エレクロス・ドゥ・アイネイアス
しん、と。
屋台通りが静まり返っていた。
からん、と転がった最後の的が、木の台の縁で止まる。その音が消えた後、しばらくは誰の音も聞こえない。
——わっ、と。
歓声が沸き上がった。
「すげえ! 貴族のボンボンにひょろがりが勝ったぜ!」
「ヒューッ。見たかよ今の! あれじゃあ貴族のお坊ちゃんも形無しだぜ!」
「いいぞー、兄ちゃん! 貴族のボンボンに思い知らせてやれ!」
粗野な歓声ばかりが聞こえる。聞こえるのは全部、人垣の外からだった。革鎧の冒険者。旅装の商人に、港から上がってきたばかりらしい、他国の船乗り。
彼らが拳を突き上げ、口笛を吹いては楽し気に肩を叩きあっている。
「……そんな」
内側はお通夜のような空気だった。洒落た長靴をはいた紳士が、信じられないものを見る目をしている。港湾で働いているらしい日焼けしたおっちゃんが目を伏せ、ローブ姿の女性魔法師が絶句している。
地元の人たちは、ひたすら金髪の彼が敗れたことが信じられないような顔つきで。
どこまでも、心配そうな目で、彼を見ていた。
「……ふ」
少年が、肩の力を抜いた。
金の髪が、ゆるく揺れる。彼は空になった珠を台の上に置いて、両手を広げた。
「おお、どうした、皆。何を暗い顔をしている」
少年は衆目を自分の元に集める。
冒険者たちは、怪訝な目で彼を見る。対して地元の人は、不安そうな顔で彼を見ていた。
「勝者は彼だ。互いに全力を出し合い、その末に負けた。それだけのことじゃあないか。何をそんな葬式のような顔をしている」
「しかし、エレクロス様……」
「くどい」
エレクロス——と呼ばれた彼は大衆を見る。
「まずは、礼を。心配してくれて、応援してくれてありがとう。期待に応えられず、敗れてしまった。が、それでもお前たちが顔を暗くするのは、勝者たる彼に失礼だ」
エレクロスは僕の肩を叩き、前髪をかきあげる。
「むしろ、喜ぶべきじゃあないか。これだけ優秀な人材が、聖教国に来てくれた。それは素晴らしいことじゃあないか。ならばだ、それを称えるべきであり、公を心配するより、彼をほめたたえるんだ。でないと、彼がいたたまれない」
人垣の内側がざわ、と揺れた。
人々の眼に活が入り、わあっと歓声が上がる。
「すごい! エレクロス様を破るなんて!」
「あの魔力操作。まさに麒麟児と呼ぶべき技!」
……うーん。なんだかな。
ちゃんと本心で褒めてくれるのはわかるけど、それでもなんだかこう、言わせている感が否めない。
「すまないな。少し気分の悪いものを見せた」
ぽん、とエレクロスは僕の肩を叩いて、屋台へ戻る。
「え、エレクロス様……」
店主のおじさんが、おそるおそる、台の下から景品の袋を取り出した。食事券の束と、黒い石。それを、僕ではなく、エレクロスの方へ迷いなく差し出す。
一瞬、エレクロスの視線が闇瑪瑙へと向けられた。
「ど、どうぞこちらを」
「何をしているんだ」
エレクロスが片眉をひそめる。片手でそれを制し、僕の方へ指先を剥ける。
「勝ったのは彼だ。彼に渡せ」
「し、しかし——」
「公は敗者だ。敗者が景品を受け取る道理がどこにある」
おじさんは、エレクロスと僕を、三往復ほど見比べた。それから、諦めたように、袋を僕の方へ差し出した。
ずしり、と重い。食事券が十枚。その下に、拳ほどの黒い石があった。
でも、なんだろうな。素直に喜べないというか、なんというか。気分がよくない。
「時に聞くが」
エレクロスが台座から上体を起こし、僕に近寄ってきた。
「その闇瑪瑙はいい品だろう? 公もそれ目当てに本気を出したのだ。何に使うかくらいは聞いてもいいか?」
「え、いりませんけど」
「ん?」
エレクロスが沈黙した。
人垣のざわめきが、少し静かになる。
少年は、顎に手を当てた。深い金色の瞳が、僕の顔と、僕の手の中の石を、ゆっくりと往復する。
「……んん?」
彼は大きく首を傾げた。
「じゃあ、聞かせてもらおうじゃあないか。お前は、何のために公と勝負したんだ?」
