崇高なるエネメシス
「——おはようございます」
声をかけられたのは、歌が終わったころ。
人々が、一人、二人と聖堂を出ていき始めたころだった。
振り返ると、男の人が立っていた。
白い法衣。首から下げた、大きな正三角のロザリオ。年は、たぶん四十手前くらい。短く刈った灰色の髪に、目じりにしわの寄った、穏やかな目をしていた。
「早いですね。巡礼の方ですか?」
「あ、いえ……散歩をしていたら、歌が聞こえて」
「ああ、それは良い散歩でしたね」
男の人は、目じりの皺を深くして笑った。
「今日は光曜日——安息の日ですから。夜明けに、一曲だけ歌うのが、この大聖堂の習わしなんです。
申し遅れました。私は【司祭】の、ヨアンと言います。【月睨派】に所属しております」
「エディンです」
「ええ。この出会いを主に感謝を」
ヨアン【司祭】は、正三角の祈り手を組んだ後、僕の顔をじっと見ていた。
……気まずいな。何か僕、やらかしたかな。《蒼眼》の範囲を今は絞ってるから、何考えてるのか読みにくいんだよな。
ヨアン【司祭】が口を開き、
「——何か、悩みを抱えていらっしゃるように見えますね」
予想外の言葉を口にした。
……悩み。悩み、かあ。まあ、あるにはある。考えないようにしていることが、僕には多い。それも果たして、悩みというのだろうか。
主の世界は、極めて素晴らしい、ね。
まいったな。どーにも、さっきの賛美歌の一節を聞いてから、なんだか情緒が挙動不審だ。
答えられず、 【司祭】から目を離す。
ヨアン【司祭】は、それ以上何も聞かなかった。代わりに、聖堂の脇の小さな扉を指した。
「少し、冷えますね。温かいものなどいかがですか。朝の歌の後は、いつも淹れるんですが、どうにも淹れすぎてしまう癖がありまして」
※※※
小さな部屋だった。
聖堂の側廊から入った先の、【司祭】の控室らしい。石の壁に、木の机がひとつ、椅子がふたつ。壁際の窓には、分厚い本と、陶器の壺がいくつか。
小さな窓から、霧の白い光が入ってきた。
ヨアン【司祭】は、机の上の小さな炉——。熱蟲が石を食んでいる炉に鍋を乗せて、そこへミルクを注ぐ。ミルクがだんだんと温められて、やわらかい湯気が立ちあがる。
棚の壺から茶色い粉を匙で掬って、ミルクに落とし、ゆっくりと混ぜる。
甘い匂いが、部屋に広がった。
「ココアです。帝国から入ってくる豆で作るんですが、この辺りでは少しぜいたく品でしてね。安息日の朝だけの、私の楽しみです」
「いいんですか、そんな大事なもの」
「一人で飲むより、二人で飲む方がおいしいでしょう。それに、聖職者は清貧を求められますので。お客人に嗜好品を出したとすれば、星と大地を創られた主もお許しになられるでしょう?」
ヨアン【司祭】はいたずらっ子のように笑う。
湯気の立つ杯が、僕の前に置かれた。
両手で包むと、温かい。
「いただきます」
一口飲んだ。
「……おいしい」
甘い。トロリとして、少しだけ苦くて、ミルクの柔らかさがその苦さを包んでいる。喉を通って、お腹の底に、ゆっくりと温かさが落ちていった。
「……おいしい」
「それは良かった」
ヨアン【司祭】は、自分の杯を手に、向かいの椅子に座った。
「実はですね。私の<継承祈贄>のひとつは、《火加減》なのですよ」
「火加減?」
「ええ。料理人の方が、よく<神話継承>に入れるものです。【司祭】には、あまり似合わないでしょう?」
彼は少し照れ臭そうに笑った。
「でも、朝早く迷い込んでくる方や、告解をされる方に、美味しいココアを出せます。私はそれで、十分だと思っているんです」
ココアをちびちびと舐めるように飲みながら、僕はヨアン【司祭】の方を見る。
<継承祈贄>。
聞いたことがある言葉だった。アレアが言っていた、<神話継承>の中身。
「……あの」
僕は、杯を置いた。
