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アシュドット教区





 世界が、回っているぅ……。

 正しくは船。船が回って、海が回って、その全部の被害が僕の胃袋を逆さまにシェイクしていた。


「……ゔ」


 船室の寝台に、僕は転がっていた。

 窓の外は、灰色一つ。横殴りの雨と、押し寄せる壁のような風。その向こうで、海が山になっていた。黒い水の山が盛り上がっている。

 

 ぐん、と床が持ち上がる。

 ふわ、と一瞬の浮遊感。

 重たく、落ちる。


「……うぅ」


 白米八杯が、喉の奥で暴れている。

 鉄鍋で揺すられる炒飯ってこんな気分なんだな。


「エディン、大丈夫?」


 リリアの声が耳元で掠れる。

 彼女は寝台の脇に座って、僕の背中をさすってくれている。船が傾くたび、彼女の身体がぐらりと揺れる。

 なのに、平気な顔をしている。彼女は化け物だ。いくら体幹がすごいからって、この揺れで何も感じてないのは、人間の領域を卒業している。


「……だいじょうぶじゃない」

「でしょうね。顔が緑色よ」

「髪と同じか……」

「それよりもっとひどいわ」


 僕は目を閉じた。

 閉じても、《蒼眼》が働いている。


 双胴船の構造から、魔力の炉心まで。勢いの強い海流を利用して、退魔の影響の薄い高部で魔力を生成しているのが視える。壁材に銀が敷かれているのはたぶん、海の退魔の影響をなくすためかな。


 ……うぷ。現実逃避ができないよぉぇ……。


「提供。エディン、お水です」


 ログマが水差しを差し出してきた。


 彼は平気そうだった。当たり前だ。マグロだ。魚が船で酔うわけがない。赤いマントをたなびかせながら、いつも通りの顔を曝している。


「……ありがとう」


 水を、ひとくち。

 胃が拒絶反応を起こしている。


「……ううぅ」

「ご愁傷さまなのですよ~」


 向かいのハンモックから、のんきな声。

 アルターは、毛布にくるまって本を読んでいた。ページをめくる手が、船の揺れと完全に同期している。商人だからか、船揺れには慣れているらしい。


「アルター、少しは心配しなさいよ」

「心配はしているのです。でも、船酔いは心配しても治らないのですよ。時間か、薬か、慣れなのです」

「慣れね」

「慣れです」

「「慣れ~!」」

「僕を挟んでコントするのやめてくれない……?」


 慣れ~と言いながらハイタッチするふたりをしり目に見ながら、ベッドに頭をうずめる。


 ぐん、と床が持ち上がる。

 ずん、と沈んだ。


「……うぐ」

「はいはい。背中さすってあげるから、吐くなら桶に吐きなさい」

「吐かない……」

「意地を張らないの」


 やわらかい言葉を言いながらリリアが頭を撫でてくれる。

 思えば、本格的な普通の船旅ってのを経験したことがなかった。【赤戦神艦】ではほとんど揺れがなかったし、さすがに東塔での生活ではここまで揺れた経験がない。


「まあ、ここは外洋なのですよ。しかも、ふたつの海流がぶつかってできた、どでかい渦潮、津島大渦があるのです。そりゃ、天候も荒れるのですよ」


 トロピカルドリンクを飲みながらアルターがサングラスをかける。

 この曇天でつけてなんの意味があるのだろうか。シェイクされすぎて頭がおかしくなったんじゃないか。サングラスつけながら本を読むバカがどこにいるんだ。


「……薬」


 僕は、うめいた。


「医務室で、お薬もらってくる……」

「あら。取りに行くの?」

「いく」

「無理しないで、わたし取ってくる——」

「いく」


 寝台から身を起こす。

 あぁ~、世界が回る~……。リリアの顔がふたつにみえる……マジで気持ち悪い。東塔で魔物を狩ってた時に内臓かき回されたとき並みにキツイ。


 ……いや、さすがにあれよりかはマシか。


「随行。ワタシも付き合います」

「わたしも行くわ」

「ならアルターは留守番なのです。荷物を見張ってるのですよ」

「嘘おっしゃい。どうせめんどいだけでしょうに」

「読書という神聖な行いがあるのですよ」



 ※※※





 廊下は、地獄だった。

 船室より揺れる。壁に手をつきながら、一歩、二歩と進む。そのたびに床が逃げる、天上の魔導灯が振り子みたいに動いて、影が縦横無尽に走り回っている。


 僕の前をログマが歩き、隣をリリアが歩いていた。


 さすがのふたりでも、ふつうに揺れていた。

 波がぶつかるたびに、壁にぶつかっては体勢を立て直し、また肩をぶつけている。体幹に関してはイルクに褒められるほどの彼女ですら、この嵐の中では酔っぱらいのようにしか歩けていない。


