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【罪】と【罰】







「ランニングマグロの群れが、海岸線の向こうからやってきたぞォ!」


 珍妙極まりない名前が、大通りに響き渡った。


 しかし、その声には悲壮感さえ籠もっている。

 叫んでいる男の表情は真剣そのものだった。褌一丁の姿で縁日を駆け抜け、一目散に大社の方角へ走り去っていく。


 ランニングマグロってなんだよ。


「クッソ、ランニングマグロが!?」


「【出雲】は禁足地だってのに、どうして魔獣の群れなんかが来やがるんだ!」


「つーか、ランニングマグロは俺たちと交易してただろ! なんで魔物みてえに襲ってくるんだ!」


「武士団の皆が出動してくれてるそうだ!」


「急げ、急げ! 屋台の火を消して、お社へ逃げるぞ!」


 縁日の男衆や女衆は口々に叫び、恐慌状態に陥りながらも、屋台の火を次々と消していく。


 互いに手を貸し合い、祭りの奥地にある大社へ向かって走り出していた。


「リリア」


「分かってる」


 ぺろりとリリアが舌なめずりし、表情を変える。


 気品から野性へ。

 獰猛な獣のような瞳で海岸を睥睨し、小型化していたツルハシから愛剣を取り出した。


「結局、こうなるのですね。こんなことなら、アルターも普段遣いのカバンを持ってくればよかったのです。

 まあ、冒険者証(ツルハシ)があるのでどうにでもなりますが」


 アルターが肩を竦め、ツルハシを耳元に当ててどこかへ連絡を取り始めた。


 まったく、アルターの言う通りだ。

 どうして最近は、こうも休まらない日ばかりが続くのか。もう少し、穏やかな日があってもいいじゃないか。


 首を曲げ、骨を鳴らしながらアルターを見る。


「一応、イルクにも連絡を入れておいたのです。『十分後に全部蹴散らすから安心して』と返事が来たのですよ」


 アルターは小型化したツルハシを操作しながら、そう告げた。


「そっか。なら、十分以内に片づけなきゃね」


 イルクは有言実行の男。

 やると決めたのなら、必ずやり遂げる。

 たとえ何かの事情で間に合わなかったとしても、僕には必ず報告を入れてくれる。僕にとって、誰よりも信頼できる相手なんだから。


 <瞬間装着(レイル)>の魔法陣を描く。


 浴衣姿から普段の旅装へ着替え、アルターをお姫様抱っこで抱え上げると、一気に加速した。


「武士が集まってきてるね」


 《蒼眼》で視れば、海岸へ武士たちが集結し始めていた。


 黒鉄の具足に身を包み、槍と太刀を携えた、いかにも武人らしい者たちが百名近くいる。


「武士が? 冒険者は?」


「ほとんどいない」


 冒険者の姿は少ない。


 というより、皆無に近い。


 一文字の下に三つの丸が並んだ特徴的な旗のもと、統一された武具を身につけた者だけが集まっている。

 冒険者の楽園と称されるこの国にしては、不自然な光景だった。


 屋台通りを駆け抜け、幌屋根の上へ飛び乗り、さらに加速する。


「そりゃあ、【出雲】は禁足地なので。<荒神祭>という特別な期間とはいえ、冒険者が好んで出入りしようとは思わない場所なのですよ」


 幌を思い切り踏み込み、その反発を利用して空へ跳ぶ。


 僕の腕の中で、アルターが淡々と説明した。


 禁足地。

 迷宮都市国家へ来る前、イルクが話していた進入禁止の土地か。


 確か、指定された山や田畑、特定の集落以外には踏み入れてはならないという規則だったはず。


「【伯方】からも、それ以外の都市からも人は来るでしょ。それでも冒険者が集まってない理由にはならなくない?」


 それにしたって、冒険者がほとんど集まっていないのは気になる。


 いくらリーリエさんが陰陽線を貸し切っていたからといって、【伯方】から来る冒険者まで皆無に近いなんてことがあるのかな。


「【出雲】へ来るには、特鳥(とっとり)砂漠を越える必要があるのです。あの辺りには強力な魔物も蔓延っているので、陰陽線も頻繁に事故を起こしますし。好んで来る必要はないと考える方が多いのでしょう。行商人たちからも、そのような話を聞いたのですよ」


