青き雷光
海の上に築かれた迷宮。
その内部に影が渦巻き、影の砂嵐から人と魔物が吐き出された。
「けほっ……けほ……っ。いやあ、助かりましたよぉ、イルゲルム閣下」
貴族服を纏った軽薄そうな男、リューリュがせき込みながら、張り付けたような笑みを浮かべる。
リューリュが辺りを見回し、顔をしかめる。
一寸先すら見えないほど、辺りが黒い汚泥のような魔力――瘴気で埋め尽くされていたからだ。
リューリュは懐から五枚の符を取り出し、自分の周囲に五芒星の陣を構築した。彼の周囲だけ瘴気が薄まり、肺を侵していた汚染された魔力が浄化されていく。
「貴様を助けたわけではない」
相対する、角を生やし、執事服に身を包んだ魔族が無愛想に吐き捨てる。
彼、イルゲルムは瘴気の中で四苦八苦するリューリュを捨て置き、砂嵐が吐き出した場所へ歩み寄る。
「TSU……TSUNA…………」
囚われたランニングマグロ、ログマに彼は用があった。
その瞳は真紅と赤の狭間を点滅している。濃淡を繰り返し、その身体からは黒く濁った魔力が螺旋を描きながら放出されていた。
「魔物化の術はうまくいったか」
枯れ乾いたイルゲルムの声が迷宮に響く。
「ええ!以前、彼に勧めた茶に混ぜた閣下の血が、ようやく馴染み始めたんですよぅ!
ま、陰陽道で励起する羽目になりましたが」
リューリュは脂汗を拭いながら肩を竦め、燃え尽きた符をイルゲルムに見せつける。
高価そうな素材と、複雑な式が刻まれた符だった。
「それは貴様の問題だ。我の与り知らぬこと。それよりもだ」
イルゲルムはログマの顎を掴み、濃淡に点滅する赤い瞳をじっと見つめる。
瘴気に近い魔力に思念を乗せ、ログマの体内へ送り込む。
びくん、とログマの身体が跳ねる。だが、それだけ。操り人形のように動くはずのログマは、身体を痙攣させるだけに留まっていた。
「意志の力で完全な魔物化を防いでいるのか。いや、治癒魔法を己の体内で展開し続け、変容を防いでいるのだな」
イルゲルムがわずかに感嘆したようにつぶやく。
「現実を見せて反抗心を折ってやろうと思っていたが。友情とは、やはり侮れんものだ」
「ええっ!?あれだけやって魔物化してないんですかぁ?じゃあ、閣下が魔物を操れる能力も何の意味もないじゃないですかぁ」
リューリュは唇を尖らせ、抗議するようにイルゲルムへ詰め寄る。
「案ずるな」
イルゲルムは影に手を伸ばす。
影から刃が現れ、掌で鋭利に光る刃を握る。枯れ枝のような細腕から赤い血が滴り、それを握り込む。
「なら、より濃く塗りつぶしてやればよいだけのこと」
倒れ込んだまま痙攣しているログマの口に、その手を突っ込む。
大きく目を見開き、えずく彼にさらに強固な思念を送り、抵抗を痙攣へと変える。
ログマの喉仏が、エラがわずかに動く。
どくん、とログマの身体が脈打った。抵抗していた彼の治癒術式が魔族の血に穢され、屈服していく。
「TSU……NAAAAAA…………!」
身体が変容していく。
バキバキ、と骨が折れ曲がるような音と共にのたうち回り、ログマの目が真紅に染まっていく。
そして。
『……ご、命令を』
わずかに口ごもりながらも、ログマがイルゲルムに跪いた。
「これで、身体の制御は我がもとに置いた。此度の運用には耐えうるであろう」
「心の方は?」
「まだだ。が、時間の問題であろうよ」
イルゲルムはリューリュの言葉に短く返す。
「そうですかぁ」と気のない返事を返したリューリュを無視し、ログマを見下ろす。
「起きろ」
「仕事の時間だ、ログマ」
※※※
――雨が降っている。
俯瞰視点に切り替え、上空から僕は魔物の群れの進撃を観測していた。
「TSUNAAAAAA!!」
僕の《蒼眼》が、荒ぶるように駆けるログマの姿をくっきりと捉えた。
優しい赤色だった彼の瞳は、もうない。狂乱し、血に飢えたように吠え猛る、一匹の魔物となっていた。