「……きもちわるい」

「さすがに揺れが激しくなってきたわね」


 リリアが額の汗をぬぐいながら、前を見る。


 医務室は、廊下の突き当りだと聞いている。

 あと十メテル。それなりに広く、豪華な廊下なのに、すれ違う人が全くいない。やっぱりみんなこの揺れはしんどいのだろうか。《蒼眼》の範囲を絞っているからまったくわかんないや。


 ——ひた。


 船の揺れとは違う、人の歩く音が廊下の向こうから聞こえた。

 足音だけが、聞こえる。壁にぶつかる音も聞こえず、極めて一定のリズムで歩く音が聞こえる。


 つまり、この船中で、揺れずに歩いている人間がいる。


 顔を上げた。

 

 女の人だ。

 灰色の髪を、高い位置で結んでいる。俗にポニーテールと呼ばれる髪型が、船の傾きとは無関係に重力にのみ従っている。

 黒に近い濃淡の軍服。胸には正三角の、聖教のロザリオ。右の胸にはいくつもの勲章のような金飾り。金の釦があしらわれた仕立ての良い、しかし悠久を感じさせる凄みのある軍服を着崩さずに着こなしている。


 その人が、廊下を歩いてくる。

 揺れる床の上をものともしない。その歩みは平地にいる人のそれで、揺れを知らない人の歩みであった。


「——あ」


 女性の、膨大な情報が脳にあふれ込んでくる。

 《蒼眼》を絞るのを忘れて、その魔力と力が目に飛び込んできた。


 魔力。人の形をした魔力の塊が、廊下をこちらへ歩いてきている。量だけなら、僕が今まで見た中でも五本の指に入る。リモルさん、リーリエさん、イルゲルムに並ぶ。

 量もそうだが、質でもリーリエさんに負けていない。彼女の魔力は、一切の無駄なく彼女の身体の輪郭に沿っていて、出力がしっかりと安定している。


 リモルさんなどを見ているとわかることだが、膨大な魔力を持っている人ってのは出力が安定しない。量が多すぎて、端数の制御が困難なのだと、リモルさんは語っていた。


 それがどうだ。

 研ぎ澄まされている。


 刃を見たときに、よい刃だとわかるのと同じ。彼女の立ち姿は、凄絶な「武」の香りが立ち込めていた。


 軍人らしき彼女が、すれ違う。


「——どうした」


 声が、振ってきた。

 低くて、よく通る声。彼女は僕の前で足を止め、身をかがめて、僕の顔を覗き込んだ。


「顔色が悪いな。船酔いか」

「……は、い」

「ずいぶんとひどい酔い方をしているな。目の焦点が合っていない。吐けたか?

「吐いて、ないです」

「吐くといい。楽になるぞ」

「………………」


「あー…………」


 女傑はとなりを歩くリリアに目を向けると、苦笑いを浮かべた。


「そうだな。うん、女の子が隣にいるんだからな。意地を張るのは当然か」


 ふふ、と彼女は笑う。


「かっこいいじゃないか、少年」


 彼女は髪をかき上げる。

 軍服の懐へ手を入れ、小さな革の包を取り出した。中から指先ほどの丸薬をひとつ摘まみだす。黒っぽい、艶のない丸薬。


「飲むといい。神獣軍にいたころ、閣下やローグ将軍と共に作ったものだ。船と獣車、あとは空にも効く。すごいぞ、たちどころに酔いが消えるからな」

「……いいん、ですか」

「もちろんだ」


 丸薬が、僕の手に落とされた。

 《蒼眼》で、反射的に視る。


 変なものは入っていない。薬草といくうかの鉱物を生薬にして固めた、まっとうな酔い止めだ。

 ログマがすかさず薬へ鼻を寄せ、嗅ぎ薬を行って、首を傾げつつ頷いた。


(安全。問題ありません。ただ配合がワタシも知らない組み合わせです。迷宮都市国家にはない素材を用いていますが、問題ないかと)