「冒険者あるあるよ。わざわざ無謀を冒してまで、冒険する冒険者なんてほとんどいないわ」


「なるほど……」


 筋は通っている。


 リリアまで納得しているのなら、冒険者としては特に不自然なことではないのだろう。


 だけど。


 ――怯えるがいい。


 ――五つ目の本体が、お前を逃しはしない。


 影鬼(イルゲルム)の遺言が、背筋を撫でた。


 身体が無意識に強張る。

 唐突な魔物の大量発生。

 魔物の襲来を叫ぶ、褌一丁の男。

 

 水平線の果てまで視ても、まだ姿の見えない魔物の群れ。


 小さな違和感が、頭の片隅に張りついて離れない。

 どうにも僕の勘は、リリアたちの説明だけでは納得してくれなかった。


 胸がざわめく。

 うなじを針で刺されるような、嫌な感覚。

 とんでもない数の魔物が湧き出した、あの夜と同じ予兆。酷い悪意の匂いがする。


「――エディン! エディン!」


 リリアの叱咤するような声が響いた。


 意識を一気に表層へ引き上げ、並走するリリアへ顔を向ける。


「ごめん。ちょっと考え事をしてた。どうしたの?」


「今、魔物の群れはどうなってるの?」


「ええと、ちょっと待って……」


 《蒼眼》の視点を俯瞰へ切り替え、視界へ海上を追加す――。


「――ぁ?」


 呆けた声が、喉から漏れた。


 は?

 

