
左手に、赤い光が灯る。<赤念掌力>が、砂の上に落ちた自分の右腕を、打棒ごと拾い上げた。
さらに、拾い上げた右腕にも、赤い光が巻きついた。赤い念力の手が、打棒を握ったままの右腕を、まるで別の生き物のように宙で振り回し始める。
輝く打棒が、ユースティスさんの周りを、ぶん、ぶん、と薙ぎ払っていく。
触れれば返される。ユースティスさんは、足を止めて、それを避けた。
その隙に、メーテールさんが、一歩、後ろへ下がった。
「――覚えておくといい、エディンくん!」
彼女は、僕の方を見ていた。
車両の壁の穴越しに、まっすぐに。
顔は青ざめていた。腕からは血が流れ続けていた。それでも、その声は、船の廊下で僕に話しかけたときと、同じ響きを持っていた。
「君は、我々と共に来るしかない!」
灰色の瞳が、僕を射抜いた。
「【月睨派】も、【叡神派】も――君のいるべきところではない!」
そう言うと、あたりに強烈な砂嵐が巻き起こる。
強烈な魔力と、隠蔽効果を伴った砂と風が巻き上がり、列車を包み込んでいく。
それは、《蒼眼》の視界でも視通せない。完全なる、一寸先は闇。
——新手の源流能力……! どっかに、他の超越者がいたのか……!
《蒼眼》を欺くだけの源流能力ってことは、考えるだけ無駄だったかもしれない。それでも、もっと警戒の仕様はあった。
ごう、ごうと吹き荒れる嵐の中に、僕の歯を噛みしめる音が響く。
歯噛みしても、意味はない。それでも、噛まずにはいられなかった。
そして、砂嵐が消えた頃。
メーテールさんの姿が、消えていた。




