狂信者の乱入
「——そちらのお嬢さんも」
ヨアン【司祭】が、穏やかな声のまま、ラウンジの隅へ顔を向けた。
「どうか、銃を下げていただけますか?」
僕は、つられてそちらを見た。
窓際の席。紅茶のカップを片手に持ったまま、ローレッタさんが座っていた。
その片方の手に、白い筒があった。
細身の魔鋼でできた、鉄の筒。中は空洞で、らせん状の溝が彫られている。「く」の字に曲がったような道具の手元には、六発の水車のようなものがある。
引き金に指をかけたまま、鉄の筒はリリアのとクロの間合い。リリアの一刀が振り下ろされる軌道。ちょうど、今僕がリリアと鍔迫り合いをしている場所に狙いを定めていた。
あれが、「銃」か。
「……あら」
ローレッタさんは、少しだけ目を丸くして、それから微笑んだ。
「【司祭】様がそうおっしゃるなら」
銃が、ゆっくりと下がる。白い銃身が、彼女の外套の内側へ消えた。
まるで最初から、そんなものは持っていなかったように、銃身は符へ変わり、外套の内ポケットの中にしまわれた。
——いつから。
《蒼眼》を絞っていたとは言え、気づかなかった。
たぶん、リリアが銃を抜いたその瞬間からだ。恐らく、リリアの刃がクロの首へ向かうより早く、その刃を読んで、弾くための位置に狙いを定めていた。
「……なるほど」
冷や汗が頬を伝う。
弾速がどんなものかはわからない。だが、速度は逆算でき。
流線形に込められている爆裂する薬と、重なり合う水車の中——二つのリボルバーに詰め込まれた魔力剤、銃身に刻まれた術式と、螺旋状の溝から直感で出した計算結果。
音速の十倍以上。
「だいじょうぶ」
ローレッタさんの膝上から、舌足らずな声が聞こえた。
ヴィータさんだった。脂の塊のような肉をほおばりながら、無機質な目を僕に向けてきた。
「初弾はつうじょうだん。でも、次弾はますいだん。だから、あたってもねむくなるだけ。だいじょうぶ」
「そう……ですか」
少し腕にこめている力が抜けた。
「……あ」
リリアの剣から力が抜けた。
血走っていた目に、いつもの青色が戻る。それから段々と、彼女の顔から血の気が引けていく。
へなへな、と座り込むリリアを支える。
剣を握ったまま、リリアは動けなくなっていた。
手首を軽くひねって、彼女の手から剣を抜いて、僕の膝の上に置く。
「でも、うたなかった」
赤い瞳が、僕を見上げた。
「えでぃんが、とめたから。がんばった。えらいね」
それだけ言って、ヴィータさんはまた焼き菓子を口に入れた。
——なるほど、最初から、ずっと僕らを見ていたのか。
「お客様!」
車掌さんが、息を切らして駆け込んできた。
「刃物を抜いた方がいると伺いまして——」
「ご足労をおかけしました」
ヨアン【司祭】が、車掌さんの前に進み出た。
胸元の、大きな正三角のロザリオ。それを、そっと掌に載せて見せる。
「【聖都 サン・ヘレナ】の救民街アデラ地区担当。【月睨派】のヨナラ修道院より、リヴェータ【枢機卿】からお招きいただいた【司祭】、ヨアンです」
銀の蛇が象られたブレスレットを見せ、ヨアン【司祭】が、微笑んだ。
「この件は教会が預かります。
リヴェータ卿との契約通り、【月睨派】だけでなく、【叡神派】とも折半で。皆様にお怪我はありません。
後ほど、私から改めてご報告にうかがいます」
車掌さんが、ロザリオとブレスレット、それから【司祭】の顔を見る。
背筋がぴん、と伸びた。
「……か、かしこまりました。【司祭】様が、そうおっしゃるのでしたら」
深く一礼して、車掌さんは乗客たちの方へ向き直った。「大丈夫です、皆様、お席へお戻り下しさい」と、声を張り上げながら戻っていく。
アルターが、テーブルの陰で、長い長い息を吐いた。
「ふー……聴取、しなくてよくなったのです。その場で摘まみだされることも覚悟していたのです」
「よかったね」
「よくないのです。寿命が三年は縮んだのです」
