かくして、少年は未来を取る
扉が、ゆっくりと開いた。
一人。白い法衣の人が奥に立っている。
胸元に、大きな正三角のロザリオ。短く刈り揃えた灰色の紙に、目じりにしわの寄った、穏やかな目。
ヨアン【司祭】だった。
今朝、列車の窓から、リヴェータさんと一緒に飛んで行っていた。
何事なのだろう、と思っていたけど、そうか。リヴェータさんが、視えていた穏やかな鼓動の人を、連れて来ていたのか。
ヨアン【司祭】は、扉の前で一度だけ深く頭を下げた。
すり鉢の議場を見下ろした。百人の聖職者の視線を受けて、彼の喉がわずかに上下する。
息をのみ、頭を振ってまっすぐ僕の方を見て、評議室の底へ足を伸ばす。
「——待たれよ」
右上の席から声が上がる。
白い髭を二本に伸ばした人物。【司教】の札がある男性だった。
「そなたは一介の【司祭】の身。優秀な【司祭】と聞いているが、ここは聖域なりや。ヨアン殿が入るにはまだ不相応であろう。
我らから招かれていない以上、資格はないのだ。どうぞ、その扉の向こうへ——」
「書記官」
リヴェータさんが、穏やかに呼んだ。
入り口の脇で、帳簿を抱えたまま固まっている書記官さんが、肩をびくりと跳ねさせた。
「今日の参加者に関する帳簿を、ご確認いただけますか」
「は、はい……」
書記官さんが、震える指で帳簿をめくる。
「ほ、本日の評議につき。第一【枢機卿】リヴェータ・ロット・アイネイアス猊下のお招きになる【司祭】一名に、出席ならびに発言の許可……と記載が、ございます」
議場が、ざわっと揺れた。
「申請日と記載日は」
ガデムドロルさんが静かに尋ねる。
「さ、三週間前の……土曜日。21日前です」
白い髭の【大司祭】と、ガデムドロルさんが固まった。
21日前って……。僕とイルクが分かれた日じゃないか。
「本日の評議は、11時からと伺っておりましたので。前例の少ないことですもの。前もって、届け出ておきましたの」
リヴェータさんは、にこりと微笑んでいた。
え、ええ……。
この人、マジでなんなんだ。マジで……。
「少し早く始まってしまったようですけれど、本日の評議であることに変わりはございませんでしょう?」
誰も、何も言わなかった。
『——あと、思考盗聴とかな。
そーいう能力もあるが——の趣味じゃなくてね』
思考が現実を追い越して加速していく中。
いつだったか、誰だったかの声が聞こえる。
思考盗聴。あるいは、予言。
リヴェータさんは、そういう源流能力なのか?
彼女は前を見て、にっこりと笑ったまま。
……怖い。何が怖いって、この人がどういう力を持っているのかがわからないのが、怖い。
……なら。試してみるか。
いや、もしもばれたら。命がない、って言われてるのに、悟られてしまったら。
なんとか、なるはず。ここは【月睨派】の本部。これだけの大勢力を敵に回すような真似は、してこないはずだ。
どうする、どうする。その価値はあるのか。その危険を冒すだけの理由はあるのか?
でも、怖い。わからないほうが、怖い。わかってしまたら、対策ができる。わからないと、何もできない。
何もできない方が、怖い。何より、思考が盗聴できる相手に、このどでかい情報を持ったまま隠し切れる自信がない。
今じゃ、ないか。
リリアや、アルター、仲間たちに迷惑をかける前に、【月睨派】の庇護もある状態で、確認できる。<叡智の学堂>へ入学する前の、最後のチャンス。
……ええい、ままよ!
大きく息を吸い、念じる。
僕は、【勇者】アルフェウスの遺骸を吸収した。
ぎゅ、と目を瞑る。
一秒経過。
二秒経過。
三秒経過。
ゆっくり、目を開ける。
彼女は、こちらを振り向いていなかった。
しん、と静まり返ったまま、周囲を見回していた。
※※※
ヨアン【司祭】が、通路を降りてくる。
一段、また一段。戦々恐々とリヴェータさんを見ている僕をよそに、ゆっくりと、リヴェータさんが降りてきた同じ道に歩を進める。
リヴェータさんは、半歩だけ脇に退いて、台の前を譲った。
碧い目と、目が合う。
透き通った氷、あるいはサファイアのような瞳が、僕の視界すべてに映る。
「——大丈夫。そう怯えないで」
リヴェータさんが、耳元に口を当てる。
「あとでゆっくり、お話をしましょう?」
「……はい」
わずかに、声が強張った。
リヴェータさんは、いつものように口元に指を当て、くすりと笑って、ヨアン【司祭】の方に視線を戻す。
…………これは、やばいかも、しれん。
ごめんクロ、言いつけ守れんかった。
冷や汗を《流月》で調整して、でないようにしながら同じくヨアン【司祭】を見る。
ヨアン【司祭】は、僕に僅かに顔を向けた。
僕の顔を見て、ほんの少しだけ、目じりの皺が濃くなっていた。
……あれ。僕、もしや今相当ひどい顔しているか?