「<神話継承>って、どういうものなんですか」
ヨアン【司祭】の目が、少しだけ丸くなった。
「驚いた。エディンさんは【月睨派】の信徒ではないのですね」
「はい。……でも、いつか。とある<神話継承>に憑かなければいけなくて。でも、<神話継承>というものが何なのか、ちゃんとわかっていないんです」
コップをきゅ、と握る。
嘘は言っていない。でも、【勇者】になる、という核心的な部分は、言えなかった。
【勇者】は<神話継承>の中でも特別な扱いなことは、言われてはいないけどもわかる。
幼少から憧れている初代【勇者】アプレ・ラプルイ。
人類最強にして、最大の王と呼ばれている<雷光>のアルフェウス。
そして、僕が【聖劍宮 アレアライト】で討ち取った、トワ・エヴァンジェル。
視線を床に落とした。
僕単独が物を知らないと思われることは良い。でも、僕の行いで尊敬する先達の名誉を穢したくない。
結果として、ヨアンさんを騙すような真似をしてしまったのが、心苦しくて仕方がなかった。
「……ふむ。エディンさんは、随分と遠い異教の地からいらっしゃったのですね」
ヨアン【司祭】はそういって、少しのあいだ黙った。それから、ゆっくりと頷いた。
「遠い地からよく、聖教の門を叩いてくれました。
わかりました。では——できるだけ、わかりやすくお話ししましょう」
※※※
「エディンさんは、外套を着ていらっしゃいますネ」
ヨアン司祭は、僕の上着に手を向けた。
「はい」
「それが、<神話継承>だとしましょう」
ココアを軽く飲み、立ち上がった。
「その外套に、ポケットが5つあると思ってください」
「5つ」
「ええ。信徒になると、魂に、目には見えないポケットが5つできるんです。
そのポケットに入れる者を、<継承祈贄>と呼びます」
彼は、指を一本立てた。
「たとえば、《パン焼き補正》。
これをポケットに入れると、パンの焼き色がわかるようになります。生地をこねる手の力加減。窯の熱さ。焼き上がりの匂い。
何百年、何千年も前から、何万人ものパン屋さんが積み上げてきた経験が、少しずつ、あなたの手に宿るんです」
「……先人の経験を、借りられる?」
「その通り」
ヨアン【司祭】は嬉しそうに頷いた。
「借りる、というのが一番近く、素敵な表現ですね」
ロザリオを指先で撫でながら、彼は続ける。
「だから、ポケットから出してしまえば、その経験も一緒に消えてしまいます。
入れている間だけ、借りられる。自分のものではなく、みんなのものを、少しだけ貸してもらってるんです」
彼は二本目の指を立てた。
「ポケットは5つしかありません。だから、何を入れるかはとても大事です。
剣士になりたい人は、剣の技や、身体を強くするものを。
農家の人は、土や種、天気を読むものを。そして——それを一緒に考えるのが、私たち【神父】や、その上位<神話継承>である【司祭】の仕事なのです」
「ヨアン【司祭】の、仕事」
「ええ。祈りの比に、信徒の方が相談に来るんです。『私は何をいれたらいいでしょう』と。その人が何になりたいのか、何が得意なのか、どう生きたいのか。
それを一緒に考えて、ポケットの中身を決める。人の道を、ひいては人生を一緒に考え、寄り添うお仕事です」
僕は、ココアを一口飲んだ。
5つのポケット。借りる経験と、いっしょに考える人。
思っていたより、ずっと優しい仕組みだ。
<神話継承>について少し誤解していたな。聖教とか、宗教とか言っていたから、もっと荘厳で堅苦しいものなのかと思ってた。
「でも」
僕は、ふと思ったことを口にした。
「5つしかないんですよね。それだと、いつか足りなくなりませんか? 剣も魔法も、身体も強くしたいと思ったら、すぐに埋まっちゃう気がします」
「良いところに気づかれましたね」
ヨアン【司祭】が、嬉しそうに身を乗り出した。