 なんだ、あれ。


 瓦を踵で削り、加速の勢いを殺して海を見る。


「どうしたの、エディン。そんなに危険な魔物が来たの?」


「いや、違……。なに、あれ……」


「マグロが……。大量のマグロが……」


「海の上を、走ってきてる……」






※※※






 海上を、黒々とした生き物の群れが埋め尽くしていた。


 それはマグロだった。

 黒光りする立派な背びれ。

 力強く振られている魚尾。

 瞬きを知らない、生気のない赤い眼。


 流線形の魚体は、間違いなくマグロのものだった。


 ――ただし、そこから人間の手足が生えていた。


 精悍な手足だ。

 しっかりと筋肉のついた人間の腕と脚が忙しなく動き、流麗な走法で海上を駆け、浜辺へ向かってきている。


 その数、二千。


「TSUNAAAAAA――ッ!」


 マグロたちの雄叫びが轟いた。


 剣、槍、錨、鎖。


 赤錆に侵された武器を逞しい腕で振り回しながら、マグロの軍勢は海面を疾駆していた。


「出たな、ランニングマグロめ……!」


 武士団の中で最も立派な具足を纏う男が刀を抜き、切っ先をマグロの群れへ向けた。


 対する武士団は、八十騎余り。


 かたかたと、金属の擦れる音がした。


 集まった武士の誰かが、震えているのだ。


「者共、怯むな……! ふざけた面と名前の魔物如きに、大内家の陶郎党が怯んでは、末代までの恥ぞ!」


「……応! 皆、恐るるな! あのような……人をおちょくった造形の魔物に、恐れる道理などない!」


「そうだ、そうだ!」


「ふざけた面をしおって! 我が子の落書きにも劣る顔よ!」


「舐めた鮪共め! 残らず刺身にしてくれるわ!」


 鬨の声が上がる。


 口ぶりとは裏腹に、あの魔物の軍勢を侮っている武士は一人としていなかった。


「隊列を敷けぃ!」


 立派な兜を被った武士が、刀を掲げる。


 武士団は一つの生き物のように動き、翼を広げた鳥のような陣を敷いた。


 肉眼でもランニングマグロの姿を判別できるほど、敵は海岸へ迫っている。


「対艦射砲、<青朱雀>用意!」


 鶴翼の陣を敷くと同時に、武士たちは矢を番え、渾身の力で弓を引き絞る。


「構え!」


 号令とともに、魔力が立ち上った。


 彼らが立つ地面そのものが巨大な魔法陣へ変じ、武士団全員から均等に魔力を吸い上げていく。


 陣形魔法。


 軍勢が一体となることで発動する、儀礼魔法の一種。


 集められた力は引き絞られた矢へと注がれ、途方もない力と神秘を宿していく。


 刮目せよ、万象。


 喰らえよ、有象無象。


 これぞ空箒の矢。


 一番星の絶技。


「放てぇ!」


 遍く武士にとって、勇者(あこがれ)を追う星である。


 裂帛の号令と同時に、無数の矢が空を斬った。


 星の重みすら振り切った鏃は一切の減衰を受けることなく、一直線に飛翔する。


「TSU――」


 音の壁を貫いた矢群が、轟音を奏でた。


 迫るランニングマグロを、先頭から次々と貫いていく。


 一射で百を超える怪魚が屠られ、先陣を駆けていた魔物たちは海の藻屑と化した。


 しかし、ランニングマグロの軍勢は止まらない。


 むしろ勢いすら増し、殺人鮪たちは海面を蹴り、仲間の死骸を盾にしながら迫ってくる。


 二射目を構える時間はない。


 そう判断した大将は、兜の緒をきつく締めた。


「総員、抜刀!」


 一斉に白刃が抜き放たれる。


 鶴翼の陣を維持したまま、中央に立つ屈強な武士たちが、大柄な片鎌槍を構えた。


 彼らの瞳に、強い光が宿る。


 ランニングマグロは、ふざけた見た目とは裏腹に、武器を扱う知恵と技量を備えた手練れの魔物。


 生きて帰れる保証はない。


 冒険者ですら慄く軍勢を前にして、それでも武士たちの瞳には焔が宿っていた。


 我らは貴種。


 ゆえにこそ、命を散らす戦を誉れと知れ。


 始祖の名を借りた矢を放った以上、彼らから怯えは消えていた。


 心に背水の陣を敷き、海上から迫る化け物どもと相対する。


 死を前にして戦意に一切の衰えなく、死線を踏み越える覚悟を決めた。


「TSUNAAAッ!」


 怪魚の脚が、浜辺へ触れる。


 ランニングマグロが、【出雲】へ上陸した。


「突撃ィィィッ!!」


 鬨の声が上がり、武士たちが駆け出す。


「<紅蓮砲殲火(ヴァ・レグロム)>」


 瞬間、爆炎の太陽が浜辺を焼き払った。


 轟、と熱風が武士たちの顔を撫で、砂浜に大量の焼きマグロを作り上げる。


「遅くなりました」


 一人の少年が、砂浜へ着地した。


 周囲に巨大な魔法陣を巡らせ、白髪の少女を抱きかかえた緑髪の少年。


 続いて、その背後から赤髪の少女が舞い降りる。


「銀級冒険者、エディン・イラ・リステリア。並びに」


「同じく銀級冒険者、リリア・ヴェセル・アガレイド」


「「危急の報を聞き、参上いたしました」」






※※※






「き、貴殿らは……」


 困惑する武士たちへ軽く会釈し、その隣へ並び立つ。


 僕の背丈の倍近くある、立派な武士だった。


 構えには一切の隙もない。