となると、リヴェータさんは純粋に僕を心配してくれている? それとも、僕の思考を盗聴した?
わっかんね。結論不明。証明不能。なら、これ以上思考をここに費やすのは危険だ。
「ふうーー」
僕とヨアンさんの呼吸が重なった。
頭を一度振って、視線を聖職者たちへ戻す。
それから、議場の一番奥を見上げた。
「【聖都】救民街アデラ地区。ヨナラ修道院の【司祭】。ヨアンと申します」
胸元のロザリオを、両手で握った。
「主と、この場に集う皆様の御前にて。見たこと、聞いたことのみを、偽りなく申し上げることを誓います」
——照覧あれ。
小さく、そう結んだ。
「お話しください」
リヴェータさんが、静かに促す。
ヨアン【司祭】は、一つ、息を吸った。
「昨日。私は、特別運送の特級号、<銀砂号>の先頭車両に、リヴェータ【枢機卿】のお心遣いによってこの席を予約いただき、乗車しておりました」
穏やかな声だった。いつもと変わらない、と思う声に、かすかな震えが混じっている。
「列車の連結が断たれ、護衛の方々が姿を消し、天井が吹き飛びました。そして、一本の矢が、私の頭を狙って放たれました」
議場が、しんと静まった。
「私は、気づいてすらおりませんでした。乗客の方々を後ろへ逃がすのに夢中で、背を向けていたのです。
……その矢を止めてくださったのが、そこにおられるエディン殿と、そのお仲間の剣士殿でした」
段々の座席から、いくつもの視線が、僕に向いた。
「矢を放ったのは、灰色の髪の女性でした。
……メーテール。伝説の聖騎士の名を名乗っておりました」
何人かの【大司祭】が、息を呑んだ。
しかし、口を挟まない。リヴェータさんが、静かに見つめているから。
「その方は、私を見ませんでした。ですが、エディン殿には、はっきりとこうおっしゃいました」
ヨアン【司祭】は、目を閉じる。
「エディン殿の捕縛を、【月睨派】の上層部から依頼された、と。
そして——依頼主ごと、この世すべての【月睨派】の聖職者を皆殺しにするために来た、と」
議場が、ざわめいた。
「——せ、静粛に」
書記官さんが、震える声で言った。
「証言中は、清聴を」
落ち着くタイミングで、思考を加速させる。
バーカバーカ。おたんこなす。リヴェータおばさん。おばあちゃん。アホ間抜け。ロリババア。若作り。ドスケベ!!
あらんかぎり、思いつく限りの罵声をリヴェータさんへ向かって、視線も向けず、その背に浴びせる。
…………びっくりするくらい反応ないな。
クロはでべそ。実はクロは闇の魔術結社と繋がっている。クロは男色。リヴェータさんの悪口を店主さんと言い合っていた。ハイになるやばい薬をたくさん飲んでいる。
………………あれ。本当に反応ないな。
《蒼眼》を回し、リヴェータさんの顔を見る。
表情が全く変わっていない。
じっとヨアン【司祭】と、ガデムドロルさんへ視線が行き来して、油断ならないものを見る目でネルルさんに眦を尖らせている。
ほむ。僕には意識が欠片も向いていない。
これは……やばくないか?
