日出処から、日没処へ
飛び出した先の空は、薄曇りだった。
灰色の雲が低く垂れていて、朝の光を鈍く衰えさせている。潮の匂いを含んだ風が、走る僕らの額をなでていく。春先の潮風が、どこか肌寒い。
【伯方】の大通り。
白壁の蔵が両側に並び、薄灰色の石畳がまっすぐ港へと落ちていく道。獣車が通る大通りを、僕らは全力で駆け抜けていた。
「エディン! 速い! 速いのですよ! 身体が、身体が後ろにもっていかれそうなのです!」
「アルターが遅いから担いでるんでしょうが!」
「うぎーっ、振動が脳天にじかに来るのです! 朝食が口から出戻りしそうなのです……ぅ」
小脇に抱えたアルターが青い顔で叫んでいる。
アルターは文句を言ってきているが、彼女の荷物は僕が背負っている。小さな鞄に商品を詰め込んでいるせいか、走るたびにがしゃんがしゃんとなっている。絶対に商品を詰め込みすぎだ。
「提案。エディン、荷物はワタシが持ちます」
ログマが横からのぞき込んでくる。
できれば荷物ではなく、アルターを背負ってほしいのだが、この速度だ。一時間もあれば隣町くらいにはつくし、何台も獣車を追い越しブチ抜きをかましている。
おんぶしてもよかったんだけど、アルターの貧弱な腕力じゃ、一瞬で振り落とされてしまう。そしたらアルターは複雑骨折で<生命賛歌>行きだ。
「いいの? なら、預けようかな」
わずかに減速をかけながらログマに近寄り、背に担いだアルターの鞄を手渡す。 マグロの魚体に、赤いマント。それがアルターのかわいらしい白の鞄を片手に担いで大通りを疾走している。すれ違う荷運びのおじさんが、口を開けたままかたまっていた。
がしゃーん、と荷物の落ちる音が響く。横を視たら、荷運びのおじさんが運んでいた出前の蕎麦が地面にぶちまけられていた。
「ごめんなさーい!!」
駆け抜けながら手を合わせ、頭を下げながら再加速する。「ぐえ」という、潰れた蛙のような声が脇から聞こえた。
今は登り坂だが、もうそろそろ峠だ。峠を越えて下り坂にかかれば、港まですぐ着く。
「エディン」
隣を走るリリアが、息ひとつ乱さずに言った。赤い髪が、風に強く引かれている。
「なに?」
「あなた、さっきご飯八杯食べてたわよね」
「食べたね」
「……なんで走ってられるの?」
「?」
なんでって……。走れるから走ってるんだけど。
リリアの言いたいことがわからず、首を傾げた。聞いたリリアも同じく、心底不思議そうな顔で首を傾げていた。
お互いに首を傾げながら走っていると、登り坂に終わりが見え始めた。
港。
下り坂の先には、視たこともないほど高い演説台。白い帆がついた、腹の太い木造の船がいくつも停泊していて。
そして——。
「……え?」
足にこめていた力が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
わずかにたたらを踏み、減速しながら様子を見る。
人がいた。
港の広場を埋め尽くすほどの人。冒険者の革鎧。商人の羽織。荷運びの半纏。両氏のふんどし。子供を肩に乗せた父親。酒瓶を片手に握った爺さん。
桟橋から広間の端まで老若男女を問わず、ぎっしりと詰まっている。まだ、港まで距離があるのに、彼らの小さなざわめきが耳に響く。
「な、なんだあれ……。なんであんなに人が……?」
「………………」
リリアも、ログマも答えない。走りながら僕らは圧倒されていた。アルターは気絶していた。
勢いをわずかに緩めて、僕らは坂道を下りきる。
広場へたどり着いた瞬間、その群衆がざわっ、と揺れた。
「——きた」
