春先の君
雫が、湖面に沈む音がした。
目を開けると、一面が黄昏の裡。
足の下に、どこまでも平らな水面が広がっている。風はなく、雲もなく、波もない。
彼方に沈む太陽を見送るような、あるいは朝焼けの輝きのような黄金色。
鼻先をなでる甘くない桃の香り。領域一円をに漂う瑞々しい青が、鼻腔をくすぐる。
「ああ——」
アレアに呼ばれたのか。
得心がいった僕は、まっすぐ水の上を歩く。足を下ろすたびに、水面に小さな波紋が広がって、すぐに消えていく。
「やァ、エディン」
その先に、白い少女が据わっていた。
水鏡の上に、象牙色の机と椅子がある。机にはクッキーと紅茶。十年前から、そこは変わることがない。
アレアは頬杖を突き、面白そうに笑っていた。
「四日ぶりだね、アレア」
椅子を引き、アレアの対面に腰かける。
「そうだねェ。【聖都】にきてようやく、繋げられたからね。でも、エディンの苦労はずっと見ていたよ? 船酔い、大変そうだったじゃあないかァ」
アレアはくすくすと笑った。
「それで、どうだい? ボクの神官には会えたかな?」
「……それが、全然」
僕は頭を掻き、紅茶に口をつける。
甘く、しかし後味も余韻も残らない。霞のような味だった。
「神官のおじいさんには会えたんだ。ネルルさんって人。でも、お孫さんである神官の人には、まだ会えてなくて」
「ふゥん」
アレアは自分の白い毛先を見ながら返事をする。
興味があるのかないのか。なんとも判断をつけ辛い声色だ。
「……せっかく、【聖都】に行けって言ってくれたのに。ごめんね」
アレアに向かって頭を下げた。
事実、アレアが僕に善意で告げてくれた話を活かしきれなかったんだ。彼女が怒っても当然だろう。
アレアは、頬杖を突いたまま、僕の頭のてっぺんを見下ろした。
「気にしなくていいよォ」
想像よりものんびりした声で、アレアは言った。
「あの子のお祖父さんは、ちょっとはしゃいでいたみたいだね。久しぶりにボクの名前を聞いて、嬉しくなっちゃったんだろう。頭上げてよ、エディン」
「やっぱり、知ってたんだね」
「そりゃアねェ。ボクは、あの子の家系はちゃあんと見てあげるって決めてるからさ」
アレアが指先で空をつつく。
波紋が生まれ、ネルルさんの顔がゆっくりと浮かんでいく。
今は、どこかで会談を行っているみたいだ。
「あの子のお祖父さんは、隙にさせてあげてるんだ。よォく頑張ってくれてるからね。
ちゃあんといい子にしているうちは、好きにさせてあげてるんだ。もっとも」
アレアの笑みが、ほんの少し深くなった。
「悪いほうに転ぶようなおいたをしたら、そのときはちゃあんと罰をあげるからね」
産毛が泡立つ。
こ、こわ~……。アレアの罰とか。絶対えげつないってわかるもん。
「そんなに怯えないでよォ。今のところはそうでもないからさ」
アレアはにこりと笑い、クッキーを口に運ぶ。
「それでね。エディン」
「うん」
「あの子——ボクの神官はね。普段は、ずうっと祭壇に籠ってるおとなしい子で、あまり外には出ないんだ。部屋の扉を叩いても返事もしないらしいからねェ」
アレアは無限に広がる樹形図を呼び出し、それを一瞥しながら言った。
「それじゃ、あえないじゃん」
「うん。そうだね。普通なら、そうなるねェ。だから」
アレアの黄金色の瞳が、すうっと細くなる。
口の端が、ゆっくりと上がっていく。
「今日、会えるよ?」
脈絡もなく、アレアは言ってのけた。
「え、それは——」
——どういう意味。
喉奥まで出かかった声は、届くことなく消えていった。
続く言葉を語ろうとした途端、視界が白く滲み始めた。
アレアの姿が、水面に溶けるように遠ざかっていく。
「お目覚めの時間かな? 楽しんでおいでよ、エディン」
ひらひらと白い手が降られる。
ぷつん、と切れるように視界が真っ白に染まっていった。
※※※
目を開けると、天蓋のベッドだった。