「そりゃ、食事券のために決まってるでしょ。エレクロス……さんは、石が好きな特殊な食癖の方?」
石なんかいらないよ。アルターがいたらうひょひょひょとか言いながら売り捌くかもしれないけど。その金が僕の懐に入るわけでなし。飯代になるわけでもないものを持って帰ってどーするのよ。
エレクロスを見る。
口をあんぐりと開け、僕を茫然と見つめている。深い金色の瞳が丸くなり、薄氷のようにすました顔が、一瞬、完全に空白になった。
それから。
「——ハ」
肩が揺れる。
「ハハハハハ!」
少年が、笑いだした。
腹を抱えて、身体を負って。金の髪を振り乱して、屋台通りに彼の笑い声が響き渡る。人垣の内側の地元の人たちが、目を見開いていた。
「そんな。こんなばかげた話があるのか! 十万の宝石ではなく、一万テレスの食事券一枚で公と魔法勝負をしたのか……っ、く、ハハハハハッ!」
「そんな笑うことかな。仕方ないじゃん、小遣いが三万テレスだったんだから」
「普通はそれで満足するじゃあないか、ハハハハハ! 後ろに浮かしているのでは足りんのか!」
彼は僕の後ろを指さした。
背後には、《統巡》で浮かべたままの紙袋が、ぷかぷかと五つ浮いている。袋はだいたい、僕の顔よりでかいのがほとんどだ。中にはアルフマリー焼きと、カルサのカニが入っている。
「仲間のみんなと分けるやつだからね。一人で食べたいけどさ、食べちゃダメだろ」
「その量を一人で食べきれるわけがないじゃあないか、普通は……っ、だめだ。笑い死ぬ……!」
ありえんくらい笑うじゃん。
腹痛をこらえるように地面にうずくまり、目端に涙を浮かべて、息を切らしながらまだ笑っている。本当に失礼なやつだ。
ようやく落ち着いたのか、彼は指の背で目元を拭い、僕に向き直った。
さっきまでの好戦的な目じゃない。もっと静かで、もっと柔らかい目だった。
「自己紹介がまだだったな」
土汚れを払い、彼は白い貴族服の胸に手を当てた。
「公はエレクロス。アイネイアス家の次期当主にして、砂漠第三都市「ロー・ヤヘル」の領主を務めている。エレクロス・ドゥ・アイネイアスだ」
——アイネイアス。
僕の胸元。シャツの内側に入れた青い石が、ひんやりと肌に触れた。
イルクからもらったペンダントに、少し意識が向いた。銀の蛇の家紋。イルクの本当の名前である、フレドリクス・アイネイアスと同じ。
<叡智の学堂>の学園長であり、この街を作ったリヴェータ・ロットアイネイアスとも同じ名前。
それから——さっき、モーリス君が持っていた魔導書。あの皮肉っぽい著者も、アイネイアス。ヨネル・アイネイアスだったはずだ。
「……エディン」
考えを振り払い、エレクロスと向き合う。
「エディン・イラ・リステリア。エディンでいいよ」
右手を差し出す。
彼が、その手を取った。
ほんの一瞬、彼の呼吸がわずかに止まった。
握った手の力が変わったわけじゃない。表情が動いたわけでもない。一瞬、肺の動きが止まっただけ。《蒼眼》を絞っていなきゃ、見落としていたくらいの反応。
彼は何も言わずに、握手に応じた。
「——エディン」
名前を一度だけ口の中で転がした。
「おお、なら、公のことも好きに呼ぶといい」
「じゃあクロで」
「切り抜きすぎだろう」
ふたりで一緒に笑って、手を離した。
※※※
「おお、店主」
クロが振り返った。
おじさんの肩が、びくりと跳ねた。
「迷惑をかけたな。これは謝礼だ。受け取ってくれ」
コートの内側から一枚の紙を取り出し、魔力で文字を紙に刻み付けた。七桁の数字が刻まれた小切手を、彼はおじさんに手渡す。
おじさんの眼が、その数字に落ちたとたん、顔が真っ青になった。
「う、受け取れやせんぜ、こんな大金!」
「構わないじゃあないか」
クロは涼しい顔で言う。
「ここでは優秀な魔法師を見つけたら、大婆様に報告して、報酬をもらうシステムだろう? なら、これは口止め料。公がここで暴れたこと、見逃してはくれないか?」
……え?
