朝露の弾ける日
女の子は、すたすたと部屋に入ってきた。
呆れたように片手を腰に当てたまま、扉のすぐ近くにある花瓶を通り過ぎる。
床に膝をついた僕の隣を通り過ぎて、ベッドの前にしゃがみこむ。
クロの足元の、ぐちゃぐちゃに絡まった靴ひもを、右の指先で摘まみ上げた。
「はいはい、ちょっと失礼するっすよー」
女の子は、ぐちゃぐちゃになった輪っかを、指先で弄ぶ。
「あっちゃあ。なんであたしを呼ばないんすか。また面倒な結び方しちゃって」
「………………」
クロがそっぽを向く。
視線は僕と真逆の方向。壁にかかった、十字の槍を背負った青髪の青年の絵画へと向かっていた。
「……あ。なるほど。兄様もかっこつけっすね~」
少女は僕とクロに視線をやると、何か得心が言ったようにニタニタと笑った。
少女が視線を靴紐へと戻す。
片手の細い指先が、結び目の隙間に滑り込む。
解き、ひいては指先に絡め、また通す。
たった一瞬で、石みたいに固まっていた輪っかが、するりとほどけた。きゅ、きゅ、と音が響き、ひもがくるりと回る。
「はい、結べたっすよ」
きれいな蝶結びが、クロの靴にできていた。
左右の輪の大きさまで、ピッタリ揃っている。片手でやったとは思えない、見事な出来だ。
「はい、おしまいっす」
女の子は、ぱんぱんと手を払って立ち上がった。
反対側の靴も、同じように結ばれていた。
……すげえ。もう片方の手で靴紐を結んでいたんだ。かなり器用だ。今度、僕も練習してみようかな。
「……いつも、すまない」
「いいっすよー。それがあたしの仕事のひとつですから」
クロは、足元の完璧な蝶結びを見下ろして、何とも言えない顔をしていた。
……へえ。あのプライドの高いクロが、自分の世話をほかの人に焼いてもらうなんて。意外だな。
女の子は、それからくるり、と僕の方へ振り返った。
「すいません、御挨拶が遅れたっす」
糸のように細い目が、にこっと笑う。
ぺこり、と頭を下げた。肩にかかる金色の髪が、ふわりと揺れる。
「エレイン・アイネイアスっす。兄様の、双子の妹っすね。
いつも兄様がお世話になってるっす」
「あ、これはどうもご丁寧に。僕はエディン。エディン・イラ・リステリア。そんなに畏まらないで」
「え、ほんとすか~? じゃあ、楽にさせてもらうっすー
にへら、とエレインは笑い、人差し指と中指を立てて笑う。「いえーい、ピースピース」って言ってるから、たぶんピースってやつだろう。
「いやあ、あの兄様を魔法合戦で土付けさせたっていうから、どんな激やばな人なのかな、と思ったら。案外、やさしそうでよかったっすよ」
エレインさんは、じっと僕の方を見ていた。
……なんか、見られているな。観察されてる感じがする。僕の身動きや足を細い目の奥から、舐めまわすように見ている。
隙の少ない佇まい。重心が安定している。魔力以外の身体運びは、クロ以上。だいぶ強そうだな。
ニコニコと笑ったまま、エレインさんは僕の方に右手を差し出してきた。
「よろしくっすよ、エディンさん」
「こちらこそ、よろしくね」
握手をする。
……おお。体幹もなかなかのもの……。リリアが比較に上がるレベルなの、すごいな。
そこから、何気なく彼女の左手に目がいった。
※※※
——うわお。
《蒼眼》が、ちょびっとだけ、勝手に開いていた。
左腕が、義手だ。
見た目は普通の女の子の腕。皮の質感やら、血色などは右腕とそん色ない。
肌の下は、肉と骨の代わりに、絡繰があった。
髪の毛よりも細かい歯車や術式が、何千、何万とかみ合っている。腕の動きを完全に再現した、錬金術の代物。
一つ一つが、驚くほど速く、恐ろしく正確。
(……材質は、骨か。彼女自身の左腕を錬成したものか)
骨、関節、髄に至るすべてに、細やかな術式がびっしりと刻まれている。術式は視えるが、既存の魔法言語じゃない。こりゃ……なんだ?