赤い木材の、清涼感のある甘い匂いが薫る。
カーテンの隙間にある水晶玉から淡い光が漏れ、部屋を暖かく照らしていた。
「んん、ん……っ」
背筋を一杯伸ばし、備え付けられた魔力水晶の時計を見る。
「……7時か」
もうすでに、結構な時間だ。
今日の二人での街ぶらは10時から。
リリアにアルター、ログマすらまだ撃沈している。
昨日の段階で術式学は最低でも8割の点数を維持できるようになった。
おかげで1時回るまで勉強する合宿みたいな感じだったけどね。ちゃんと数えてないけど、思考加速の時間の中で体感30時間はぶっ通しで勉強してたと思う。
そりゃみんな疲れる。みんな、地頭がいいから、すぐ覚えていっていたし。クロが時間計測してくれていたけど、この調子なら今日の午前から15時までは休んでもいいだろう。
エレインさん曰く、今日の朝食は好きな時間に取るといいと言われている。焼きあがる小麦の匂いが、部屋の香木と混ざり合っていく。
んー、いい具合におなかはすいてるな。リリアはまだ起きてないだろうし、さきにご飯を済ませちゃおう。
ふわあ、と欠伸を嚙み殺しながら、僕は<瞬間装着>の術式を身に纏わせた。
※※※
「おはようなのです~」
「挨拶。おはようございます」
朝食を食べ終え、ロビーのソファで教本を読んでいると、アルター達から声がかかる。
アルターはあくびをかき、目をしょぼしょぼとさせていた。昨日は魔法を使いっぱなしだったから、疲れたのだろう。
「みんな、朝ご飯は食べた?」
「食べたのですよ。今朝のスクランブルエッグもとてもおいしかったのです」
「同感。アンチョビなるものも大変美味でした」
ログマはふんす、と鼻息を荒くしていた。手には魔導書やらなんやらが握られている。
「午前は休みなんだから、今日くらいゆっくりしておこうよ」
「反駁。これは趣味の本です。治癒術に関するものなので、十分に息抜きはできるものと考えます」
目の前の二足歩行するマグロはソファへ腰かけ、楽しそうにページをめくる。
……本人が楽しいなら、それでいいかぁ?
「おはよう、諸君」
「おはよっす~」
扉を開けて、クロたちが姿を現した。
頭には仕立てのいいトップハット。白を基調とし、青いラインが入った貴族服に、白手袋。手には銀の蛇があしらわれたステッキを握っている。ヒールのある、黒い短靴を履いていた。
黒いコートもとい、エルちゃんも肩に羽織ったまま。大貴族のお坊ちゃん、という装いだった。
エレインも同じ。ただ、従者という装いなのか、全身の色合いは僅かに地味だった。
胸元には黒い闇瑪瑙のネックレスを下げている。それ以外に宝飾品は見当たらない。
「おはよ、クロ。エレイン。びっくりした。エレインが従者みたいな装いなんだね。お世話好きなだけだと思ってた」
「おはよう、エディン。公や大婆様もエレインには好きな格好をするように言っているのだがな。この姿のまま変えようとしない」
クロは渋面を作り、頭に手を置いてため息を吐いている。
格好も相まって絵になる。日常生活のポンコツ具合を知っていても、華があるように見えるのは、やっぱりクロ本人の気風なんだろう。
「おはようっす。当たり前っすよ~。次期当主様とあたしが、同格なわけないじゃないっすか~」
エレインはあっけらかんと卑屈なことを言う。
「エレイン。何度も言っているが、お前は公の妹だ。家の連中なら黙らせているじゃあないか。お前はお前の好きな格好をして——」
「お言葉っすけどね。あたしはこの格好を好きでしてるっす。兄様は気にしないでほしいっすよ」
ぴしゃり、とエレインは言い切った。
「………………そうか」
クロは言い淀みながら、視線を逸らした。
鉛でも飲み込んだような顔で、彼は自分の金髪を弄り始める。
…………複雑な事情があるんだな。
「そ、そういえば! リリアが全然来ないのですね」
