聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな
目が覚めると、そこは暗がりの部屋だった。
いつものように、《蒼眼》が勝手に動く。
天井の梁の木目。壁の漆喰の細かなひび。窓枠の隙間から入る、湿った潮風の流れ。視界が複数に割れて、魔力の流れやら原子や霊子の動きまで視えてくる始末。
廊下の向こうで眠る給仕さんの寝息。
隣の部屋のリリアが寝返りと、その向こうの部屋でアルターが半目から半分落ちかけている姿勢まで。
ずきり、と頭が痛む。ほんと、麻のこの瞬間だけはいやになる。
深呼吸をひとつして、《流月》で視界を人間の範疇に絞る。
……ん、んん。なんかうまくいかないな。視界のピントが広域と詳細を繰り返している。今日はだいぶ調子が悪いかもしれない。
なんとか視界を戻し、あたりを視回す。
静かだった。
ホテル・アドベンチアは、思っていたより梳いていたらしい。昨夜、受付で「おひとり様1部屋ずつご案内できます」と言われて、アルターが目を輝かせていた。
まあ、こういう時は雑魚寝になるのが基本だからね。列車の乗車賃と食費が浮いたからか、アルターもこういう時はお大尽様になる。
「ふわあ、あ」
あくびを漏らして、窓の外を見る。
窓の外は、まだ夜色のまま。
「四時すぎくらいかな」
ひとりごちり、寝台から身を起こす。
向かうは部屋に備え付けられたシャワー。
アドベンチアのいいところは、部屋に温水が出るシャワーが備え付けられているところ。朝食は別料金なのが残念だけど、それでも風呂がないよりはいい。
シャワールームへ入る。
だいたい1畳くらいで、かなり広い。
シャワーの前に立つ……っ、あっつ。
シャワーヘッドの下に足を置いた途端、熱水が勢いよく飛び出てきた。
「へえ。ここのシャワー、魔力式じゃないんだ」
シャワーに取り付けられた足場が、感圧版になっている。踏んだら熱水が出てくるって仕組みなんだろう。
どういう理屈で水をあっためてるんだ……って、ああ。地熱を利用してるのね。
自然の力を余すことなく使ってるのは、なんというかすごいところだね。
洗髪剤を塗りたくり、髪を洗う。ほのかに、オリーブの香りがする。
ごしごし、と髪を洗い、石鹸で身体にまとわりついた寝汗を落とす。
「ふう……」
すっきりした。浄化魔法はあるけど、やっぱり湯あみは大事だね。心が落ち着く。
備え付けのタオルを手に取り、顔と身体の水気を落とす。
アメニティの香油を髪に塗り、なじませる。
あとは適当に編んだ温風魔法で一気に乾かし、<瞬間装着>の魔法で部屋着に着替えた。
ふと、部屋の隅の机が、目に入った。
黒漆の長箱が、机の中央に鎮座している。
昨日、ずっとリリアやログマに預けっぱなしにしていつぉれを、寝る前に自分の部屋へ運んだのだった。
——アルフェウスの遺物。
リーリエさんが、港で僕に渡したもの。
タオルを首にかけたまま、箱の前に座った。
蓋には、封印の札が何枚も貼られている。札の一枚一枚に、朱で翼の生えた蛇の印が描かれていた。リーリエさんの血で描かれた印は、いまだに隠蔽の効果を保っていた。
「……開けて、いいのかな」
口に出してから、自分で首を振った。
あの人の性格からして、開けちゃダメなものはそもそも渡さない。渡したということは、僕がいつか開けることまで、織り込み済みのはず。
札に、指を伸ばす。
触れた瞬間——朱の印が、ふっと光った。
札が、ひとりでに剥がれた。ささくれがめくれるように、一枚、二枚、三枚と。封印が、次々に解けていく。
「……ほら。やっぱり」
最後の札が剥がれて、蓋が、わずかに浮く。
その蓋を、僕は持ち上げた。
——中には、枯れ枝が一本、入っていた。