 ログマの耳打ちに首肯を返す。

 口に薬を放り込み、飲みこむ。


 苦い。

 舌の上で溶けて、喉へ落ちる。唾液が遅れて溢れ、食道を唾と共に胃へ届いた瞬間——胃袋が、静かになった。


 回っていた世界が、止まった。


「……あ」

「効いたか」

「効きました」

「結構」


 彼女は身を起こし、僕の頭をわしわしと撫でた。


「偉いぞ、少年。うん、すごい鍛え方をしているな。船旅は初めてか?」

「あるんですけど、ここまで揺れたのは初めてです」

「ほう……」


 彼女は狼のような端正な顔に思案を浮かばせ、また笑いかけてきた。


「そうか。そういうこともあるだろう」

 

 彼女はそういうと革袋を取り出し、僕の掌の上に載せた。


「ここからアシュドットまで長い。うん、私は平気だから、仲間と分け合うといい」

「いいんですか?」

「いいとも。船上とはいえ、多生の縁だ。持っていきなさい」

「……ありがとうございます!」


 ぺこり、と頭を下げる。


「うん、構わない。私はメーテール。きみは?」

「エディンです! エディン・イラ・リステ——」


 一瞬。

 本当に、一瞬だけ。


「——ほう」

 

 灰色の瞳が、細くなった。

 喉元に、刃を添えられたような。獲物を見つけた肉食獣のような、野性味を帯びた視線が、僕に当てられた。


 それはすぐに消えて、彼女は懐からもうひとつ、何かを取りだした。

 薄い、金属の板。名刺だった。それを僕の手に置いて、彼女は言った。


「うん。先も名乗ったが、改めて。わたしはメーテール。船で困ったら、それを船員に見せるといい。多少は融通が利く」

「……ありがとう」

「礼はいい。よく吐くのをこらえたな。偉いぞ、エディンくん」


 それだけを言って、メーテールは廊下を歩いて去っていった。

 揺れる廊下の上を、やはりものともせずに。


 軍靴の音がぶれることは一度もなかった。



 ※※※




「……すごい人だったわね」


 リリアが息を吐きだし、腰にやっていた剣から手を離した。


 僕は、手の中の金属板を見た。

 薄い鋼に、文字が刻まれている。


 ——神獣軍、第0期。ネメア隊副隊長、メーテール。


 ネメア隊。

 その名を、つい最近本で読んだことがある。イルクから渡された『世界再征服記』。

 二千年前の西方連合にて、【勇者】アルフェウスが率いた神獣軍の中で、最も強壮であったとされる精鋭部隊。


 戦記には、こう記されてあった。


 ——ネメア隊は最初、一万の数を誇った。終戦を見たものは、1500に満たない。


「ネメア隊……」


 リリアが板を覗き込んで、息を飲んだ。


「そう。道理で」

「道理で?」

「佇まいがすごすぎたもの。二千年前から生きる伝説なら、当然ね」


 彼女は、柄頭に手を置いた。


「わたし、体幹だけは人並みより上なの。それでも、今日の嵐は立てなかったの。その中で、あれは当然のように歩いていた。——怖いわね」

「怖い?」

「ええ」


 リリアは赤い髪を払い、彼女の消えた先を睨む。


「あれは、何百回も死線を潜った殺しの腕よ。わたし、何度か殺気を飛ばそうとしたのだけれど……」

「おい」


「その度に、抵抗もできずに片腕と首を落とされるイメージを、叩きこまれたわ」


 リリアは冷や汗を拭いながら獣笑を浮かべる。

 ……そのレベルか。となると、僕とリリア、さらにアルターの強化補助があってなんとか防戦ができる、って領域だな。

 