※※※
「さて」
ヨアン【司祭】が、ぱん、と一度だけ手を打った。
「まずは、座りましょう。立ったままでは話し合いもできません」
彼は、ラウンジの一番奥の、窓際の丸テーブルを指した。四人掛けの、小さなテーブルだ。
リリアは、まだ腰が抜けている。顔色は悪く、視線は別に向いていた。
クロは、バツが悪そうにそっぽを向いていた。
「……ごめんなさい、エディン」
リリアが、沈痛な面持ちのまま言う。
「リリア。謝ってくれてありがとう。でも、それは僕に言うことじゃないよ。まずは、テーブルに行こう。クロも」
「……ああ」
リリアの腰に手を回し、彼女を支えながら立たせて、テーブルまで誘導する。
……意外だ。リリアの腰って、結構細いんだな。
いや、なに馬鹿なこと考えてるんだ。
浮かんだ邪念を振り払い、リリアをゆっくりと腰かけさせる。
クロが椅子を引き、向かいの席に音もなく座る。
僕は、二人の間に座る。
ヨアン【司祭】は、座らなかった。
バイキングのカウンターへ歩いていって、給仕の人に何か話しかけている。
給仕の人が頷いて、奥から小鍋と、小さな炉を持ってきた。
【司祭】は、法衣の内側に手を入れて、小さな缶を取り出した。
ふたを開ける。
甘い匂いが、ふわりと漂ってきた。
「……それ」
「ええ。持ち歩いてるんです」
ヨアン【司祭】が、目じりの皺を深くした。
「こういうことも、ままありますから」
小鍋に、ミルクが注がれる。
炉の上に載せる。茶色い粉を匙で掬って、落とす。ゆっくり、ゆっくりと混ぜる。
朝の控室と、同じ手つき。
湯気が立つ。甘い匂いが、ラウンジに広がっていく。
カップが4つ、テーブルに置かれた。
「どうぞ」
リリアは、カップに視線を落とした。
クロは、ヨアン【司祭】の顔を見た。
僕は両手でカップを包み、一口飲む。温かい。朝と同じ温かさだ。
「まずは、温かいものでも飲みながら話し合いましょう。その方が、話し合いはうまく行きます」
ヨアン【司祭】は、四つ目のカップを手に、ようやく残りの席に腰を下ろした。
「私の、ささやかな経験則ですが」
※※※
「では、聞かせてください」
【司祭】は、カップを両手で包んだまま言った。
「どちらが悪いかを決めるためではありません。何が起きたのかを、ここにいる全員が知る必要があります」
沈黙が落ちた。
リリアは、唇を噛んだまま俯いている。
……相当、自己嫌悪に走ってるな。
「——公から話そう」
先に口を開いたのはクロだった。
彼は、カップに口をつけずに言った。
「公はエディンと話していた。そこへ、彼女が来て、話題を変えろと言ってきた。
公は、それを不当だと感じた。先にエディンから席を離れていたのは彼女だ。戻ってきて、自分に合わせろというのは筋が通らない、と」
淡々とした声だ。事実だけを、順番に並べていく。
クロは腕を組み、じっとリリアを見つめる。
「そうだね。そこまでは、間違っていない。アイネイアスの誇りに賭けて、誓おう」
リリアの指が、カップの上で強張った。
「が」
クロは、そこで言葉を切った。
深い金色の瞳が、リリアを見た。
「そのあとは、貴族的でなかった」
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「公は、感情に身を任せて彼女を挑発した。不快な気持ちに身を任せて、傷つけるために皮肉を言った。
それでは、獣と同じだ。理性を持つ人の行いでなく、誇りを掲げる貴族的でなかった」
クロが、リリアに向き直る。
背筋を伸ばして、座ったまま頭を下げる。
「公の言葉が過ぎた。謝罪をさせてほしい。すまなかった」
リリアが目を見開いた。
思わず、僕は小さく笑った。
リリアはきっと、謝られるとは思っていなかったんだろうな。いけ好かない、鼻持ちならない貴族のお坊ちゃんだと思ってたんだろう。
ふふん。すごいだろ。クロは、ちゃんとした貴族なんだぜ。