大きさ、いや。その骨の中心。そこの空間が、微妙に変。特殊な歪みがある。
《蒼眼》を、腕の内側へ向けていく——。
「——あ、そうだ。エディンさん」
エレインの声が、思索の海に潜りかけていた僕を現実に引き戻した。
「明日の朝ごはん、何がいいっすか?」
「朝ごはん、ですか?」
「そうっす。あたし、明日から兄様の分と一緒に、皆さんの分も作ろうと思ってて。食べたいものとか、あるっすか?」
ニコニコと、細い目のまま笑っていた。
笑顔に含むものはなく、僕の様子を伺うように見つめていた。
……ふむ。思考を盗聴、とかされたわけじゃないよな? 何か、覗いていることに気づいているわけでもない。か。
まあ、あまり踏み込みすぎない方がいいか?
この屋敷で、知らないうちに何かを読まれるかもしれない。そう思うと、気になったことを、そのまま頭の中で転がしておくのは、たぶん、よくない。
すげー、で、止めておこう。
「えっと、朝ごはん……」
「――公は、あれがいい」
横から、声がした。
クロだった。ベッドの端に座ったまま、ひどく真面目な顔で、指を一本立てている。
「アシュドットの屋台で食べた、羊の肉を挟んだ平たいパンだ。香辛料の効いた、あれだ。エディンも好きだったろう。あれを、朝から十五人前――」
「兄様には聞いてないっす」
エレインさんが、ぴしゃりと言った。
「……む」
「あたし、今、エディンさんに聞いてるんす。兄様は、明日の朝、出されたものをちゃんと食べてくれればいいっす」
「…………」
「それに」
エレインさんは、窓の外へちらりと目をやった。
外は、もうとっぷりと暮れていた。噴水の水音だけが、さらさらと響いている。
「時間も時間っす。エディンさん、さっきまでずーっと、皆さんに魔法を教えてたんすよね。疲れてる人に、朝から十五人前の羊の仕込みに付き合わせる気っすか?」
「付き合わせるとは言っていない。作るのは――」
「作るのは、あたしっすよね?」
「…………」
「はーい、兄様の注文は却下っす」
クロは、ぷいと顔を背けた。
耳の先が、ほんのりと赤かった。
……今日、二回目だ。クロが、誰かにお行儀よくさせられるの。
「で、エディンさんは?」
「あ、えっと」
僕は、少し考えた。
「なんでも大丈夫です。……あ、量は、多めだと嬉しいです」
「量っすね。了解っす」
エレインさんは、にっと笑って、親指を立てた。
なんだか、全部お見通しみたいな顔だった。
……いや、まあ、リヴェータさんの補佐をしてたなら、僕の食べっぷりくらい、もう誰かから聞いてるのかもしれないけど。
「じゃ、兄様。部屋戻るっすよ」
「……分かっている」
「歯、磨いたっすか?」
「……まだだ」
「寝間着は?」
「…………」
「はいはい。行くっすよー」
エレインさんが、クロのコートの袖をつかんで、ぐいっと引っ張った。
クロは、抵抗しなかった。というか、できなかったんだと思う。ずるずると、扉の方へ引きずられていく。さっきまで原素の構造を理路整然と説明していた男と、同じ人とは思えなかった。
扉のところで、クロが、ぐっと足を踏ん張った。
「――エディン」
「なに?」
「明日は、勉強会のあとで、魔法チェスをやろう。それから、いろいろだ。公は、まだお前とやっていないことが山ほどある」
「いろいろって?」
「いろいろはいろいろだ。……絶対だぞ」
最後の一言だけ、ひどく真剣な声だった。
「うん。いいよ」
僕が頷くと、クロは、ほんの少しだけ口の端を上げた。
それから、エレインさんにもう一度引っ張られて、扉の向こうへ消えていった。
閉まりかけた扉の隙間から、エレインさんがひょいと顔を覗かせる。
「おやすみなさいっす、エディンさん」
ぱたん、と扉が閉まった。
部屋の中が、急に静かになった。
……嵐みたいな人だったな。
僕は、床に座り込んだまま、閉まった扉をしばらく眺めていた。