いや。
「まだ、希望はある」
間近で戦ってみないことにはわからない。
身体は魔物になり果てた。だけど、心はまだ魔物になり切っていないかもしれない。
刀を強く握りしめながら、海岸線を埋め尽くす魔物を視る。
「三万って……もう軍隊じゃない……」
リリアが庵の外に顔を出し、遥か先から進軍を続ける魔物の群れを肉眼で捉えた。コレトーさんも放心したように空を見つめていた。
じんわりと汗が刀の柄に滲む。三万という数値はどんぶり勘定の計測だ。実際には、さらに多い可能性もある。
羽の生えたウツボ、毒針を持つウミヘビ、黒く巨大なエビ、鉄のはさみを持つカニ…………。
海の幸が黒い帯のように連なり、まっすぐこの【出雲】を目指していた。
「アルター」
「はいなのです」
「アルターの強化魔法を、僕とリリアに限界までかけて。かけ終わり次第、リーリエさんのもとへ報告。コレトーさんを連れて、避難誘導をお願い。ここは戦地になる」
信じられないように目を見開いたアルターを捨て置き、遥か先を睨む。
「アルターの強化魔法は、僕でも使えないものなんだ。たぶん、十分程度は持つだろう?」
「持ちます。ですが、エディンとリリアを置いていくわけには……」
逡巡するアルターの肩を掴み、まっすぐ彼女の目を見つめる。
「ここの戦力であの数を抑え切るには、リリアと僕は残らなきゃいけない。僕らなら、リーリエさんが何か対策をするまでの間、凌ぎ切れる可能性が高い。
だけど、報告する人も必要なんだ」
「頼むよ。アルターにしか、頼めないんだ」
アルターが息を呑む。
唇の端を噛み、沈痛な面持ちのまま大きなため息をついた。
「……わかったのです。その任務、請け負ったのです」
アルターは指先に黄金の光を集めて、僕とリリアに強化を施した。
「コレトーさん!行くのですよ!」
「お、おい……!」
アルターはコレトーさんの腕を掴み、庵の外へ連れ出す。
出口の間際で立ち止まり、振り返った。
「エディン、リリア。絶対、迎えに行くのです。リーリエさんに報告したら、すぐ戻ります。なので」
「絶対に死なないでほしいのです」
小さな握り拳を僕の目の前へ差し出した。
アルターの瞳に、いつものふざけた色はない。
引き締まり、何かの覚悟を決めたような目で、まっすぐ僕を見つめていた。
「もちろん」
ふにゃ、と表情を崩して笑う。
アルターの拳に、僕の拳を突き合わせた。
※※※
「生死がどうなるかわからない。命大事にいこう」
刀を抜き、魔力を体内で練り上げながらリリアに話しかける。
すでに魔物の輪郭がわずかに見えるほど、奴らはこちらへ接近してきていた。
彼我の距離は、もう一キロメテルもないだろう。
「エディンもね」
リリアも宝剣を抜き、不敵に笑い返してくる。
三万以上の魔物、か。自分で言っていてあれだけど現実味がないな。百とか、その程度の数ならまだしも、さすがに万の単位の敵を相手にするのは初めて。
――ぞくぞくするな。
「楽しそうね」
口の端が上がり始めた感覚を覚えていると、隣からリリアが軽口を利いてきた。
端正な顔立ちには、戦士の笑みが浮かんでいた。瞳に映る僕の口元には、より深い上弦の弧。凶暴極まりない笑みが浮かんでいた。
「巻き込んじゃってごめん。いける?」
「誰に聞いてるのよ。もちろんよ」
魔力障壁を押し広げ、より強固に展開する。
聖なる雨が魔法を散らさないよう、魔力障壁で魔法陣を覆った。
潮風の香りに、焦げたような腐臭が混じり始めた。
魔物が、退魔の力を帯びた雨に焼かれているんだ。
目を凝らすまでもなく、魔物の群れがこちらへと迫ってきている。
「ログマには当てないようにしなきゃ」
そう思い、魔力を際限なく注ぎ込む。
砲塔のような魔法陣が収縮と膨張を繰り返し、砲口に灯った爆炎が青白いスパークを伴い、圧縮されていく。
砲塔、臨界。
術式、融解反応を確認。
「<紅蓮砲殲火>」