「そこが、<神話継承>の一番面白いところなんです」
彼は、両手の人差し指を立てる。
そこに少し乱れのある魔法陣を描き、光の文字を浮かべて見せた。
《魔力量微増》と《魔力回復補助》と書かれた光が、空に投影される。
「例えばこのふたつ。 《魔力量微増》と《魔力回復補助》。どちらも、ずっと使い込んでいくと、やがて限界まで育ちます。そうすると——」
2枚の光を、ゆっくりと重ねた。
「くっつくんです」
「くっつく?」
「混ざり合って、ひとつの、新しい<継承祈贄>になります。
ふたつ分の場所を取っていたものが、ひとつになる。つまり、ポケットがひとつ空くんです」
ヨアン【司祭】は、空いたもう片方の掌を、僕に見せた。
「そこへ、新しいものを入れられる。
くっついて生まれた新しい<継承祈贄>は、元のふたつより、ずっと大きく、強く育ちます。倍は育ちます」
……なるほど。
だから、5つのままでいいのか。数が増えるんじゃなくて、ひとつひとつが濃く育っていく。
「そして、ここあらが本題です
【司祭】は、ひとさし指を一本立てた。
「その、くっついて生まれた新しい<継承祈贄>。これを、<固有の継承祈贄>と呼びます。……何が特別だと思いますか?」
「え、えっと……強い、とか」
「いいえ」
彼は、首を振った。
「同じふたつを混ぜても、同じものが生まれるとは限らないんです」
「……え?」
「例えば、二人のパン職人がいたとします。二人とも、同じ二つの<継承祈贄>を、同じように限界まで育てた。
けれど、生まれたものは別々でした。一人には《窯の呼吸》。もう一人には《粉の記憶》が」
ヨアン【司祭】は、机の上で両手を組んだ。
「何が違ったのか。才能。向き不向き。育った土地。食べてきたもの。出会った人。悩んだことの数。——要するに、その人がどう生きたか」
小さな窓から、白い光が差し込んでいた。
「借りものばかりの仕組みの中で、そこだけが違うんです。
<固有の継承祈贄>は、誰かから借りたものではありません。その人が生きた分だけ、その人の中から生まれる。
それは、間違いなくその人の努力の——信仰の賜物なのです」
僕は杯を持ったまま、しばらく動けなかった。
借り物の仕組み。何千年、何万人が積み上げたものを、少しずつ貸してもらう仕組み。
その一番奥で、その人だけのものが生まれる。
「……それ、すごいですね」
言ってから、語彙の少なさがちょっぴり恥ずかしくなった。
でも、ヨアン【司祭】は、とてもうれしそうに笑った。
「ええ。すごいんです。私も、初めて教わった時、同じことを言いましたよ」
「【司祭】様にも、あるんですか。その、固有のやつ」
「ええ。ありますよ。ふたつほど」
彼は、胸のロザリオに手を当てて、何かに祈るように目を細めた。
「何かは、内緒です。司祭にも、秘密のひとつやふたつはあるものです」
ヨアン【司祭】は、いたずらっぽく言った。
※※※
「エディンさん」
しばらくして、彼が言った。
「もし、よろしければ——洗礼を、受けてみますか?」
僕は、顔を上げた。
「洗礼を受けて信徒になれば、あなたの魂にも、5つのポケットができます。あなたがどんな<神話継承>に憑こうと悩まれているのかは存じ上げません。
ですが、何かひとつ、試しに入れてみることはできますよ。どんなものか、わかるかもしれません」
5つのポケット。つまり、<継承祈贄>を得て、<神話継承>につける。
そこで、先人の知恵や経験が借りられる。
ちょっと——いや、かなり興味がある。
「……ありがとうございます。でも、今はやめておきます」
「そうですか」
ヨアン【司祭】は、少しも残念そうな顔をしなかった。
「どこでも教会は門を開けています。お好きな時に憑かれると良いでしょう。ちなみに、理由を聞いてもよろしいですか?」