「…………」
リリアは、しばらく黙っていた。
カップを見て、クロを見て、またカップを見た。
「……剣を抜いたのは」
小さな声だった。
「わたしが、悪かった」
彼女は、声を上げた。
「……ごめんなさい。あなたにも、それから——」
ラウンジを見回す。遠巻きに座っている乗客たち。泣き止んだばかりの子供。
「ほかのお客さんにも。迷惑をかけたわ」
「ええ」
ヨアン【司祭】は、静かに頷いた。
「よく言えましたね」
それから、少しだけ首を傾げた。
「リリアさん。ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「……なんでしょう」
「剣を抜いた理由について。あそこまで怒った理由を、あなたは言葉にできますか?」
リリアの瞳が揺れる。
僕に、一瞬だけ視線が向き、唇を噛んだ。
「……エディンが」
小さく、唇を開いた。
「エディンが、取られると思ったから」
リリアはそう言って、唇を閉ざした。
耳に髪をかけ、スカートのすそを強く握る。視線を窓の外に向けた。
「よく話してくれました」
ヨアン【司祭】はうなずき、僕の方を見た。
「エディンさん。あなたはエレクロス殿と仲良くなったら、リリアさんから距離を取りますか?」
「取らないですよ。何があっても、リリアは僕の大切な仲間ですから」
「仲間」という言葉を聞いて、リリアのスカートを掴む手が、少し強くなった。
「……そうですよね。リリアさんの望むものには少し遠いかもしれませんが。納得できましたか?」
リリアがこくり、と頷いた。
……? あれ、僕は思いのたけを語ったんだけどな。もしや、それがまちがいだったのかな。
首を傾げていると、向かいのクロと目があった。
クロは、目を細めて、リリアを見ていた。それから、僕を視た。
本当に小さなため息を吐いて、ココアを口に運んだ。
……なんで?
「さあ、みなさん」
ヨアン【司祭】が、自分のカップを持ち上げた。
「冷めないうちに」
そう言った、ヨアン【司祭】の勧め通りに、カップに手を伸ばした。
——ごん。
カップが、跳ねた。
※※※
それは、段差を超えたような振動だった。
テーブルの上で、四つのカップが一斉に跳ねた。ココアが淵から溢れて、白いテーブルクロスに茶色いシミを作った。
スプーンが、皿の上でかちりと鳴った。
——おかしい。
「妙だな」
僕の疑念と、クロの声が重なった。
「砂漠鉄道は、宙に浮いている。振動が起きることなど、ありえないじゃあないか」
クロの言葉に、僕はうなずいた。
この列車は浮いている。電磁力を使って浮いているうえ、魔力障壁を使って空気まで薄くしている。
《蒼眼》を、開ける。
クロが立ちあがり、薄く魔力を延ばす。
リリアが腰の剣に手を伸ばす。しかし、その手つきには、どこか迷いがあった。
彼女の揺れた瞳が、僕を見ていた。
僕は振り返り、頷きを返せば、リリアは頭を振って迷いを払い、鞘に手をかけた。
絞っていた視界が、一気に広がった。
車両の構造。床下の炉。壁の中を走る魔力の管。障壁の幕の厚み。乗客二十人の心拍。給仕の人の手の震え。そして——。
後ろ。
車両の、後ろ。
連結から先。
後方車両が、なかった。
「……っ!」
ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん。
警報が鳴りだした。
窓の外の青い膜が、真紅に染まる。静寂に慣れ切った耳に、その音は殴りつけるように響いた。
「な、なに!?」
「事故か!?」
ラウンジが、悲鳴に揺れた。
「ヴィータ」
ローレッタさんの声が、その喧騒を貫いた。
さっきまで優雅に紅茶を飲んでいた人と、同じ人の声とは思えなかった。
外套の内側から、白い銃身が再び姿を現していた。
「ん。ぶれす・れすは半励起状態にしてる」
ヴィータさんが、懐から符——陰陽道でよく使われていた、符を取り出していた。