「来たぞ」
「あれだ、あの緑の髪の」
「赤いのが、リリア嬢ちゃんだ」
「ほんとだ! ほんとにランニングマグロだ!」
ざわめきが、波紋のように広がっていく。
僕は、足を止めた。
止めざるを得なかった。人垣が道をふさいでいる。いや、違う。ふさいでいるんじゃない。この感じは。僕らを待っていたんだ。
「……なにこれ」
「知らないわよ」
リリアも目を丸くしている。
……しょうがないか。
《蒼眼》を、少しだけ広げる。
千人……。二千人近い。その一人一人の顔を、目に入れる。
緒の中に、知っている顔が混じっていた。ギルドの受付の人。タコを討伐した時、助けた水夫の人。【出雲】の決戦で、一緒に戦ってくれた武士の人。ログマに、最初に石を投げて和解した、あの少年。
みんな、こっちを見ている。
負の感情でも、食欲に満ちた獣の顔でもない。ただ、僕らを見て笑っている。
見送りに、来ていた。
「……あ」
喉の奥で、小さな声が漏れる。
言葉に、ならない。
みんな、仕事ややることがあるはずだ。冒険者も武士も暇ではない。なのに、わざわざ僕らのところに笑顔で来てくれている。
見送るために、来てくれていた。
「……あ」
喉の奥で、小さな音が漏れた。
「——ほれ。そんなところで突っ立ってないでこっちおいでよ」
声が上から降ってきた。
顔を上げる。
広場の中央。先ほど見た、高い演説台。その台のうえに、黒い和服を着崩した女の人が立っている。
肩口で聞揃えられた白髪。猫のような緑の瞳。口元には煙管と余裕の笑みが浮かび、僕らを楽しそうに見下ろしている。
リーリエさん。
正式な名は、鴉門凛々絵。迷宮都市国家最大の貿易港である【伯方】を含む【出雲】以西を滑る、とんでもなく偉い人。
ふう、と。煙管から紫煙を吐き出す。煙管を片手に持ったまま、片足を引きずるように、とん、と台の上で足踏みをした。
柏手を一拍。
「——え」
視界一面に、空が広がった。
強い海風が肌を舐め、一瞬目を瞑る。目を開ければ、群衆が足元にいた。
さっきまで、僕らがいた石畳から、台座に移動させられている。
<禹歩>。
歩法術の一種だと、リーリエさんは言っていた。めちゃくちゃ本人は気楽に言ってるけど、そんな生易しいものでないことは考えるまでもなくわかること。
動作はあれど、魔力の兆候が《蒼眼》でも全く捉えられなかった。
「はーい、遅刻。三十分」
リーリエさんが、煙管の先で僕の額を小突いた。
「す、すみません……」
「まあいいよぉ。此もよく遅刻するし。あんまり人のこと責められないしねぇ。ヴァルガスの奴に聞かれていたら、どやされてたかも」
リーリエさんが彼方を眺め、煙管から煙をゆっくりと吐き出した。
煙草の香りはしない。代わりに、石鹸のような柔らかい、花の香りが吐き出された。
それは、白いカーネーションの香りだった。
リーリエさんが煙管の灰を落とし、懐に仕舞った。
僕らに背を向け、群衆へ向き直る。
その背中に、重みが増した。
着崩した和服はそのまま。白髪も、猫のような瞳も変わらない。なのに、彼女の立ち姿からいつものおちゃらけた空気が消えた。
背筋が縦に伸び、顎が引かれ、両足が石のように台を踏んだ。
群衆が静まった。
誰も号令をかけてはいない。誰も静まれと言っていない。ただ、彼女が纏う空気を変えただけで、眼下の二千人が一斉に僕らを見上げた。
「——者共」
低い、しかしよく通る声が港を渡った。
「鎮西大将軍、鴉門凛々絵が申す。今朝、皆がこのように集うたこと。まずは礼を言う」
深く、一礼する。