「<神話継承>には、ちゃんとした道で憑きたいんです。試しに、じゃない。聖教を、【月睨派】のことも、【叡神派】のことも、ちゃんと知ってからにしたい。それに……」
それは、本当だった。
アレアが言っていた。【勇者】に憑くには、【枢機卿】か【司教】に導いてもらうしかない。
何より、ヨアン【司祭】が<神話継承>について本当に敬虔に、親切に教えてくれた。きっと、これが信仰なのだ。それを、軽い気持ちで踏み入るのは、失礼な気がした。
あと——。
「それに……僕には、祈っている相手が、別にいるような気がするんです」
僕が苦しんでいる時に、助けてくれたのも、導いてくれたのも、アルメ=ガファ神じゃない。
悪戯っぽくて、怖くて、親しみがあって。
どこまでも怖い、僕の女神。
アレアライト、その人だ。
「素晴らしい。あなたもやはり、信仰を持っていらっしゃる方でしたか」
ヨアン【司祭】は、嬉しそうに手を叩き、僕を見つめていた。
「信仰があるのならば、それ即ちアルメ=ガファの道に通じます。その御方の名前を、お聞きしても?」
「はい」
僕は自信をもって、ヨアン【司祭】に笑いかけた。
「【司祭】様は——■■■■■■■をご存知ですか?」
ヨアン【司祭】の眉が、わずかに動いた。
困ったような顔で、首を傾げている。
「……申し訳ありません。今、なんと?」
「■■■■■■、です」
……ん?
なんか、変だ。僕の耳では、しっかりと聞き取れる。なのに、言葉が変だ。
《蒼眼》を開き、もう一度、彼女の御名を呼ぶ。
「——■■■■■■」
……なんだ、これ。
音が、ねじれてる。ねじれて、歪んで、ぐちゃぐちゃになっている。
そして、音そのものが抑止力で消されている。
世界に、音がふさがれている。駄々をこねる子供みたいに、世界そのものがその発音を禁じているみたい。
「……あの?」
ヨアン【司祭】が、困ったようにこちらを覗き込んでいる。
少しだけ申し訳なさそうに、僕を見ている。ひどく心配そうな顔で、僕を見ている。
明らかな異常事態。どう考えても、これはやばい。アレアの名前を呟けない? んな馬鹿なことあるか。アルメ=ガファですら名を刻めてるんだぞ。それが、なんで——
——怖気。
あ、これはだめだ。
これは、深く考えたらまずい案件だ。知るだけでろくでもないことを齎す、罠みたいな知識は、東塔にもよくあった。
「……いえ、すみません。何でもないです」
「いえいえ」
ヨアン【司祭】は、穏やかに首を振った。
「よく、聞き取れませんでしたが——エディンさんが大切に思っている御方なのですね」
「……はい」
「でしたら、きっと」
彼は、胸元のロザリオに、そっと手を当てた。
「その御方もアルメ=ガファの御使いでしょう。主の愛は、万人に注がれていますから」
優しい声だった。
心からの、善意の言葉だった。
——ああ。
この人じゃない。
アレアの言っていた、唯一の神官は。この人では、ない。
※※※
「エディンさん」
ヨアン【司祭】は、空になった僕の杯を、自分の杯と並べた。
「生きとし生けるもの、すべてに、主の祝福があります」
窓の外で、霧が少しずつ薄くなっていた。
「もちろん、あなたにも。主の愛は、いつもあなたの上に降り注いでいます。そして、主の試練も、また同じ」
彼は、僕の目を見て、微笑んだ。
「試練は、愛の裏返しです。主は、乗り越えられない試練をお与えにはなりません。いつもあなたを、見守っておられるのです」
…………見守って、ね。
何か、ささくれだったものが、胸の奥に浮かんだ。
あの経験を、試練として与えて、見守るだけなのか。そんなの、あんまりにも身勝手じゃないか。
脳裏に、東塔で無念に亡くなった白骨死体がよぎった。
「……ほんとうに、そうでしょうか」
思わず、言ってしまう。