ヴィータさんが、皿を置いて立ち上がる。
二人が、並んで立って。
——ふたりは、石になった。
「え」
ローレッタさんが、いなかった。
ヴィータさんも、いなかった。
代わりに、その場所に、石の人形が立っていた。
二体。
人の背丈ほどの、灰色の石象。顔も、手も、服の襞も、丁寧に彫られている。
……石化した、わけでもないか。空間の歪みが、わずかに見える。石と交換で、転移させられたか。
——それと。
僕は、もうひとつの石像を見ていた。
ラウンジの入り口。扉の脇。
そこにも、一体。
誰もいなかったはずの場所に、石の人形が立っていた。
……そこには、誰もいなかったはずなんだけどな。《蒼眼》をさっき展開したときにも、いなかったんだけど。
なのに、そこに石像がある。ってことは、誰かがそこにいたということ。
「どう見る」
「空間に干渉してる。魔法の動きじゃないし、魔法じゃ空間に干渉できない。源流能力だと思う」
「組織だった超越者の犯行と見ていいか。なら犯罪組織。それもかなりの大掛かりなもの。
……<アリウスの梯子>か。とんだ大物じゃあないか」
……<アリウスの梯子>、か。
否応なしに思い出すのは、【出雲】での一戦。リューリュ・ヴェティや、イルゲルムといった、類まれなる強者。
あの時は【魔神】の<神話継承>を持つリモルさんによる、規格外の強化があった、でも、今はいない。イルクも、リーリエさんもいない。
おそらく、狙いは先頭車両。僕か、クロかのどちらかのはず。
そんな状況で、相手取れるのだろうか。
「エディン!」
リリアが、立ち上がっていた。
窓に顔を張り付け、後方を見ている。
「後ろの車両が!」
「わかってる!」
窓に駆け寄る。
《蒼眼》を広げ、後方へ視界を手繰る。砂漠が流れていく。その遥か後方に、銀色の細い列が視えた。
第二号車から先の、全部。
そこに、取り残されていた。線路に浮いたまま、そこで止まっている。
距離が、みるみる開いていく。
そして。
第二号車の上に、ナニかが立ちあがった。
黒い。人の形をしている。だけど、人にしちゃあ大きすぎる。車両よりもでかい。……8メテルはある、か。
身体の継ぎ目から、七色の光が漏れている。
赤、青、金、茶、緑、白、そして黒。
単眼を、ぎょろりとこちらに向けた。
「……なに、あれ」
リリアが、腕に立った鳥肌を撫でていた。
「——なるほど」
隣で、静かな声がした。
クロだった。
彼は、窓の外の黒い巨体を見上げていた。その目は鋭く、怜悧なまま細められている。
「エディン」
「おそらくだが、あれは魔法を喰う」
彼は、それだけ言った。
「文献で読んだことがある。あれは、偽造創世神。
魔法を撃ち込めば、その分だけ装甲に変える。大地から力を吸い上げていく。厄介なことに、ここはすでに【熱砂の城郭 アフ・レシス】の近く。燃料は無限にある。時間をかければかけるほど、手が付けられなくなる」
「じゃあ、どうやって倒すのさ」
「魔法でない火力で、一撃で跡形もなく屠る。これしかない」
あっさりと、無茶難題を言ってのけた。
「少なくとも、公には無理だな。公の手札は、ことごとく相性が悪い」
クロは、コートの襟に指をかけた。
黒いコートが、ぬるりと動いた。
「起きろ、エルちゃん」
黒が、応えるように形を変えた。
布じゃない。半分液体のような、黒い何かが、彼の身体を這い上がって、腕を、肩を、足を覆っていく。
「後ろには、二等車から先の客がいる。数百人だ。消えたふたり、いや三人か。あちらにいるはずだが、あれを相手に取りながら客まで守るには、手が足りないじゃあないか」
「待って。倒せないって、今——」
「公には、な。だが、あそこにはヴィータ先輩がいる。エディン」
「うん、視える。貨物車両の中だ」
《蒼眼》を光らせ、ローレッタさんとヴィータ先輩の安否を確認する。