 冒険者とは異なる強さと秩序を備えた、鍛え抜かれた戦士だ。


 うん。


 これなら、僕らが足を引っ張る可能性を考えなくてもよさそうだ。


 豪奢な兜を被った大将は、僕らへ何か言いたげな顔をしている。


 だが、あえて無視した。


 おおかた、言いたいことは分かる。


 子供を戦場へ立たせることを、よしとしていないのだろう。


 ならば、実力を示せばいい。


 鯉口を切り、黒い刃を持つ太刀――『亡星(よる)』を抜き放つ。


「<玉桂天装(ソーマ)>」


 アルターが間髪を入れず、指先へ黄金の魔力を纏わせた。


 僕とリリアへ、強化魔法が施される。


 魔力出力が上昇し、全身を巡る力が活性化する。


 魔力の回復速度が高まり、身体の隅々まで明瞭に感覚が行き渡った。


「ともに、【出雲】を護りましょう」


 柄を両手で握り、いつものように【旧流法(レアーラ)】の構えを取る。


 リリアも愛剣を抜き、片手で【閻】を構えた。


 大将は、僕らの構えを見て息を呑む。


 そして顔を背け、大きく息を吐いた。


 既に、ランニングマグロの第二陣が迫っている。


「……助力、感謝する。ともに【出雲】を護ってくれ」


 怪訝さを消した大将が、白刃を煌めかせた。


「ええ」


「無論です」


 僕らの返答は、言うまでもなかった。






※※※






 ――五分経過。


 戦場は、泥沼の混戦と化していた。


「はぁぁぁッ!」


 腹の底から戦意を叫び、迫るマグロを切り捨てる。


 海面から飛びかかってきたランニングマグロの頭を逆袈裟に叩き斬り、背後から迫る一撃を躱す。


「TSUNAAAッ!」


 マグロが叫び、三匹同時に飛びかかってきた。


「やかましいッ!」


 黒刀一閃。


 一匹を切り伏せ、もう一匹を蹴り倒し、残る一匹の身体を《統巡》で無理やりへし折る。


 同時に、指で銃口を象った。


「プチ<紅蓮砲殲火(ヴァ・レグロム)>」


 極限まで火力を抑えた<紅蓮砲殲火(ヴァ・レグロム)>を、指先へ展開する。


 灼熱を圧縮し、最低出力未満でも術式が成立するよう構成を改変。


 指先に、小さな熱球が浮かび上がった。


「発射」


 深紅の太陽が、ランニングマグロの群れの中央で炸裂した。


 しかし、展開した爆炎は瞬く間に魔力を奪われ、マグロの表皮を焼き焦がすだけに留まった。


「ちぃっ、海の影響か……!」


 海は退魔の性質を持つ。


 魔力も瘴気も例外なく吸収し、その力を削いでしまう。


「あはっ!」


 赤が砂浜に跳ねた。


 【八炎鼓】の焱を纏ったリリアがマグロの群れを薙ぎ払い、次々と切り捨てていく。


 天地を跳び回り、刃を翻すたび、敵を一匹残らず屠っていた。


「皆の者! 童らに負けてなるものか! 武士の底意地、見せてくれようぞ!」


「応ッ!」


 武士団も負けてはいない。


 刀と槍を巧みに操り、周囲のランニングマグロを切り崩していく。


 卓越した連携だった。


 大太刀を持つ前衛の武士がマグロと切り結び、槍を持つ中衛が怯んだ個体を突き殺す。


 あるいは片鎌でマグロの身体を引き寄せ、前衛の間合いへ放り込み、切り捨てさせる。


 僕も《統巡》でランニングマグロの死骸を移動させ、うずたかく積み上げた屍の山で敵陣を分断している。


 それでも、切っても切ってもきりがない。


 ――八分経過。


「負けてらんないなぁ!」


 身体を深く傾け、地を這うような姿勢でマグロの群れの中央へ駆け込む。


「TSUNAッ!」


 ランニングマグロが、槍を突き出してきた。


 鋸のような刃が僕の脚を抉り、鮮血が噴き出す。


 ――耐性獲得。『切創』


 瞬間、瞳に戴星が宿る。


 傷口へ淡い光が纏わりつき、出血と痛みが止まった。


 ほお。


 出血だけじゃなく、痛覚まで抑えられるのか。


 獲得する耐性が予測できないのは若干の難点だが、傷の悪化を防げるのなら御の字だろう。


 膝まで海水に浸かる場所まで駆け、一気に跳び上がる。


 同時に魔法陣を描き、《統巡》によって周囲の力場を固定する。


 《蒼眼》に映る魔力の流れが滞り、海へ吸い込まれる速度が僅かに低下した。


 いい。


 完全ではないにせよ、魔力の吸収を遅らせられるのなら、一気に術を発動できる。


 身体と眼前へ最大出力の魔力障壁を展開。


 上空十メテルから、ランニングマグロの軍勢を睥睨する。


 この場所で魔法を放っても、奴らがいるのは海上だ。


 僕の<紅蓮砲殲火(ヴァ・レグロム)>は、何かに着弾しなければ爆炎が広がらない。


 何より、通常の威力で放ったところで、海に全て無効化されてしまう。


 だが、僕の源流能力と組み合わせれば、全ての問題を解決できる。


 ゆえに。


「――<紅蓮砲殲火(ヴァ・レグロム)>」


 最大出力。


 地上に深紅の太陽が顕現する。


 術式は僕自身をも薪として収縮し、直後、凄まじい勢いで爆散した。


 灼熱の奔流が全てを焼き焦がし、視界に映るマグロたちを灰燼へ帰す。


 ――耐性獲得。『炭化』


 ――耐性獲得。『火傷』


「かっ、ふ……!」