クロに、妹がいたんだ。
しかも、あのクロが、まるで頭が上がらない。
……なんか、いいな。
※※※
次の朝。
空が、まだ群青色だった。
東の山の稜線だけが、うっすらと白み始めている。屋敷の中庭には、夜の冷たさがまだ残っていた。芝生には露が降りていて、足を踏み出すと、靴の先がしっとりと濡れた。
朝の五時。
東塔にいた頃からの癖で、この時間になると、勝手に目が覚める。
中庭に出ると、先客がいた。
噴水の向こう。檸檬の木の下で、赤い髪が揺れていた。
リリアだった。
両手で木刀を握って、黙々と振っていた。
上段から、振り下ろす。引き戻して、また振り上げて、振り下ろす。踏み込みの足が、芝生の上で同じ場所を踏んでいる。同じ角度、同じ速さ、同じ高さ。息を吸って、止めて、振り下ろしながら吐く。
ひゅ、と木刀が空気を切る音が、静かな中庭に、規則正しく響いていた。
「おはよう、リリア」
「……おはよ」
リリアは、振る手を止めずに答えた。
「早いわね、エディン」
「リリアこそ」
「わたしは、毎朝これだもの。……昨日のこと、ちょっと、悔しかったし」
振り下ろす。
ひゅ。
「あの人、強かったわね」
メーテールさんのことだと、すぐに分かった。
「うん。強かった」
「剣、弾き飛ばされたわ。あんなの、初めて」
振り下ろす。
ひゅ。
「だから、振ってるの」
回廊の柱に、木刀がもう一本、立てかけてあった。
「それ、使っていい?」
「いいわよ。わたしが来たとき、二本並べて置いてあったの。誰が置いたのか知らないけど」
僕は、柱から木刀を取った。
手に馴染む重さだった。柄の部分が、少しだけ擦り減っている。誰かが、長く使っていたものらしかった。
リリアの隣に、並んで立った。
構える。
息を、吸う。
振り下ろす。
ひゅ。
隣で、リリアの木刀も、同じ音を立てた。
――あ。
揃った。
もう一度、振り上げる。
隣で、赤い髪が、同じ高さまで上がるのが、視界の端に見えた。
振り下ろす。
ひゅ。
また、揃った。
息を吸うのも、止めるのも、吐くのも。踏み込みの足が芝生を踏むのも。木刀が空気を切るのも。一回目は偶然でも、二回目、三回目、四回目と続くと、もう偶然じゃなかった。
僕が合わせているのか、リリアが合わせているのか。たぶん、どっちでもない。気づいたら、揃っていた。
ひゅ。
ひゅ。
ひゅ。
朝の冷たい空気の中に、二人分の、たった一つの音が響いていく。
十回。二十回。三十回。
振り下ろした木刀の先で、ふと、リリアと目が合った。
リリアは、少しだけ目を丸くしていた。
それから、ふっと、口の端を上げた。
僕も、笑った。
声は出さなかった。でも、なんだかおかしくて、ちょっとだけ、肩が揺れた。
「……ねえ、エディン」
「うん」
「あとで、仕合いましょう。これで」
リリアは、手の中の木刀を、軽く掲げてみせた。
「本気で」
「いいよ。本気で」
「手加減したら、許さないから」
「しないよ」
リリアは、満足そうに頷いた。
それから、また前を向いて、木刀を振り上げた。
僕も、振り上げる。
揃って、振り下ろす。
――そのとき。
ど、と。
空気が、ぶち抜かれた。
僕らの木刀の音じゃなかった。
もっと、重い音だった。空気そのものに、穴が開いたような。腹の底に響く、鈍くて、硬い音。中庭の噴水の水面が、一瞬だけ、ざわりと波立った。
リリアと、同時に振り向いた。
中庭の、一番奥。
回廊の柱の影になった、薄暗い一角。
さっきまで、誰もいないと思っていた場所だった。《蒼眼》で一度見回したときも、何も引っかからなかった場所だった。
そこに、男の人が立っていた。
黒い、【神父】の法衣。
片方の拳を、前へ突き出したまま。
突き出した拳の先で、朝の空気が、まだ、かすかに震えていた。
金と灰の混じった髪が、朝の風に、ほんの少しだけ揺れていた。
――ユースティスさんだった。