「同意。お年寄りと同じ生活習慣を送っているリリアが一番遅いのは珍しいですね」
どんよりし始めた空気を払うように、アルターが話題を変える。
アルターの言葉に乗っかり、ログマが強烈に失礼なことを言い放ち、隣に座る白髪の財政官をぎょっとさせた。
ろ、ログマお前……。いくらログマでも、それを本人に聞かれたらシバかれるぞ……。
「——お待たせ」
そんなこんな言っていると、リリアの声がロビーに響いた。
「おお……!」
すごく、きれいな格好をしていた。
大きな麦わら帽子。帽子から覗く赤い髪はさらさらと流れ、香油と石鹸の香りが漂っている。
顔の肌がいつもより白く、きれいだ。唇も嫌みなく紅が差していて、猫のような顔だちに気品と淑女らしさを纏わせている。
袖を通しているのは白いワンピース。リリアの白い肌より白く、薄い色地のそれは、胸元を覆い隠した白いインナーが覗くか、覗かないかの境目。
いつもは履かない、高いヒールの靴。
……マジか。帯剣してない。代わりに白い日傘を持っている。
普段のリリアが野に凛と咲く薔薇だとするのなら、今のリリアは花瓶に差した百合ってとこだろうか。
……だめだ、びっくりしすぎてロマンス小説の主人公みたいな気障な感想まで出てきた。
「…………………………」
「…………………………驚天、動地」
アルターとログマが大口を開けてぽかん、とリリアを見つめている。
アルターは袖で目をごしごしとこすり、リリアを何度も見ては、僕へ振り向いた。
どういうことだ、明日槍でも降るんじゃないか、とでも言わんばかりの顔だ。
そりゃこっちのセリフだよ。リリアがこんな別嬪さんみたいな恰好をするなんて思ってもいなかったし。てか、どこで買ったんだその服。
「ど、どうかしら……」
リリアがじっと僕を見つめ、ひらひらの服の端を掴んだまま僕に上目づかいをよこす。
「すごい。すごく似合ってる。きれいだ」
「……………………そう」
リリアはそっぽを向き、顔を真っ赤にして口を開いた。
「べ、別に楽しみだったとかそういうのじゃないから。エディンとのデ、お出かけが楽しみだったとかそんなんじゃないから勘違いしないで」
す、すごい早口でリリアが連射トークを開始した。
アルターが顎に手を当て、「あー……」と納得したように何度も頷いていた。そして、僕にニヤニヤとしたおっさんみたいな笑みを向けてくる。なんだその顔は。
「すごく似合ってるよ。これは、僕がこのままリリアの隣に並んだらリリアに恥ずかしい思いをさせちゃうね。
もっとちゃんとした服に着替えた方がいいかな?」
僕は自分の服を見ながら言う。
いつも通りの服装だ。服なんか破れなければいいの精神で生きてきたため、衣服へ求めるハードルがバカほど低い。
ただ、そんな僕にも今の服装は明らかに不釣り合い。ご令嬢と言う風貌になったリリアの隣を歩くのが、こんな格好のままじゃ、彼女に恥をかかせてしまう。
「べ、別にそんなこと気にしなくて……」
「いやいや。リリアがこんなに頑張っておめかししてきてくれたんだ。
適当な格好じゃ申し訳が立たない。ちょっと待ってて。着替えてくるよ。……いい服あったかな」
僕は赤くなったリリアの隣を通り過ぎ、自室へ向かう。
礼服の類とかなら、まあイルクからもらったけど……。リリアの格好は礼服ってわけじゃない、休日のお嬢様って感じだ。
まあ、今よりはマシか。
「おお。それなら公の服を貸そう。エディン、公の部屋に来ると良い」
椅子に腰かけていたクロが立ちあがり、僕の隣に立った。
「え、いいの?」
「無論だ。エディンに恥をかかせるわけにはいかないじゃあないか」
クロはふ、と笑い、軽く僕の肩を叩いた。
「なら、あたしがおめかしを手伝うっすよ~。慣れてますし」
エレインも後ろについてきてくれた。
「…………………………」
後ろにいたリリアは、耳まで真っ赤になっていた。