おじさんの顔を見ると、おじさんは目を泳がせていた。
なるほど。この屋台は、遊びじゃなかったのか。事実上一等が取れないほど難しい的当て。それを取れるほどの魔法師がいたら、上に報告する。その代わりに、お金がもらえるって仕組みか。
むう。どうやら、相当に網を広げてるんだね、ここの支配者は。
「公が市民のための魔法露店で、大人気なく本気を出した。露呈すれば大目玉じゃあないか」
クロは、少しだけバツが悪そうに頭を小さく下げた。
「ここはひとつ。公を助けてほしい」
おじさんは、小切手とクロの顔を、しばらく見比べていた。それから、深く頭を下げて、小切手を両手で受け取った。
「……へい。俺は、何も見てやせん」
「ありがとう。恩に着る」
クロは頷いて、マントの裾を翻した。
人垣が、自然に割れる。彼は一度も振り返らず、そのまま——。
「——待って」
行かせる前に呼び止めた。
彼が足を止め、僕の方を振り返った。
僕は、袋の中から黒い石を取り出して、彼の方へ歩いた。人垣の内側の視線が、一斉に僕に集まる。
その中を歩いていき、石を差し出す。
クロは、それを見下ろして、僕を見た。深い金色の瞳が、少しだけ冷たくなった。
「何のつもりだ」
声も、少しだけ冷たくなっていた。
「公は、施しを受ける気はないぞ」
……なるほど。やっぱり、そう考える人か。
「勘違いしないでほしいんだけど」
なら、やり方はひとつしかない。
「最後に撃ち落とせたのは、クロの魔法が優れていたからだ。クロの弾が、あれだけの威力をもってなかったら、僕の一撃では的を倒せなかっただろう。
過程はどうあれ、最後に的を落としたのは、君と僕の協力だろう」
彼の眉が、ぴくりと動いた。
「なら、僕だけ景品を取るのは卑しい話。そうは思わないかい?」
僕は、片目を瞑ってみせた。
ウィンク、というやつだ。アルターやリリアがよくやっているのを見て、ちょっと練習したんだ。
うまくできたかはわからない。
でも、エレクロスの頬から冷たさが消え、笑みが浮かんでいた。
彼は、僕の手から石を受け取った。掌の上で一度、転がす。黒い石が午後の光を吸って、鈍く光った。
「……ありがとう」
小さな声で、僕に礼を言った。
「妹が、こういうのを集めるのが好きなんだ。恩に着させてもらおう」
「何の話? 僕にはいらないものだからね。受け取ってくれて助かるくらいだ」
クロは、右の口端を持ち上げ、いたずらっぽく笑った。
「ではな、エディン」
深い金色の瞳が僕を見て、踵を返した。
「学堂の本受験で、会おう」
それだけ言って、彼は歩き出す。
彼の背中が、屋台通りの街並みに溶けていく。
人垣が、ゆっくりと崩れていった。地元の人たちが、ひそひそと何かを話しながら、それぞれの方向へ散っていく。冒険者たちが、僕の肩を叩いて去っていく。
僕は、その場に立っていた。
手の中には、食事券が十枚。
背後には、ぷかぷかと浮いた紙袋が五つ。
「朝食には、ちょうどいい量が買えるかな」
僕も、屋台通りの雑踏へ、足を踏み出したのだった。