黒ずんだ、細い枝。小枝ほどの大きさ。長さにして、だいたい僕の人差し指より少し長い。ところところ節くれだっている。
樹皮はひび割れて、ひびの奥が炭のように黒い。
——どろり、と。
空気が、重くなった。
箱の中から、何かがあふれ出してきた。肉眼では見えない、ただ、《蒼眼》には視える。黒ずんだ魔力の霧。枝から、濃い、濃い瘴気が、湧き水のようにあふれ出している。
えづきそうになるくらい、懐かしい不快感。
息をするたびに、肺の奥までそれが入ってくる。
——きぃん、と。
部屋の反対側で、音がした。
壁の武器掛けに立てかけてあった『亡星』が、鳴っていた。鞘に収まったまま、細かく震えている。
「……共鳴しているのか」
僕は、枝を見下ろした。
そして、自分でも理由がわからないまま——手を、伸ばしていた。
指先が、枝に触れる。
枝が、溶けた。
黒い樹皮が、触れた場所から液体のようにほどけて、僕の指に絡みつく。
冷たくも熱くもない。ほどけた枝は、そのまま僕の指の皮膚にs芋込んでいく。指から掌、掌から手首へと、黒い血管となって心臓めがけて伸びていく。
部屋にあふれていた瘴気が、一斉に動く。
「——わっ」
箱の中から、床から、天上の隅から。部屋中に満ちていた黒い霧が、渦を巻いて、僕の方へ流れ込んでくる。一滴残らず、吸い込まれていく。
気づけば、箱は空になっていた。
枝は、なくなっていた。
『亡星』の震えも、止まっていた。
「…………」
自分の手を視る。
何もない。いつも通りの腕、昔からある傷痕。黒いシミなど、どこにもない。
《蒼眼》でも、自分の肉体に変化はない。
「あれだけ、瘴気が入ったのに……」
強く、掌を握る。
爪が食い込み、皮膚に鋭い痛みが走る。感覚すら、いつもと変わらない。
ひどく、嫌な光景のはずだ。
得体のしれない枝が溶けて、自分の中に入ってきた。瘴気を全部吸い込んで、取り込んだ。
普通なら人体に影響が出る量を飲み込んだんだ。何かしらの不調があって然るべきだし、僕の源流能力である【星輝戴星】で耐性が表示されるはず。
なのに。
何もなかった。
胸の奥が静かだ。温かい布団に潜り込んだ時みたいに、僕の身体はひどく落ち着いている。
「…………ああ」
なるほど。これは、懐かしい感覚か。
カビと、血の匂い。
石の壁。鉄の扉。窓から差し込む、薄暗く細い光。
リステリアの東塔で、魔物を狩って、その肉を喰っていたころの空気。下処理ができなかった魔物の肉には、いつも瘴気がしみ込んでいた。
あの頃の空気と同じだ。
「……はあ」
ずし、と気持ちが沈んでいく。
よくわからないし、考える間もなく僕の身体に馴染んでしまった。これじゃあ考察も何もあったもんじゃない。
隣の部屋で、どすんと鈍い音が響く。
おそらく、リリアが寝返りを打ったか、アルターがハンモックから落ちた音だろう。
話す、べきだろうか。
遺物を開けたら枝が入ってて、枝が溶けて僕の身体に入ってきました~、瘴気も全部吸い込んだけど平気ですって。
「おそらく病院送りだな」
言えるわけがなさすぎる。めちゃくちゃ怒られそうな気がするし、説明のしようがない。
「どうしたもんかなぁ……」
肩を落とし、空になった箱のふたを見る。
そして、そっと箱の蓋を閉じた。
うん、視なかったことにしよう。うまくはぐらかすしかない。
それから、しばらく座ったまま、窓の外を視ていた。
夜の色に少しずつ橙色が混ざり始めていた。
朝焼けが、港を照らし始めていた。石畳の道なりにある水たまりが、趣のある街並みを照らしている。
「すこし、散歩してみるか」
<瞬間装着>の魔法陣を描き、部屋着から旅装に身を包んだ。
※※※
置手紙をアルターの部屋の前に置いておいた。
『散歩してきます。10時までには駅にいるから、探さないでね。エディン』