為政者らしからぬ、頭を下げる行い。しかし、頭が垂れてもなお、彼女の纏わせた威風に翳りが見えない。
「本来、こういう場を此は好まぬ。感状も、すでにここの四名へ渡した。が、民草よ。武士たちよ。それでは気が済まぬだろう。英雄の門出を見送れぬのは、その献身を祝せぬのは不義理と感じたであろう。ゆえに、出航までのわずかな間を設けた」
リーリエさんが振り返った。
僕らを、一人ずつ見る。
「エディン・イラ・リステリア」
「はい」
「リリア・ヴェセル・アガレイド」
「はい」
「アルター」
「はいなのですよい」
「ログマ」
「返答。はい」
女傑は頷き、懐から何かを取り出した。
それは、扇だった。
四本。黒い点つの骨に、白い紙を貼った、閉じた扇。それを一本ずつ浮かべ、僕らの手元へ置いていく。
ずしり、と重さが手に沁みる。
骨が鉄でできている。紙の部分には、金箔で、菊の紋が描かれていた。十六の花弁が、曇り空の下でも鈍く光っている。
「鉄扇だ。この国では、武士と、華族の階級に渡されるものだ」
リーリエさんが、少しだけ、口の端を上げた。
「諸国を渡る金猿は、島津公から貰っていよう。ならば、移動に困ることはない。ゆえに、此が貴君らに渡せるものはこれしかない。
——身分だ」
鉄扇を握る。
身分。
塔を捨て、王国から離れた僕に、この人は身分をくれている。
「これは、約定である」
リーリエさんが群衆に向き直った。
「此と、この国の民草から、貴君らへ贈る約定だ」
声が、さらに一段低くなる。
「貴君らの寄る辺が、亡くなったとき。行く先が、途絶えた時。——我らの国は、必ず貴君らを迎えいれる」
群衆が、動かなかった。
誰も、声をあげなかった。ただ、二千の眼が、それを聞いていた。
「その友好の証として、この扇と——」
リーリエさんが、片手をあげた。
演説台の脇に控えていた武士が、進み出る。両手に、長い箱を捧げ持っていた。黒漆の長箱。ふたには、幾重にも封印の札が張られ、札の一枚一枚に、朱で正三角めいた神々しい印が——リーリエさんの血で、刻まれていた。
「我らが高祖にして、偉大なる二代目【勇者】。アルフェウス・ジ・パンの遺産を、四代目【勇者】候補、エディン・イラ・リステリアへ渡す」
——ざわ、と。
初めて、群衆が揺れた。
アルフェウス。
この国を作った人。アプレ・ラプルイに並ぶ——。いや、影響力だけでも、それを凌駕する、歴史の大偉人。
武士が、箱を僕の前に差し出した。
僕は、鉄扇を懐に押し込み、両手でそれを受け取った。
重い。
鉄扇の比じゃない。箱の大きさからは考えられないほど、重い。
《蒼眼》でも、中を視ようと思えないほどのものだった。
「……はい」
僕は、それだけ言った。
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
リーリエさんは僕を見て頷く。
そして——自分の懐から、扇を抜いた。
僕らに渡したものと同じ、菊の紋の鉄扇。それを彼女は手首を滑らせてぱん、と音を立てて開く。頭上に高く掲げ。
空へ向けて、払った。
一陣の風が、空へと舞う。港から巻き上がり、台座を揺らし、空へ届き。
雲を、裂いた。
快晴。雲一つない、朝の空。太陽が港を照らし、白い帆が眩しく光り、海が燦燦と輝く。群衆の顔が、一斉に明るくなった。
「——そして、我らは語り継ごう」
リーリエさんが、開いた扇を閉じた。
「貴君らは。貴君らの道は、天晴なものであったと」
わ、と。
群衆が爆ぜた。
歓声。拍手。口笛。誰かが僕らを叫び、誰かが泣き、そして皆が万歳している。二千人の声が、港の白壁に反響して、曇りなき空へ突き抜けていく。
