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弓張月

遅くなりました。







 夜半。


 【出雲】の寂れた漁村は、深い眠りに沈んでいた。


 漁師の朝は早い。


 日の出よりも早く起き、漁へ出る。そのため、夜も更ければ村人は誰一人として出歩かなくなる。


 夜の海は危険だ。


 波は荒れ、魔獣や魔物が闊歩する死地と化す。


 日暮れ前には漁師たちは家へ引きこもり、安価な退魔の力を宿した護符を盾に、高いびきをかいて眠る。


 ゆえにこそ、その頃合いになると御簾が上がる。


 村外れに佇む、一軒の草庵。


 村人がほとんど出歩かない時間だからこそ、『御簾籠りの奇人』と呼ばれる卓越した治癒術の使い手が、御簾を開くのだ。


 御簾の奥から、細長い人影が現れた。


 繊細な指が御簾を持ち上げ、何者かが草庵の外へ出る。


 夜闇に紛れ、その姿ははっきりとは見えない。


 ただ、その影だけが異様に長かった。


 ひた、ひた。


 濡れた足音を立てながら浜辺を歩き、じっと空を見上げる。


 月霞の夜だった。


 淡い霞が満月を覆い、その輪郭を朧に滲ませている。


 御簾籠りの奇人は、ただ静かに月を眺めていた。


「――」


 奇人は何も語らない。


 その正体を知る者は、誰一人としていない。


 ただ、一つだけ分かっていることがあるとすれば。


 御簾の内側に残される足跡。


 それはいつもひどく濡れ、魚のような生臭さを放っているということだけだった。






※※※






 太古より続く祭囃子が聞こえる。


 大通りには、数え切れないほどの屋台が並んでいた。


 たこ焼き、イカの丸焼き、水風船掬いに弓を使った射的。エビせんべいや焼き鳥、甘い綿菓子にりんご飴。


 食べ物から娯楽まで、ごちゃ混ぜになった出店が所狭しと軒を連ね、通りは凄まじい熱気に満ちていた。


「昼間なのに、すごい人の数ね……!」


 浴衣へ着替えたリリアが、縁日へ詰めかけた人々を見て目を輝かせる。


 普段は下ろしている赤い髪をまとめ、金色のかんざしを挿していた。


「いやー、ここに出店できていれば、間違いなく大儲けできたのですよ。熱気だけなら、西方都市連合の投資サロンにも負けず劣らずなのです」


 同じく浴衣へ着替えたアルターが、小さな手提げ鞄を持ちながら周囲を見回していた。


 黒地に、丸い月と稲穂が描かれた品のある浴衣だ。


 普段愛用している大きなリュックは、今日泊まる宿へ置いてきたらしい。


「二人とも、浴衣すっごく似合ってる。さ、屋台へ行こう!」


 二人に笑いかける。


 もっとも、今日の目的は遊ぶことだけではない。


 リモルさんから聞いた、治癒術に長けた奇人を探す必要がある。


 居場所までは分からないが、屋台を巡りながら聞き込みをしていけば、いずれ何かしらの情報は得られるだろう。


 いざ屋台へ進もうとした、その瞬間。


「エディン。悲しいお知らせがあるのです」


 アルターが、僕の浴衣の袖を引いた。


「なに?」


 振り返る。


 ここまで思い詰めたような、苦しげなアルターの声は珍しい。


 リリアも、何とも複雑そうな顔で僕を見ていた。


 可哀想なものを見るような眼差しが、僕の胸へ突き刺さっている。


「今回のお祭りの予算ですが」


 アルターが小さな鞄をまさぐり、財布を取り出した。


 留め金を外し、その中身を僕へ見せる。


「今回のお祭りの予算は、三人で三千テレスなのです」


「……え?」


 頭をがつんと殴られたような衝撃が走った。


 さ、三千テレス……?


 桁を何個か間違えていないかな?


