2000年の夢
僕は、何も言えなかった。
喉の奥で言葉が絡まって、ひとつも外へ出てこない。
船の廊下で頭を撫でてくれた手と、今しがた音を置き去りにした矢を放った手が、同じ人のものだという事実が、頭にうまく入ってきてくれない。
メーテールさんは、戸惑った僕を見て、少しだけ首を傾げた。
「おや? あいさつを返してくれないのか。それとも、乗り物酔いかな?」
黙っている理由がわからない、という顔だった。
それから彼女は、足元に目を落とす。
吹き飛んだ天井の破片が、絨毯の上にいくつも転がっている。
そのうちの一つ、拳ほどの大きさの石片を、軍靴のつま先で軽くはね上げた。
ふわり、と石片が浮いた。上に落ちるような自然な動きで、彼女の顔の高さに行き。
「——『雷光』」
拳が振り抜かれた。
音速超越。刹那にて掌に乗せられた石片は、手を離した瞬間に、打撃が重ねられ、強烈な速度を伴って強襲する。
狙いは、僕の後ろ。
ヨアン【司祭】だ。
「……ッ!」
考えるより先に、腕が動いていた。
『亡星』の刃を斜めに差し入れて、石の軌道を外へ逸らす。
——ぎぃん、と刃が鳴った。
甲高い音が車内に響いて、痺れの残っていた両腕に、細かな振動が駆けあがってくる。
弾かれた石片は窓枠を突き抜けて、外の砂漠へ抜けていく。
……魔力が、全く込められていない。
なんてことはない。投げた瞬間に殴る、というシンプルながら常軌を逸した絶技によって成された術。
魔法でも、源流能力でもない。ただの技術。人の身体が、人の身体のままたどり着けるからこそ、神秘よりも遥か遠い場所にある技だ。
「……ふむ」
メーテールさんは、石を投げた腕を下ろして僕を見る。
「なぜ、邪魔をするんだ?」
怒っているようには見えない。
困った子供を視るように、眉が少し下がった顔をしていた。
「………………」
「まただんまり、か。聖職者なぞ庇っても、君たちには何もいいことがないぞ」
彼女の目は、ずっと僕たちを見ていた。
……やっぱり、僕と、隣にいるリリアを見ている。
後ろのヨアン【司祭】には、一度も目を向けていない。
石を投げた時でさえ、狙いをつける仕草すらなかった。
その瞳の奥には、無関心の底にある憎悪と、使命感がくすぶっていた。
「——なぜ」
背後から、震える声がした。
ヨアン【司祭】だった。
胸元のロザリオを両手で握りしめて、真っ青な顔で、それでも一歩前に出ようとしている。
半歩、右へ。ヨアン【司祭】とメーテールさんの射線に割り込み、黒刀を構える。
「なぜ、あなた様が……なぜ、私たちを」
【司祭】の声は、掠れていた。
「千年前の殉教者。聖餐の宴の夜に昇天なさった伝説の聖騎士。
神獣軍から、聖教の守護者へと転向されたほどの信仰の徒であるあなたが、なぜ——」
「その名は捨てた」
メーテールさんは、【司祭】の方を見ないまま、短く言った。
声が、どこまでも冷たい。僕に話しかけてくるような朗らかさ、その一言には微塵もなかった。
ヨアン【司祭】を見る目は、雪原の風すらぬるく感じる零度の視線。
それきり彼女は【司祭】の存在を意識の外に追いやって、僕へ向き直った。
表情も、声も、船の廊下で会ったときと同じものに戻っている。
「改めて名乗ろう。私はメーテール。<アリウスの梯子>の大司祭」
彼女は弓を持った手を軽く広げて、一礼する。
「次期【勇者】エディン・イラ・リステリアの捕縛を依頼され、それを遂行するものにして」
はっ、と僕の後ろで息をのむ音が聞こえる。
ヨアン【司祭】だ。驚いたあとに僕を見て、どこか納得がいったかのように頷いていた。
「【月睨派】の聖職者を、一人残らず殺す鴉鐘」
顔を上げ、静かに微笑んだ。
「”審判”のメーテールだ。よろしく、エディンくんと、その御一行」
最も聖職者を殺した超越者が、目の前にいた。
※※※
彼女は、僕に向かって手招きをした。
「おいで」
差し出された掌は、上を向いていた。船の廊下で、丸薬を載せていた手と、同じ。