攻城魔法、発射。
赤い螺旋の太陽が尾を引き、通り過ぎた大気のすべてを焼き焦がしながら直進し。
海上で、爆炎の華を咲かせた。
閃光。衝撃。焦熱。
遅れて爆音が轟いた。
もうもうと立ち込める煙。
海の退魔の力をもってしても吸い切れなかった魔法の爆炎が魔物どもを焼き払い、海上にいた魔物の軍勢へ円状の穴を開けていた。
しかし、魔物の進軍に止まる気配はない。
「…………!」
次弾の装填が急務。
急激な魔力不足を、懐にしまっていた魔力の符を焼き切って回復させ、術式へ魔力を装填し――。
「――そこまでだ」
術式が、両断された。
同時に、天へと刃が伸びる。特徴的な黒い影の刃は空を駆け、雨雲に刻まれた<荒神祭>の術式を両断し、雨を強制的に晴らした。
「なに、が……っ!」
突如として、強烈な魔力の圧が僕とリリアを襲う。
現れた下手人は、両刃槍を握っていた。
足元の影は生き物のように蠢いている。
漆黒の髪。皺の多い、年老いた表情に執事服。
見紛うはずもない、特徴的な角。
「久しいな、エディン」
嗄れ声が海辺に響く。
威圧している素振りはない。両刃槍を片手で構え、こちらを油断なく見つめている。
――動けない。
隙がない、なんてレベルじゃない。抜き身の刃のような、底知れない深淵のような気配の深さは、間違いなく以前の分身体の比ではない。
リリアが剣を構えるも、額から流れる汗は誤魔化せない。
「名乗りは戦士の礼。以前は名乗る暇がなかったが、此度は確と名乗らせてもらおう」
イルゲルムは両刃槍を地面に突き刺し、影を右手に纏わせる。
右手を左胸に当て、軽く一礼する。
「我が名はイルゲルム。今は亡き十代目【魔王】陛下の親衛隊第三位。我、イルゲルムは戦士の約定に従い、エディン・イラ・リステリアならびにリリア・ヴェセル・アガレイド」
「貴殿らに、決闘を申し立てる」
※※※
イルゲルムが両刃槍を抜く。
魔物の進軍は止まっていた。代わりに円を描くように僕らを半包囲し、一列に並んでいた。
……どこで、僕らの名前を知った。
僕らはファーストネームしか名乗っていない。イルゲルムが僕らの情報を知る術はないはず。なのに、僕とリリアの名前を正確に読み上げて見せた。
「決闘の間は、魔物の進軍は止まると思っていいのかな?」
『亡星』を抜く。
魔力の充填は完了した。これでコンディションは万全。
「無論だ。これは戦士と戦士の約定。将である以前に、魔族の戦士として。アレクセイ陛下に仕える者としての誓いだ。
魔物ごときに乱入などさせん。我らが王、アレクセイ陛下の名に誓う」
「…………そうか」
懐をまさぐり、魔力を込めた符の残数を確認する。
――残り、四枚。派手に暴れられるのは、あと四回まで。
「そう。なら」
リリアの表情が一変する。
戦士のそれから、厳かで神聖な顔つきへ。
右手に握っていた宝剣を正眼に構え、刃に手を当てる。
「わたしも、切り札を使うわ」
そう言うと、リリアは自分の掌を切った。
熱い魔力を含んだ赤が、宙に舞う。血が燃え盛り、渦巻く。
その中に、炎の瞳が浮かんだ。
「火の【旧神聖曜】。原初の火を呼ぶ術か。
よいぞ。それでこそ、我が屠るに値する敵だ」
イルゲルムは静かにつぶやく。
リリアの瞳の色が変わる。
紺碧から、薄い金色へ。炎の瞳に黄金の法力が宿り、リリアの身にまとわりつく。
「<神牡牛の蹄嘶>!」
熱がリリアの身体に降臨した。
炎と肉体が一体となり、彼女が燃え盛る炎と化した。
「征くわよ――!」
瞬間、リリアの姿が掻き消えた。
次の瞬間には炎の一刀がイルゲルムへと迫り。
「《影流し》!」
影を纏わせた刃が、リリアの斬撃を正面から受け止めた。
瞬間、黒い斬撃が蜘蛛の糸のように僕とリリアへ迫る。
「はあああああああああっ!!」
神速の踏み込み。その一歩が音の壁を焼き切り、リリアが影の刃のすべてを叩き落とす。
――右、左、いや、中央!