「アルター……。あそこのエビせんべい、一枚三百テレスだよ?」


「そうですね」


「一人百枚食べたら、赤字だよ?」


「一人で百枚も食べるのは、エディンだけですね」


「あそこのたこ焼きもさ……。六個入りで三百テレスだよ?」


「そうですね」


「三百個頼んだらさ……。借金しなきゃいけなくなっちゃうよね?」


「三百個も頼んだら、お店に迷惑ですね」


「だから! 予算が! 足りないって言ってるの!!」


 どん、と地面を踏み鳴らす。


 おかしいでしょ!


 いつものアルターの、超すごい資金調達能力はどうしたの!?


「いい加減、エディンは貯蓄を覚えるべきなのですよ」


 アルターは、淡々と問題点を突きつけてきた。


「二週間の食費だけで、魔剣が数本買える金額なのです。アルターでなければ、とっくに経営破綻していたのですよ」


 ……ぐっ。


 正論。


 言っていることは至極真っ当であり、理性的に考えれば反論の余地など全くない。


「でもさあ! 魔剣数本分くらい、アルターならどうにかできるでしょ! その分のお金は、僕がいくらだって稼ぐからさあ!」


 だけど、祭りの予算が三人で三千テレスはないだろう!


「せっかくのお祭りなんだよ!? たまにはぱーっと遊んでもいいじゃん!」


「エディン。これを見るのです」


「ん? なにこれ。帳簿?」


 アルターから無言で差し出された帳簿へ、目を通す。


 ほむ。


 僕の食費か。


 たくさんゼロが並んでいるね。


 ひい、ふう、みい、よう……。


「…………あれぇ?」


 おかしいな。


 何度目を擦っても、ゼロが六つ並んでいるように視える。


 計算違いかな?


 いくら僕でも、そんなとんでもない量の食事をしているわけがないじゃないか。


 もしかすると、アルターが少し水増ししていたり?


 いや。


 アルターが、そんなことをするはずがない。


「弁当代……五十万テレス……。串団子……二千テレス……」


 おかしいぞ。


 帳簿に計算ミスがあるのかと思い、《蒼眼》を使って隅々まで確認してみた。


 しかし、並んでいるのは全て見覚えのある品目と金額だけだった。


 十回以上検算してみても、計算間違いは一つとしてない。


 帳簿に記された残金は、僅か五万テレス。


「分かりましたか、エディン」


 アルターが菩薩のような笑顔を浮かべ、僕の肩へ手を置いた。


「しばらくは貯蓄なのですよ。どこかで依頼を見つけ、報酬が入金されるまでは、お祭りもこの金額でやりくりするしかないのです」


 僕の肩を握る力が、僅かに強まる。


 アルターの口調は変わらない。


 淡々とした穏やかな声。


 慈愛に満ちた、優しげな笑顔。


 なのに、その背後には仁王が立っていた。


 後ろでは、リリアが両手を擦り合わせ、僕へ向けて合掌している。


 ははん。


 これは僕、逆らったら死ぬな?