ローレッタさんは、すでに銃を抜いていた。右手に銃、片手に銃と刃が合体したような武器。ヴィータさんを護衛するように背後に回し、ヴィータさんは懐から符を取り出していた。
……その足元には、幾匹もの魔物の死骸。全て一文字に切り捨てられ、床を大量の血で濡らしていた。
……貨物車両から転移させた、ってわけか。やっぱり、予想したとおり。入れ替えは、距離が遠すぎるとできないと見ていい。
術者がどこにいるかを探そうと思い、辞める。
今はそちらを確認するより、先頭車両の護衛が先。あちらはあの二人……いや、三人に任せればいい。
こちらは、こちらのやることをやる。
クロが、僕を見た。
金色の瞳に、あの的あての時と同じ光が宿っていた。
「Breath/Bless Lessが本調子になるには時間がかかる。それまでの、時間を稼ぐ。ここにいることも考えたが、公が本気を出すには、ここは狭すぎる」
「だけど、クロ。おそらく敵の狙いは——」
「おお。わかっている。公か、お前のどちらかだ」
クロはじっと僕を見つめる。
「次期、アイネイアス家の当主か。それとも次期【勇者】。どちらかの身柄だろう」
……やっぱり、クロは僕が次期【勇者】だと気づいていたか。
彼の腕に、黒い半液体の装甲が張り付いていく。液体だったそれが硬い鉄を彷彿とさせる光沢を放ち、そこに魔力の導線が通う。
「公が狙われるとわかっている。だが、この鉄道はアイネイアスの直轄地であり、後方には民がいる。
むざむざ見捨てるような真似は、貴種として、魔法師として下の下だ」
彼は、ラウンジの後方の扉へ歩き出した。
その途中で、一度だけ振り返った。
「エディン」
じっと、僕を見た。
「後ろは、公が持つ」
黒い半液体の装甲が、彼の顔の半分を覆った。
「前は、任せた」
「——ああ」
力強くうなずき。
「任された。そっちは頼む」
扉が開く。
薄い、刃のような風が一瞬だけ吹き込んで——閉じたときには、もう誰もいなかった。
※※※
「アルター、ログマ! 後ろに下がって! 乗客の人をまとめて。アルターは強化用意。ログマは必要に応じて、<生命賛歌>の用意を」
「わ、わかったのです!」
「了解。承知しました」
二人が、ラウンジの奥へ駆けていく。泣きだした子供を、アルターが抱き上げた。ログマが、給仕の人を奥へ誘導し、机でバリケードを作っていく。
「皆さん、落ち着いてください! こちらへ!」
ヨアン【司祭】の声が、警報の中に響いた。
彼は両手を広げて、乗客の前に立っていた。
白い法衣が、警報の光を受けて赤く染まっている。老夫婦の背中を押し、身なりのよい商人や小奇麗な格好をした紳士淑女に方向を示す。
一人ずつ、確実に、丁寧に誘導していった。
……よかった。ヨアン【司祭】がいるなら、後ろをある程度気にせず戦える。
そう思った、瞬間だった。
《蒼眼》が、悲鳴を上げた。
真っ直ぐ。後方車両。
置き去りにしたの後方車両。その前方に、砂煙が一条、こっちに向かってきていた。
何かが、走ってくる。
時速600キロ。先頭車両はいまだ加速し続けている、なのに、砂煙はゆっくりと距離を詰めてくる。
「…………うそだろ」
砂煙の正体は、人だった。
そして、人から魔力が半球状に展開される。
恐ろしく精緻で迅い。一呼吸の間もなく、列車が魔力の探知に包まれた。
そして——。
人は、弓を取り出し、矢を番えた。
「——見つけた」
走りながら、後頭部を通して、剣を構えるように矢を弦にかけ。
「——【司祭】様ァッ!!」
反射的に、ヨアン【司祭】の前に立った、瞬間。
矢が、目の前にあった。
「……ぐ、おおッッッ——!」
反射的に構えていた『亡星』の刀身で、その一射を受け止める。
受け止めたと同時。
音が、裂けた。
矢より後方の窓ガラスが、一斉にはじけ飛んだ。
後方を護っていた扉が見るも無残に砕け散り、赤熱を帯びた車両の軸が、ひん曲がっていた。
——重いっ!