「あまり、子供相手に手荒な真似はしたくないんだ。どうか、ついてきてほしい。【月睨派】やリヴェータ執政官に身をゆだねようとしているのだろうが、それは外道の道。君を、その道へ行かせるのは、あまりに忍びない」
メーテールさんは、眉を下げて言う。
本当に、心の底から心配したような声だった。
「我々と一緒においで。彼らは君にふさわしくない。
我々なら、君を正しく導ける。君の力の使い道も、君がこれから何を見て、何を選ぶべきかも、ちゃんと教えてあげられる」
その声音が、全く変わらない。
……《蒼眼》で視ても、彼女の心拍にも、魔力にも揺らぎはひとつもない。正義は我にありと、心底から信じているような振る舞いだ。
やっていることと、言っていることが乖離しすぎている。
何を考えているのか、何を企んでいるのかが全く分からない。
「ひとつ、聞かせてくれるかしら」
リリアだった。
穴の開いた鞘を腰に戻して、今度こそ剣を抜いている。
切っ先をメーテールさんの喉元に向けて、正眼に構えたまま静かに言う。
「エディンを攫うのは、<アリウスの梯子>が勝手に決めたこと? それとも、誰かに頼まれたの?」
声が落ち着いている。
さっきクロに斬りかかったときのリリアとは、まるで別人だった。息も乱れていないし、眼も血走っていない。ただ、剣先だけが微動だにせず、真っ直ぐ伸びている。
「頼まれたんだよ」
メーテールさんは、あっさりと答えた。
「【月睨派】上層部から、我らへの依頼だ」
背後で、ヨアン【司祭】が息を吞む音がした。
「……へえ。ずいぶん素直に教えてくれるのね。機密保持とか、そういうことは気にしなくていいわけ?」
「構わないさ」
彼女は、少しも声音を変えなかった。
「依頼者も、ここにいる聖職者も、みんないなくなる。死人に口留めをしても、仕方がないだろう?」
後ろで、【司祭】のロザリオがかちかちと鳴っている。
握りしめた手が、震えている。信じたくない思いと、死への恐怖が、顔ににじみ出ている。
「……まさか、そんな。我らの教会が——。いくら【勇者】の資格を持っているとはいえ、子供を攫うために…………」
リリアが切っ先の先へ意識を向けたまま、重心をわずかに前へ偏らせる。
「わからないわね。依頼者もヨアン【司祭】も殺すってのはわかったわ。でも、それは組織の方針に従ったものなのかしら。今後の信用を欠く行為だと思うけれど」
「いい視点だね。だけど、これも罠だからね。
依頼を受けたのは、連中を炙りだすためさ。【勇者】の身柄を無理にでも欲しがるものは、【月睨派】の中でも上層部に限られる。
エディンくんの身柄を受け取りに来たものを辿っていけば、【月睨派】の根深いところまで掘り起こせる。
そうして集まってきた連中を」
彼女は、立てた指を軽く振った。
「皆殺しにする。それが私の目論見で、そのために今回の依頼を受けたからね」
※※※
「……どうして」
ようやく、声が出た。
自分でも情けないくらい、震えた声だった。
「どうして、【月睨派】の人たちを殺すんですか」
今朝、大聖堂で聞いた賛美歌を思い出していた。
胸元のロザリオを握って歌っていた、お年寄りや、子供を膝に乗せた母親や、日焼けをした漁師たち。炊き出しの鍋の前で、僕の皿に芋とベーコンを山盛りにくれた人たち。ココアを淹れてくれた、心優しき人たち。
彼らの親切心は、あの船で薬をくれたときに通じる。
なのに、なぜ——。
「世界の害悪だからだよ」
メーテールさんは気負うことなく答えた。
瞳の奥が揺れ、泥のようにどす黒い感情が灰色の瞳に満ちている。
「子供を、人を食い物にして、己の欲を満たすことしか考えない、醜い支配者たち。うんざりで、潰しても潰しても湧いてくる、世界の癌だ」
汚物を見るような濁った目で、ヨアン【司祭】を見下ろしていた。
「聖戦の幕開けだ。【月睨派】の【神父】、【司祭】、【聖騎士】、【大司祭】、【司教】、【大司教】、【枢機卿】、【教皇】。