 違くてェ……。


 美味しそうだったし、たくさん出てきたから頂いただけでェ……。


 鹿肉は僕が仕留めたから、ご飯とかは全部奢りだと思っててェ……。


「なにか」


「言いたいことでも」


 アルターが、満面の笑みを浮かべる。


「あるのです?」


 首を、ゆっくりと傾けた。


「……………………ないです」


 彼女の全身から放たれる、逆らい難い圧力に屈し、静かに頷いた。


 誰かのせいにしようとしたけれど、思い浮かぶのは食い意地の張った自分の顔だけだった。






※※※






「ま、まあ! 屋台といっても、食べ物だけが娯楽じゃないし!」


 額へ浮かんだ冷や汗を拭いながら、リリアが僕とアルターの間へ割って入った。


「遊べる場所だって、たくさんあるわよ! ね?」


「そうなのですよ! 何も食べることだけが、お祭りの醍醐味ではないのです」


 上機嫌な様子でアルターが僕の肩から手を離し、普段の調子で話し始める。


「………………」


「おや? どうしたのです、エディン。そんなに怯えて」


「………………ナンデモナイヨ」


 怖い。


 アルターが本当に怖い。


 無邪気な笑顔を向けてくるのだけれど、とにかく謎の威圧感がある。


「さて……。エディンでも満足できる屋台があるといいのですが……」


 アルターは、うーんと唸りながら周囲を見回す。


 太鼓や笛の音が鳴り響き、祭りの盛況ぶりを耳からも伝えてくる。


 出店は多い。


 屋台通りの向こう側では、大勢の陰陽師たちが忙しなく駆け回り、宮大工たちが彼らの指示に従って建造物を組み上げていた。


 ちょっと面白そうだな。


 会話の内容を、《蒼眼》で視てみよう。


 声といっても、突き詰めれば空気の振動だ。


 普段は意識していない領域へ注意を向ければ、遠くの音や会話の内容まで、視覚情報として拾い上げられる。


 ……ほむ。


 どうやら、物資と人員が足りていないらしい。


 【永土】や【伯方】から来る予定だった陰陽師や錬金術師。


 彼らを護衛するはずだった武士たちも、陰陽線の運休によって【出雲】へ到着できていない。


 事故によって、【出雲】へ通じる路線が全て運休しているのか。


「――ディン。エディン!」


 思考を深く潜らせていると、リリアの声が響いた。


「大丈夫? 難しい顔をしていたけど」


「ごめん。少し考え事をしてた。どうしたの?」


「もう。どの屋台を回るかって話ですよぅ!」


 アルターが頬を膨らませる。


「エディン、どこか興味のある屋台はないのです?」


「ほむ。そうだなあ」


 視界を振動と赤外線から、通常の光学視野へ切り替える。


 食べ物の屋台では、不完全燃焼になることが目に見えている。


 それなら、たまには三人で遊びたい。


 娯楽系の屋台を探してみよう。


 視点を上空へ移し、俯瞰した祭りの全景を視野へ収める。


 たこ焼き。


 イカの丸焼き。


 水風船掬い。


 弓による射的。


 エビせんべいに焼き鳥、綿菓子、りんご飴……。


「射的」


 その中の一つを指差す。


「三人で、射的の勝負をしよう」






※※※






「おっ、いらっしゃい、兄ちゃん」


 的屋のおじさんが、愛想よく笑った。


「いいねえ、別嬪さんを両脇に侍らせて。<荒神祭>目当ての旅人かい?」


「ええ。そんなところです」


 財布をアルターから預かりながら、おじさんへ尋ねる。


「ところで、凄腕の治癒術師がいると聞いたんですが、おじさんは知りませんか?」


「おお。兄ちゃんたちも、治癒術師目当てか」


 おじさんは海の方角を指差した。


「海岸沿いに、寂れた漁村があるだろ。そこにいるぜ」


 指差された方向を見る。


 海岸線の先に、小さな村があった。


「なるほど。情報をありがとうございます。一回いくらですか?」


「一回八十テレス。五回なら三百テレスだ」


 的屋のおじさんは朗らかに笑い、大きなからくりの螺子を回した。


 内部の歯車が噛み合い、からからと音を立てて動き始める。


 砕かれた小さな魔晶石から、何本もの魔力線が伸びた。


 魔力線に引かれ、屋台の奥に並んでいた風船が動き出す。


 赤、白、黄。


 三色の風船が横一列に移動し、端まで到達すると、反対側から再び姿を現す。


 赤い風船が最も速い。


 一番奥に配置され、不規則に上下へ揺れ動いているため、かなり狙いづらい。


 白は中程度。


 黄色は手前にあり、動く速度もかなり遅かった。


「赤が五点。白が三点。黄色が一点だ」


 おじさんは、にやりと笑う。


「合計五点以上で、好きな景品を一つやるよ」


 屋台の奥には、豪華そうな景品が幾つも並んでいた。


 ははーん。


 僕らには当てられないと思っているな?