——ああ。これが、僕らのしたことか。
僕は、その中心に立って、胸にじんわりと染み込んでくる暖かい感情に、目の端が熱くなった。
この人たちは、僕を見ている。塔の生贄でも、理解不能の悪魔でもない。僕らを、僕を。エディン・イラ・リステリアを見てくれている。
この感動を分かち合わず、出航する? いや、ありえない。
僕は、一歩を踏み出す。懐から鉄扇を引き抜き、リーリエさんと同じように手首を滑らせて、ぱん、と開く——けず、もう一度指を滑らせて、開く。
少し恥ずかしい気持ちを押しこんで、僕は衆目に立つ。
二千人が、じっと僕を見つめている。概ね、喜びと感謝が、僕に向けられていた。
——返せるものがあるはずだ。
大きく息を吸い、
「——ありがとう、ございます」
声が港に響いた。
自分でも驚くほど、遠くまで渡った。歓声が、少しずつ収まっていく。
「僕は、この国にきて、まだ三週間も経っていません。イルクはに連れられて、この港に降りた日。僕は、何も持っていませんでした。
名前と、服。それだけでした」
群衆が静かになった。
「でも、皆さんは、僕を見てくれました。温かく受け入れて、よき隣人として。時には、行き違いもあったけれど。それでも、皆さんは僕を受け入れてくれました」
鉄扇を握り直す。
「その目が、間違いじゃなかったことを——僕は、この先の旅路で証明していきます」
誰かが、指笛を吹いた。
「そして、もし」
空を見上げる。
さっきまで、暗雲に覆われていた果てなき空へ、目を向ける。
「もし、またこの国を。苦難の曇天が覆ったなら」
扇を、空へ向けた。
「——今度は、僕が」
「四代目【勇者】エディン・イラ・リステリアが、その暗雲を、晴らしに戻ってきます!」
一瞬の、間。
そして、静寂が割れた。
さっきの歓声が、子供の遊びに思えるほどの声だった。地面が震え、白壁が揺れ、港の帆が痺れていた。僕の名前を呼ぶ声が幾重にも重なり、リリアを、アルターを、ログマを呼ぶ音すべてが一つになった轟音が、空へ登っていく。
「エディン!」
リリアが、隣で笑っていた。
「あなた。、演説なんてできたのね! わたし、ちょっとびっくりしちゃった!」
「僕もびっくりした。勢いでばーっと言っただけだったから」
「いやあ、さすがなのですよ! アルターも聞いていて、なんだか勇気をもらえる言葉だったのです」
「同感。少し、誇らしいです」
リーリエさんが、僕の肩を叩いた。
振り返ると、彼女はもう、いつもの顔に戻っていた。煙管を咥え、猫のような眼を細めて笑っている。
「うはは。いったねえ、エディン君」
「はい」
「戻ってくるんだろう?」
「ええ」
「なら、いってきな。世界の広さが、お前を待っているんだからさ」
彼女は、そういうとまた一歩、足を引きずるように踏み込んだ。
僕らの身体は、船の上に乗せられていた。
——ボォオオ!
汽笛が、なった。
長く、長く。港の端々まで、雲の去った空の果てまで、届くように。
船が、動き出した。
桟橋が、ゆっくりと遠ざかっていく。群衆の手が、演説台の白髪が、坂道が。少しずつ遠くなって、小さくなっていく。
僕は、甲板の手すりに箱を置いて。鉄扇を開いた。
今度は、一度で開いた。
菊の紋を、【伯方】へ向かって掲げる。
リリアたちも、みんなで掲げた。
船が進み、迷宮都市国家を離れていく。だんだんと船速が加速し、見る見るうちに小さくなっていく。
それでも、僕らは扇を掲げ続けた。
水平線の彼方に、あの国が沈むまで。
菊の紋を、日出る国へ向けて、掲げ続けていた。