斬首刎首打首斬刑獄門磔刑火刑絞首水刑奪命。聖職者はどいつもこいつも極刑だこの誅戮をもって【月睨派】に与するリヴェータ執政官へ直談判する当然だあの方がいながらこんな世界を放置しているはずがないなら彼女も敵だ。
だから、彼女も殺す。リヴェータ閣下の首をもって汚れた人類世界の最後の流血とする」
一気にメーテールさんはまくしたて、正三角のロザリオを捧げる。
「我が王——神獣軍ただ一人の総帥、全能なる主アルメ=ガファの地上代行者たるアルフェウス陛下に誓って、私は以上の誓いを成し遂げる。
聖戦だ。聖戦なんだよ、エディンくん。流した血はすべて、連中の手で犠牲になった者たちに捧げる。こうして世界を洗い清めて、私も含めた汚物のすべてを根本から排し、陛下が目覚める約束の夜明けに、陛下に世界を統べていただく」
彼女は、胸に手を当てた。
「それが、人類の幸福だ」
どくん、と心臓が強く鳴った。
メーテールさんの言う「陛下」という言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さくうずいた。
「……それが」
心臓のあたりを押さえ、自分の胸倉を握りしめながらメーテールさんの目を見る。
「それが、本当に正しいんですか」
「ああ」
彼女は迷わずに頷いた。
「それしかないんだ」
その一言には、何の揺らぎもなかった。
《蒼眼》で視ても、やっぱり何も揺れていない。この人は、本当にそれしかないのだと信じている。
百年、千年かけて、そう信じるしかないところまでたどり着いた。
柄を、握り直す。
「——正しいかどうか。それしかないのか。僕にはわかりません」
両手で握った『亡星』に、魔力を流し込んだ。
僕には、この人が何を見てきたのかわからない。何を失って、何に絶望して、ここに立っているのか。何一つとしてわからない。
だが。
「わからないことで、目の前の人を殺させるわけにはいかない。
そんな正しさのために、簡単な道を行くわけにはいかない」
命はすぐに消える。
首を断つだけで、違う血管同士を繋げるだけで、脳天に小さな穴をあけるだけで、生き物は簡単に死ねるし、殺せる。そうして東塔で生きてきた。
だからこそ、尊いんだ。生きるのが簡単じゃないからこそ、護らなければならない。話しあわなければならない。
僕は、一歩前に出た。ヨアン【司祭】を背中に隠し、刀の切っ先をメーテールさんへ向ける。
「だから、あなたの正しさにはついて行きません」
※※※
メーテールさんは、しばらく僕を見ていた。
それから、大きな息を吐いた。
「……残念だ」
本当に、残念そうな声だった。
彼女は弓を背に戻して、空いた両手を胸の前で合わせた。
指先で正三角の形を組み、そのまま首元の鎖を引き出す。軍服の内側から現れたのは、使い込まれて角の丸くなった、大地を表す正三角のロザリオだった。
彼女はそれを、吹き飛んだ天井の向こう。青い空に向かって掲げた。
「やはり、信じる者が交わると、こうなるのだな」
祈りの言葉を口にするように、静かにそう呟いた。
僕の後ろで、ヨアン【司祭】もまた、同じようにロザリオを握りしめていた。ほんの少し前、車掌さんに向かって掲げて見せたものへ、祈りを込めていた。
「怒れ」
メーテールさんがロザリオを服の内側に戻した。
右手を空に掲げ、そこへ気魄を集める。
「——【黒獅打矛】」
銘が、呼ばれる。
細長い光が、片手に集った。剣のようにまっすぐで、けれど刃はない。握りから先が、ゆるやかに太くなっていく。
光はやがて輪郭を持ち、ひと振りの打棒の形になった。
表面が淡く明滅していて、その周りの空気だけが、陽炎のようにかすかに揺れている。
彼女は、それを軽く握った。
「まずは、力の差を理解してもらうところから、か」
そう言って、メーテールさんの姿勢が崩れた。
背筋を伸ばして立っていた人が、ゆらりと前に傾いていく。
肩が落ち、背が丸まり、首が前へ垂れる。糸の切れた人形のような、それでどこにも隙の無い、幽鬼のような猫背の前傾だった。
灰色の髪が、そこで初めて、わずかに揺れた。