「じゃあ、三人とも五回ずつやろう」


 弓を見ながら、二人へ提案する。


「一番点数が高かった人以外が、この後の祭りで荷物を持つっていうのはどうかな?」


「乗った」


 リリアが、自信に満ちた笑みを浮かべた。


「舞踊の一環で、弓も扱ったことがあるから。自信はあるわよ」


「では、アルターも参加するのです。お父様から武芸は人並みに仕込まれているので、弓も扱えるのですよ」


 へえ。


 リリアはともかく、アルターも自信があるのか。


 対する僕は、弓を一度も使ったことがない。


 剣以外で戦いに使ったことがある物といえば、燭台、机の脚、小石、火かき棒くらいだ。


「よし。やろう」


 それでも、不思議と負ける気はしなかった。


「九百テレス、毎度あり!」


 おじさんへ代金を渡し、三人分の弓と、五本ずつの矢を受け取る。


 道具を手渡すや否や、おじさんはそそくさと屋台の端に置かれた椅子へ腰を下ろした。


「魔力強化なし。魔法もなし。純粋な身体能力と技術だけで勝負。いいわね?」


「もちろん」


 僕が答えると、アルターも頷いた。


 リリアが楽しげに笑い、弦へ矢筈を掛ける。


 アルターも、なかなか堂に入った動作で弓を構え、風船へ狙いを定めた。


 ――射。


 二人の矢が、ほぼ同時に放たれる。


 黄色い風船が一つ弾け、もう一本の矢は白い風船の表面を僅かに掠めて飛び去った。


「まずは一点ね」


「だーっ、外したのです!」


 リリアが、ふふんと鼻を鳴らす。


 対するアルターは頭を抱え、悔しそうに唸っていた。


 ほむほむ。


 弓というのは、そうやって使うのか。


 参考になる。


「エディンは射たないのかしら」


「弓を使うのは初めてだから、二人の動きを視て勉強してたんだよ」


「待ってください」


 アルターが、信じられないものを見る目を僕へ向けた。


「未経験者なのに、アルターたちへ勝負を挑んだのです!?」


「うん。まあ、大体分かったから、何とかなるよ」


 弓を左手に握り、右手で矢を取る。


 弦へ矢筈を掛け、ゆっくりと引き絞った。


 きりきりと弓が鳴る。


 弓のしなりに蓄えられた力が、矢へと集まっていく。


 ――やけに、手に馴染む。


 以前、鍛冶屋で初めて槍を握った時と同じ感覚。


 初めて触れたはずなのに、ずっと昔から知っていたような、不思議な懐かしさがあった。


 自然に腰が据わる。


 肩から余計な力が抜け、弦を引く指の位置も、矢を支える角度も、何一つ迷うことなく決まっていく。


 一点。


 不規則に揺れ動く、赤い風船へ狙いを定める。


 ――射。


 弦を離れた矢が、空気を裂いた。


 僅かに回転しながら直進し、過たず僕の狙いを射抜く。


 ぱん、と赤い風船が弾けた。


 中に仕込まれていた小さなくす玉まで割れ、色とりどりの紙片が舞い散る。


「よし」


「よし、じゃないわよ!」


 リリアが目を剥いた。


「初めてって言ったわよね!? 何なの、今の綺麗な射形! どう見ても熟練者の動きじゃない!」


「騙し討ちとは卑怯なのです!」


 アルターも勢いよく僕を指差す。


「これはエディンに、罰ゲームを受けてもらうしかありませんね!」


「違うって! 本当に初めてなんだって!」


 慌てて否定する。


「良さそうだと思った動きに従ったら、自然にああなったんだよ!」


「嘘ね」


「あとアルター! 負けが見え始めたからって、僕に罰ゲームを押しつけようとするんじゃないよ!」


「アルター。そこら辺から大きな岩を持ってくるわよ。エディンに背負わせましょう」


「濡れ衣だ!」


 両手を広げ、必死に抗議する。


「僕が昔から弓を使えたなら、東塔時代の狩りはもっと楽だったわ!」


 三人でぎゃあぎゃあと言い争っていると、《蒼眼》の視界へ、慌てて走ってくる男の姿が映った。


 全く。


 すりか?


 人が必死に冤罪を晴らそうとしている時に……。


「全員、逃げろ!」


 男が、祭りの喧騒を切り裂くように叫んだ。


「やべえぞ! 魔物の群れだ!」


 その知らせは、僕が考えていたよりも遥かに切迫したものだった。


「ランニングマグロの群れが、海岸線の向こうからやってきたぞォ!」


「――なんて?」


 そして同時に。


 僕が想像していたよりも、遥かに珍妙な内容だった。

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