矢が、重すぎる。
たたらを踏み、刃を寝かせているが、流し切れない。
狙いは、明らかにヨアン【司祭】。明確な殺意、怖気が出るほどの害意を乗せた一射は、まるで杭か丸太。あるいは、山。
「ま、ずい……っ」
ジリジリと火花を散らして、刃が押し戻される。
逸らし切れない。靴の裏が絨毯を滑り、身体ごと持っていかれる。
両腕が、悲鳴を上げていた。
肘から先の感覚が、白く消えていく。
このままじゃ、僕ごと弾き飛ばされる。
「——エディン、どいてっ!」
真横から、赤が飛び出した。
リリアだ。
彼女は、剣を抜いていなかった。
鞘ごと腰から外して、両手で握って、真横から思い切り振り抜いていた。
——ごぱんッ。
鞘が、矢の腹を叩いた。
僕が殺し切れなかった残りの勢いが、それで初めて横へ逃げた。
矢が傾く。たたらを踏む。三歩、四歩。靴が絨毯を抉りながら、ふたりでこの暴虐の矢に、立ち向かっていた。
矢が、跳ねた。
上へ、かすかに軌道を変えて飛んで行った。
——ズドンッ!!
轟音と共に、天井が消し飛んだ。
木も、シャンデリアも、鉄骨も。ラウンジの屋根が、まるごと空へ消えいていった。
破片が舞い上がり、赤い光の中で回転しながら散っていく。
そして。
矢が、青い膜に当たった。
それでもなお、猪の如き矢は止まることを知らず、600キロの高速が奏でる圧力にすら耐えた魔力障壁を、大きく撓ませ。
破砕した。
同時に、車両が停止し始める。
大きく、後方へ——。車両の進行方向へ、身体が引っ張られた。
「ぐ——っ」
足に魔力を回し、その反動に耐える。
「え、エディンさん……」
ヨアン【司祭】が、こちらを見ていた。
何が起きたのか、わからない顔をしている。ロザリオを握った手が、震えていた。
「前に出ないで。ここから先は、死地になります」
強く言い切り、両腕を視る。
まだ、痺れている。
リリアが肩で息をしながら、鞘を杖代わりに立っている。その鞘には大きな穴が開いていた。
ぎゃん、ぎゃん、ぎゃん。
警報が、鳴り続けている。
その音の中で。
——ひた。
吹き飛んだ扉の向こうから、足音がした。
衝撃を完全に殺す、特有の音だった。
「——外したか」
人が、入ってきた。
「……まさ、か」
旅装の外套。その下に、濃紺の軍服。手には、飾り気のない一張の弓。
灰色の髪が、高い位置で結ばれている。
僕は、その人を知っていた。
その、ぶれない歩き方。制御された、膨大な人型の魔力。
嵐の船の廊下で会った、あの時と変わらない。
リリアをして、壁にぶつかり続けるほどの船の中を、平地を行くように歩いていた人。
苦い丸薬を、掌に落としてくれた人。
「やあ」
あの時と、全く同じ声で。
「エディンくん。船以来だな」
神獣軍第0期。ネメア隊副隊長。
メーテールさんが、<アリウスの梯子>として、僕の前にたちふさがった。