 全身が炭化し、重度の火傷と裂傷を負う。


 やっべぇ……。


 魔力障壁を張っていなかったら、間違いなく死んでいた。


 だが、耐性を獲得した今なら、動くことに僅かな支障しかない。


 眼下には、爆炎を逃れたランニングマグロがまだ残っている。


「魔剣技巧――」


 『亡星(よる)』を強く握る。


 刀身へ気魄と魔力をさらに喰わせ、黒い刃へ<紅蓮砲殲火(ヴァ・レグロム)>の残り火を纏わせた。


「――『夜舞い』」


 着地一閃。


 深紅に染まった刃を振り下ろし、ランニングマグロを、立ち上る水蒸気ごと焼き払う。


「<回帰原理(イニラ・イム)>」


 着地と同時に魔法陣を描く。


 普段以上の激しい消耗と引き換えに、焼け爛れた身体を元の状態へ回帰させた。


「ふう――」


 八分二十秒。


 これで、十分より前にほとんど片づけられたかな。


 魔力は、ほぼ空だ。


 だが、《蒼眼》で視る限り、敵の姿も残っていない。


 そう安堵し、『亡星(よる)』を納刀した瞬間。


 砂と死骸の下から、無数のランニングマグロが襲いかかってきた。


 マグロたちは口内へ圧縮した水を刃のように撃ち出し、僕の脚を貫いた。


「んな……ッ!?」


 鮮血が溢れ、両脚から力が抜け落ちる。


 千を超える新手のマグロが、僕の周囲を包囲していた。


 くそ、こいつら、どこから……。


 そうか。


 別動隊。


 海岸の洞窟から、水圧の刃で砂浜の下を掘り進んできたのか……!


 思考を巡らせた瞬間、背後から錆びた剣がフルスイングされた。


 身体を逸らし、寸前で回避する。


「くそっ!」


 こんにゃろ……!


 背後からとは、やるじゃないか!


 礼を返すように脚へ気魄と魔力を巡らせ、ランニングマグロの脛へ思い切り蹴りを叩き込む。


「……あ」


 同時に、<玉桂天装(ソーマ)>の強化が途切れた。


 ランニングマグロどもが、皿のような赤い眼で僕を見下ろす。


 口腔へ圧縮水を集め、全方位から僕を包囲していた。


 ――九分三十秒経過。


 残存耐性、なし。


 魔力、ほとんどなし。


 身体強化、維持不能。


「……やっちゃった、な」


 マグロたちの口腔内で水圧の刃が圧縮されていく様子を、どこか他人事のように眺める。


 しまった。


 深入りしすぎた。


 こうも見事に引っかかるとは……。


 十分以内に終わらせようと逸ったせいで、視野が狭くなっていた。


 ――仕方ない、ね。


「僕の負けだよ」


 十分、経過。


「――イルク」


 瞬間、凄まじい衝撃波が飛来した。


 三百を超えるランニングマグロが、一撃で挽肉へ変わった。






※※※






 【出雲】大社。


 エディンたちがいる海岸線から、遥か六キロ先に建つ大神社。


 その社殿の上空に、一人の男が浮かんでいた。


 拳を構え、遠く離れた海岸を睥睨している。


「――まったく~。エディンは本当に、無茶しかしないんだから」


 黒髪の青年は、藍色の瞳を海岸にいるエディンただ一人へ集約させ、困ったようにぼやいた。


 そして、拳へ纏わりつく鎖へ意識を向ける。


 エディンから寄せられた、絶対の信頼。


 かの少年が知る最強。


 大社の上空から、戦場の全てを見下ろす男が一人。


「後で、お説教だ」


 イルク、その人である。


 拳へ力を込める。


 右の拳を左の掌で覆い、腰だめに構えた。


「【(ドスト)】――」


 漢字で【罪】と刻まれた右拳の名を呼ぶ。


 瞬間、イルクの右腕を覆うように、赤い鎖が出現した。


 イルク自身を縛りつけるように巻きついたそれは、心臓の如く脈動している。


 それは、源流能力に非ず。


 それは、魔法に非ず。


「――《恩赦(アンチェイン)》」


 赦しを唱える。


 それは、ただの武具に非ず。


 それは、迷宮特典。


 イルクの牙にして、彼自身を縛る鎖。


 暴力の化身たる男の力を抑え込み、その肉体を封じる概念の牢獄。


肉体解放(オリジン)――十パーセント」


 それが今、僅かに解き放たれる。


 ずん、と空間が歪んだ。


 解放された圧倒的な膂力に、大気そのものが軋みを上げる。


「月輝無刀流――」


 拡張されたイルクの拳が、空気の面を捉えた。


 振動が。


 衝撃が。


 その拳の射程となる。


「――『銀流』」


 音を引き殺し、拳を空気の面へ叩きつける。


 竜の爪で引き裂かれたかのような衝撃の刃が、超々音速で海岸へ到達した。


 海を切り裂く。


 大気を砕く。


 直後、凄まじい爆音と白煙が【出雲】を覆い尽くした。


「知り得たか、有象無象」


 空は割れ、雲は引き裂かれていた。


 その下で、イルクは高々と嗤う。


 これこそは、暴虐の竜姫より直伝された一撃。


 いざ仰げ。


 これこそは――。


「――世界を切り裂く一撃なり」


 エディンの周囲を埋め尽くしていた有象無象。


 その全てが、一撃のもとに薙ぎ払われていた。

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