リリアの斬撃の速度は今までの比ではない。尋常の沙汰を超えた速度で振るわれる剣と、それに追随するイルゲルムの刃の応酬。
火花と影の閃光が散り、鉄と刃の軌跡だけが僕の眼に映る。
一度の鍔迫り合いを認識した次の瞬間には、赤と黒の応酬は十合を超えていた。
追いつけない。
「………………っ!」
焦げ臭い、炭の香りが周囲に漂う。
本来ならば香るはずのない、肉の焼ける匂い。
リリアの剣閃が、わずかに鈍った。
瞬間、イルゲルムが身を潜らせ、リリアの腹に蹴りを叩き込んだ。
「やはりな」
イルゲルムはわずかに乱れた執事服を片手で直しながら、冷たい目をリリアへ向けた。
対するリリアの手の一部は炭化している。全身に重度の火傷を負い、焦げ付くような熱が彼女を包み込んでいた。
「はあ、はあ……!」
剣を地面に突き刺し、リリアがガラス化した砂浜に片膝をつく。
「<神牡牛の蹄嘶>。炎熱と一体化する強化魔法の極致は、己を薪とするのだろう?ならば、長時間の戦闘に耐えうるはずがない」
イルゲルムは息を乱した様子もない。
「<回帰原理>!」
急いでリリアに回復魔法を迷わず叩き込む。
しかし、回復が鈍い。これほどの重傷であろうとも快癒させるはずの<回帰原理>が、わずかな治療にしかなっていない。
<神牡牛の蹄嘶>の炎が、回復魔法の効果すら焼き切っている……?
《蒼眼》が、あり得ない結果を僕に叩き出していた。もう一度、リリアに<回帰原理>をかけるも、焼け石に水。
僕の魔力が底を突いた。
懐にしまっていた符を焼き切り、魔力を回復させる。
「――!」
リリアが、両の足で立ち上がった。
震える手で剣を構え、イルゲルムを強く睨みつける。
焦げた肉の一部が、地面へ燃え落ちた。
「ほう。その火傷でまだ立ち上がるか」
炎を身体に纏わせたまま、燃え盛る火炎をさらに噴き出し、リリアが吶喊する。
「よいぞ、強き戦士よ。ならば貴様が燃え尽きる寸前まで付き合ってやろう――!」
再び、黒と火の斬撃の交錯が始まった。
(このままじゃ、リリアが死ぬ――!)
加速する焦燥。思考だけは、その焦りの熱から遠ざける。
闇雲に突撃しても、リリアの邪魔になる。なら、今できるのはリリアに追いつく『力』だ。
再現するは東塔の記憶。ゼロとイチのみの演算思考。
必要なのは、リリアに追いつけるだけの強化。そして、治癒。
そのためには、尋常の強化や治癒では足りない。魔力では足りない。気魄だけでは足りない。
では、法力ならば?
大きく息を吸う。
次第に、視界の火花が緩慢になり始めた。息が、五感が遠くなり、眼の奥が燃えるように痛い。なのに、その痛みすら遥か向こう。
ただ、思考だけを加速させている。
<蒼仙法>の奥義。《蒼霆》は法力を生成し、相手の体内へ打ち込むもの。
だが、法力は魔法を無力化する。なら、なら、なら、なら、なら?
千を超える試行を一秒の中に閉じ込め、さらに飛翔させる。
成立させるは、法力による絶対強化。神速に踏み入れたリリアを護れる、圧倒的な力。
垂れる鼻血や赤い涙など、いくらでも流れろ。思考を、脳を、限界を超えて躍動させる。
リリアの刃が、くっきりと見えるほど世界が緩慢になった。
法力を魔法陣へ練り込む――不可能。
魔法を法力と混ぜ込む――不可能。
魔力を法力と重ねる――不可能。
不可能、不可能、不可能。
千、万を超える試行を繰り返し、その先へ足を踏み入れる。
リリアの剣が、イルゲルムの手で弾き飛ばされた。
その瞬間――。
「――見つけた」
青い稲妻を、手に掴んだ。
※※※
「――あ」
勝敗は決した。
イルゲルムはリリアの剣を弾き飛ばした。炎がリリアの身体から離れ、半死半生の、丸焦げになった人の姿が現れる。
「十三の齢で、よくぞここまで至った」
イルゲルムの目が赤く光る。
低い重心。両刃槍を脇構えに構え、リリアの腹を両断するべく次撃を繰り出す。
刹那。
青い雷鳴が、二人の間に割り込んだ。
遅れて、甲高い金属音が響いた。
「――まさか」
イルゲルムの目が見開かれる。
その瞳には、青い稲妻を総身に纏い、法力を己の強化へと転じた僕の姿が映り込んでいた。
「そこまで頭のねじを外していたか!」
「四代目【勇者】、エディン・イラ・リステリアよ!」
腰を低く落とし、獣のように剣を構え直す。
歓喜と恐怖を同時に宿らせたイルゲルムへ、『亡星』の切っ先を向けた。