「ふふ、世界は広いわね」

「提案。エディンの顔色も戻りましたし、部屋へもどりましょう」

「そうだね」


 ログマの提案に従い、帰路へ着く中、思考を回す。


 神獣軍、ネメア隊。

 リリアが剣の間合いで、手も足も出ないほどの怪物。

 なぜ、それほどの至高がこの船に乗っているのか。極西の大国の特記戦力クラスが、なぜ極東にいるのか。


 なぜ、僕の名前を聞いて目を細めたのか。


 わからずじまいのまま、部屋の前へ僕らはたどり着いた。





 ※※※






 嵐は、夜半に抜けた。

 窓の外の灰色が黒に変わり、横殴りの雨が小雨に変わる。そこから雨が止んで、星が出た。

 僕は、そのころには眠っていた。


 薬がよく効いたのか、それとも酔いで体力を使い果たしたのか。眼が覚めた時には、船室の窓から白い光が差していた。

 朝のひかりだった。


「おはよう、エディン」


 リリアが窓辺に立っていた。


「見て」


 僕はリリアが指さすまま、窓に顔を寄せた。


 ——黒い塔が、二本立っていた。

 海の彼方。まだ、到着には遠い。それでも、朝の逆光に、二本の黒い針が照らされているのが視える。

 

 それは、建物というよりも、黒い山だった。

 山というには街に近すぎ、城と呼ぶにはあまりに荘厳すぎる。尖塔の間には大きな三角屋根と薔薇窓のついた聖堂があった。


「……あれが」

「アシュドット大聖堂。ゴシック建築ってやつかしら。聖教の大都市のシンボルね。エディン、行きましょ!」

 

 大いびきをかいてハンモックから落ちているアルターをまたぎ、本を顔に載せたまま寝ているログマを起こさないよう、こっそりとリリアと一緒に甲板に出る。


 潮の匂いが、昨日とは違っていた。嵐の後の、澄んだ海の匂い。海は嘘のように薙いでいて、双胴船は白い航跡を轢きながら、まっすぐ黒い塔へと向かっている。


 塔が、近づく、

 その根元から、白が現れた。


 白亜の町。

 黒い双塔を頂点にして、その下に白い石の建物が無数に、幾層にも積み重なっている。尖ったアーチ。尖った屋根。尖った窓。すべてが上に向かって尖っていて、鋭い石造同士を、石の端が縫い合わせていた。


 街が、空中にあるんだ。


 とにかく橋が多い。

 建物と建物の間を、何本もの石造りの橋が渡っている。

 それも、一階だけではない。二階、三階、五階、その上。空中、何層もの橋がある。橋には屋根があり、欄干があり、小さな塔があり、聖人や魔法師の像が並んでいる。

 その橋の上を、人が歩いている。ローブを着た人が多い。冒険者もいるが、【伯方】のそれより少ない。あそこと比べて全体的に落ち着いていて、上品な人が多い。


 店も様々。肉料理より、魚料理の屋台が多いだろうか。しかし不思議なもので、煙突らしきものがどの建物にも見当たらない。煙が、空のどこにも上っていない。


「なんで、あんな高いところにみんな住んでいるんだ」


 不思議なのは、どこを見ても下の階層には民家がないこと。あばら家すらない。


 答えは、船が港に近づくにつれてわかった。


 町の一番下。地面のあるべき場所。

 そこに、川が流れていた。


 低階層の街路が、川になっていた。黒の水路が街の底を網目のように走り、その全部に、昨夜の嵐の水が流れている。


「おお~~……っ!」


 船が近くを通った時、轟音が響く。

 航路の少し遠くに、滝のような水が流れている。白く泡立った濁流が、建物の根元を新井、橋脚を割り、街の外へ向かって走っていく。

 建物の基礎は、水の来る側が船首のように尖っていて、濁流を左右に割いて勢いを殺ていた。


 そして——上を見ると。


 石の悪魔が、水を吐いていた。


 ガーゴイル。

 屋根の縁、塔の角、橋の欄干、街のあらゆるところに据えられた石の怪物は、すべて本を抱えている。

 すべての口から、水を噴き出している。屋根に降った雨が、雨樋を伝って悪魔の口を通って滝となり、街の水底へと落ちていた。


 何百、何千の滝が、白い上層を通って、黒い壁面へと流れ落ちていく。


 僕とリリアは、圧倒されたまま街を眺めていた。


「これが——」


 これが、聖教が誇る最大の貿易港のひとつ。

 僕らの行先に通じる、大都市にして、イルクの義母たる人が治める街の一つ。


「リヴェータ・ロット・アイネイアスの直轄地。アシュドット教区か……!」


 【伯方】を超える大都市に、僕らはたどり着いたのだ。

 

 

 

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