わからん……。でも、逆に能力じゃない方が怖いんだけど。
…………なんか、最近も同じ事された気がするんだど。うまく思い出せないな。
「——なぜ、【月睨派】の者を殺すのか。エディン殿が、そうお尋ねになりました」
ヨアン【司祭】は、目を開けた。
「その方は、こう答えました。——子供や、よわい人を食い物に資、己の欲を満たすことしか考えぬ、醜い支配者だから、と」
——。
《蒼眼》の端で、何かが跳ねた。
後ろの座席の、どこか。白い布のいくつか——。
ちらり、とリヴェータさんが流し目を僕に向けた。
「ヨアン【司祭】」
リヴェータさんの声が、すっと通る。
同時に、その指先が軽く動いた。
議場の真ん中に浮かんでいた光の板が、ぱっと切り替わった。
映っていたのは列車。
銀色の流線形の車体。その先頭車両の屋根が、まるごと消し飛んでいた。
木も、鉄骨も、シャンデリアも。何もかもが空へ持っていかれている。ぽっかりと空いた穴から、砂漠の空が覗いている。
床には、ひしゃげた椅子と、砕けたテーブル。割れた食器が散乱していた。
……てか、さっきの流し目なんだ。
「あなたが狙われてたのは、この場所ですね?」
「……はい。そこに、立っておりました」
百人の視線が、一斉にその映像へ吸い寄せられた。
僕も、意識がそっちに持っていかれていた。
否応なしに、天井を吹き飛ばした一射が脳裏を駆け巡った。
あれは、きつかった。強化も持てる手札全部仕えたわけじゃないとはいえ、リリアと僕の二人でようやくいなせる威力。
どう考えても弓で使えていい火力じゃない。
「襲撃者は、【月睨派】の司祭であるヨアン【司祭】を、まず真っ先に狙いました」
リヴェータさんが、議場を見渡した。
「【月睨派】の上層部が雇った刺客が、【月睨派】の【司祭】を殺しにかかった。
その刺客は、【月睨派】の聖職者を、一人残らず殺すつもりだといった」
穏やかで、冷たい水のような声が議場に響く。
「皆様。【月睨派】が誇る、賢者の皆様。この方が、昨日、何に命を狙われたのか。叡智の合議をもって、どうかお考え下さいませ」
リヴェータさんが、深々と女性の一礼を取った。
※※※
「——以上でございます」
ヨアン【司祭】は、深く頭を下げた。
それから、後ろを振り向く。
リヴェータさんへ目礼を取って、僕の方を見た。
「エディン殿」
「……はい」
「ありがとう、ございます」
そして、直角に頭を下げた。
「そして、陳謝を。
私は、【月睨派】の【司祭】です。だからこそ、申し上げます。
……申し訳ございません。我らの内から、あのような依頼が出たこと、心よりお詫び申し上げます。
それでも、そのような教会の【司祭】を、あなたは身を挺して守ってくださった」
ヨアン【司祭】は、胸のロザリオを握った。
「昨日の朝。あなたは私に問われましたね。主は、視ておられるだけなのか、と」
——。
「私には、まだその答えはわかりません。未熟故、神の声を聴くことはかないません。
ですが、昨日。私を庇ってくださったのは、主を信じておられないあなたでした」
彼が、頭を上げる。
目じりの皺が、少し深くなっていた。
「あなたの善性に。あなたの道行きと風に、幸多からんことを」
僕は、何も言えなかった。
だから、小さく頭を下げる。
ヨアン【司祭】は、もう一度深く礼をして、通路を上がっていく。
扉の奥へ、彼は消えていった。
※※※
議場は、静まり返っていた。
誰も口を開かない。
白い髭の【大司祭】は、膝の上で拳を握ったまま、俯いていた。
ゲーベル【大司祭】は、椅子に崩れ落ちたまま、まだ口をぱくぱくさせていた。ほかの【大司祭】も、【司教】も【大司教】も、誰一人として、さっきのように声を上げなかった。
覚えて縮こまっているもの。早鐘を打っているもの。諦めたように、頭を小刻みに揺らすもの。
《蒼眼》に映る百人分の鼓動は、もう、どこもそろってはいない。
僕は、議場の一番奥を見上げる。
ガデムドロルさんだけが、変わらない。
目を閉じて、何かを祈っていた。
……この人、ここまでなんも変わらないのか。
僕も《流月》で身体反応を操作していた。僕だけが例外、なんて考えるのは命取りになりかねない、か。
この眼での観察も、参考情報程度に留めておいた方がよさそうだ。
隣で、ネルルさんが僕に笑顔で会釈して見せた。
……この爺さんは、本当に何がしたかったんだ。
葬式みたいな静かな評議室の中で、ネルルさんの意図だけが、まったくわからなかった。
※※※