「主は、神は見守っていられるのでしょうか。本当に見守っているのなら、どうして人は苦しむんでしょうか。どうして、主は助けなかったのでしょうか。それは、異教徒だからですか? 信じるものだけ、救うからですか?」
ヨアン【司祭】は、目を丸くして僕を見ていた。
……言ってしまった。喉奥に留めておくつもりだったのに。なのに、止められなかった。
だって、そんなの酷いじゃないか。苦しみを、ただ見ているだけの神様が、アレアを遣わした、仲間を遣わした、なんて。
あそこで死んだ、東塔で死んだ子らが、越えられる試練を超えられなかったから息絶えた、なんて。
あんまりにも、無慈悲じゃないか。
「……ええ。おっしゃることも、わかります」
ヨアン【司祭】は、静かにうつむいた。
「ですが、信徒だけを見ている、などということはありません。
アルメ=ガファは、すべてを見ておいでです。現世の試練の寒苦を超えられなかったとしても、楽園への道は開かれています。それは、教えを知らない異教の方であっても、変わりません」
……そっか。
やっぱり、アルメ=ガファ神は、見てるんだね。見たうえで、そうしているのか。
ヨアン【司祭】は、「ええ」とつぶやいた。
「無慈悲に思えるでしょう。ええ。わたしもそう思います。しかし、それはアルメ=ガファ神が、生命の自由意思を尊重しておられるからに他なりません」
「自由、意思?」
「ええ。自由意思です」
ヨアン【司祭】は、ココアに唇をつける。
「アルメ=ガファ神は全能です。ゆえに、その手を差し伸べることが、その人にとって良いことであるかわからない。子が望むままだけを与える親が、子を愛していると言えましょうや」
「……それは」
言い淀んでいるところへ、ヨアン【司祭】が頷いた。
「九偉人の第一位、アルフェウス公に曰く。
『主は万物を愛する。主が我らを楽園よりこの世界へ送り出したのは、見捨てたからではない。信じているがため。獅子が我が子を谷へ突き落すように、神は沈黙し、命の自立を待っておられる』と。主もきと、苦しんでおいでなのだと、愚考ながら思います」
「……………………」
言いたいことは、わかる。
お前のために、手を出さないでいた。自立するために、苦しみを見ていたという理屈は、わかる。
それでも、割り切れない。
見ていたなら、どうして、なんであの時——。
その言葉が、のどまで出かかって——今度は、それを飲み込んだ。
「……ありがとう、ございます」
代わりに、そう言った。
声は、ちゃんと出ていたと思う。
ヨアン【司祭】は、少しだけ目を細めた。じっと、僕を見ていた。でも、何も聞かなかった。
「私は、数日のうち【聖都】へ戻ります」
彼は、椅子から立ちあがった。
「エディンさんも、【聖都】へ向かわれるのでしょう?」
「……はい」
「では、また会うとしたら【聖都】で」
彼は、扉を開ける。
霧が薄く、しかし立ち込める街へ、手を向けていた。
「今度は、エディンさんのお話を、もう少し聞かせてください。その、大切な御方のことも」
「……はい。また。ココア、ごちそうさまでした」
僕は、頭を下げて、部屋を出た。
※※※
聖堂の中は、もう誰もいなかった。
長椅子が、静かに並んでいる。薔薇窓からの光は、さっきより白くなっていた。夜明けが、朝に変わったんだ。光の柱の中で、塵だけが、変わらずに舞っていた。
僕は、長椅子の間を歩いて、扉へ向かった。
大聖堂を抜ける。
そのわき道に入り、地下へと続く石段へ足を踏み出す。
——ごぉん、と。
足元が揺れた。
低く、重い振動。大聖堂から石段へと足を踏み入れた途端、靴の底から、身体の芯まで伝わってくる。
列車の振動だ。
大聖堂から駅へ続く道には、もう振動の緩和の設備はない。
僕は、《蒼眼》で一度だけ、大聖堂を振り返った。
薔薇窓の真ん中。
底に描かれた正三角の中の瞳と、目が合った気がした。