少し雑な内容だったかもしれない。ただ、アルターならうまくやるだろう。
僕は部屋の鍵を閉めて、フロントの鍵入れに鍵を返し、宿を出た。
朝の5時。
霧が出てきた。
白い霧が、アシュドットの最上層を覆っている。石の回廊が、霧の中へ消えていく。数歩先の欄干の聖人像が、ぼんやりとした影にしか見えない。遠くの尖塔は、影すらなかった。
足音が、霧に吸い込まれる。
「人通りがない」
湿った空気に、僕の声がぼんやり落ちる。
屋台通りの天幕は畳まれたまま。店の扉は閉じたままだった。昨日あれほどにぎやかだった回廊に、今は僕の足音しかしない。
ずっと下の方から、時々声が上がってくる。港だ。下層の港は、もう動き始めている、荷を下ろす掛け声。船を呼ぶ声。それが霧を通って、くぐもった響きになって、最上層まで届いてくる。
海の男の朝は、やっぱり早いんだな。
ぼんやりとそんなことを考えながら、ぶらぶらと街を歩く。
行先は決めていない。なんとなくそこら辺を歩き回りたくて、歩いているだけ。
行く当てを決めずにぶらつくのも、たまには悪くないだろう。なんかお腹も空いてないし、こういう日があってもいい。
欄干にもたれかかって、霧の中で目を閉じる。霧がぼんやりと温かい。寒いかなあ、と思ったけど、思ったよりあったかい。
温暖な気候の影響だろう。
なんて考えながら、ぼーっとしていると。
霧の向こうから、歌が聞こえてきた。
※※※
音をたどって、音源へ向かう。
そこは、大聖堂。
大きな岩の扉が、空いている。ステンドグラスには、ぼんやりとした灯りがついている。
昨日、夕暮れに見上げた黒い双塔も、今は霧に隠れて見えない。見えるのは、大口を開けている巨大な正面扉と、その周りを取り囲む九偉人の彫像だけ。
聖劍を持つ青年と蛇を従えた少女の石像が、霧の向こうから僕を見下ろしていた。
歌は、扉の奥から聞こえてくる。
中に入る。石扉を越え、声の元へと足を運ぶ。
——息を、呑んだ。
広い。
外から見た時より、ずっと広い。石の柱が二列、奥へ奥へと並んで、その上に天井がある。
天井は、遥か上だ。石の骨組みが、何本も何本も、柱から伸びて、天上の真ん中で交叉している。
巨大な生き物の、肋骨の中にいるみたいだ。
そして、光。
正面の壁、祭壇の上に、丸い窓があった。
あれは、薔薇窓というらしい。
何百という色ガラスを、花弁のように組み合わせた円い窓。その真ん中には、正三角の中に一つの瞳が描かれている。
周りを囲む一枚一枚に、何かの絵がある。
渦巻く炎の瞳。
満ちた水の真球。
雲と雷鳴を象った三叉槍。
正三角の大地。
緑枝の生えた逆十字。
白く輝く閉じた瞳。
闇の中に浮かぶ、翼ある蛇。
夜明けの光が、その窓を通っていた。
赤、青、金、緑。色を帯びた光が、霧の粒に当たって、何本もの柱になって聖堂の中へ差し込んでいる。光の柱の中で、細かな塵がきらきらと舞っていた。
その光の下に、人がいる。
三十人ほど。長椅子に並んで座って、正面の祭壇に向かって、歌っていた。
お年寄りが多い。でも、若い人もいる。
子供を膝に乗せた母親もいる。漁師らしい、日焼けした腕の男の人もいる。みんな、胸元の正三角のロザリオを握りしめて、歌っていた。
——聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。
——主の世界は、極めて素晴らしい。
そんな言葉が、歌の中にあった。
声は大きくなかった。でも、天井の石の骨組みが、その声を受け止めて、何倍にも膨らませている。
反響を繰り返し、遅れて声が重なって、聖堂の隅々まで響かせていた。
全部が重なり、溶けてはやがて大きな旋律になって、光の柱の中を昇っていく。
僕は、入り口の近くに立ったまま、動けなかった。