「——それでは。白桜紀第357回、聖教最高評議会を終了します」
書記官さんが、魔法で時間を確認し、終了を告げる。
ガデムドロルさんが、リヴェータさんに何かを言いたげに口を開けたが、周囲の聖職者と、僕を見て閉じた。
……おそらく、メーテールさんの出自が、聖騎士である以前は神獣軍だったこと。
つまり、リヴェータさんとアルフェウス公たちが興した国家の精鋭であることを突こうとしたんだろう。
だけど、周囲がついてこない。聖教の聖人として死んでいる以上、突っついてもやり返されるのが視えたんだろうな。
周囲の聖職者たちが、沈んだ顔色で出口へと向かっていく。
「――さて」
リヴェータさんが、小さく息をついた。
それから、くるりと、僕の方へ振り返った。
「エディンさん」
冬の湖のような瞳が、僕を見上げていた。
「これで、ひとまずは片付きました。……お待たせしてしまって、ごめんなさいね」
「いえ」
「それで」
リヴェータさんは、少しだけ首を傾げた。
「先ほども申し上げましたけれど、今日、何かを決める必要はございません。
【月睨派】のお話も、わたしのお話も、お聞きになったでしょう。しばらく、ゆっくり考えてみてくださいな。お仲間とも相談して、一晩眠って、それから――」
「あ、いや」
僕は、首を横に振った。
「いらないです」
「……え?」
リヴェータさんが、ぱちぱちと二度、瞬きをした。
……正直なところ、途中から、だんだん馬鹿らしくなってきていた。
【月睨派】の人たちのことは、嫌いじゃない。大
聖堂で歌っていたお年寄りも、炊き出しで芋とベーコンを山盛りにしてくれた人たちも、ココアを淹れてくれたヨアン【司祭】も。
みんな、いい人たちだった。
でも、この議場に座っている人たちは、なんか違った。
僕のことを何も知らないまま、僕の欲しくないものを並べて、高いところから見下ろして、答えを決めつけて。都合が悪くなったら、黙った。
そもそも、アルメ=ガファっていう神様のことも、僕はよく知らない。ここから勉強しようとは思ってるけど、よく知るわけじゃない。
信じていて当然だよね、みたいな態度をとられるのは、なんか気分が悪い。
僕が信じているのは、苦しいときに、隣にいてくれた人たちだ。
イルクと、リリアと、アルターと、ログマ。昨日から、クロも。それから、夢の中の、あの黄昏の湖で、意地悪そうに笑っている女の子。
それだけで、十分だった。
――リヴェータさんのことも、別に、全部信じているわけじゃない。
この人は、たぶん、まだ何か隠している。思惑がある、と自分で言っていたし、クロもあんなふうに言っていた。
何より、可能性は随分下がったとはいえ、思考を盗聴されている可能性もある。
それでも、僕は、探求と挑戦を謳う彼女の方に、興味がそそられた。
だったら、もう、考える必要はなかった。
僕は、手を伸ばした。
リヴェータさんは、手を差し出していなかった。だから、僕の方から、その手を取った。
小さな手だった。
ひんやりとしていて、細くて、僕の手の中にすっぽりと収まってしまうくらい小さかった。
「これで、いいです」
リヴェータさんは、しばらく、何も言わなかった。
冬の湖のような瞳が、僕の顔と、繋いだ手を、交互に見ていた。
それから。
「……まあ」
ふわりと、笑った。
さっきまでの、議場を相手にしていたときの微笑みとは、少しだけ違っていた。
「よろしいのですか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
僕は、頷いた。
「考えたって、たぶん同じなので」
リヴェータさんは、くすりと笑った。
それから、繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「――分かりました」
リヴェータさんは微笑み、僕の手を握った。
——そういえば、自分から手を出すのは初めてだったな。
ここに来る前に、手を取った人がいた。皺だらけの、大きな手。あの手に引かれて、僕はここまで来た。
今度は、僕が自分で手を伸ばした。
「リヴェータさん」
「はい」
「さっき、言ってましたよね。あとで、あたたかいものを淹れてくれるって」
リヴェータさんは、一瞬だけきょとんとして、それから、口元を押さえて笑った。
「ええ。もちろんですわ。リリアさん方も、エレクロスも、一緒に」
「……できれば、ココアがいいです」
「まあ」
リヴェータさんは、楽しそうに目を細めた。
「では、とびきり甘いものを、ご用意しましょうね」




