舌戦
「——美しいお言葉だ」
ガデムドロルさんの声が、議場に響いた。
——う、と。
段々の座席のどこかで、うめき声が上がった。
それを合図にしたように、あちこちで白い法衣が身じろぎを始めた。
一人、また一人と、聖職者たちが目を開けていく。
椅子の背もたれに崩れ落ちていた身体を起こし、頭を押さえている。
何が起きたのかわからない、という顔で、周りを見回している。
ただ一人、気を失わず、椅子に座り続けていたガデムドロルさんが、倒れた聖職者の視線を指先に集める。
「だが、エディン殿。どうか、お考えいただきたい。その美しき言葉を口にしたお方が何をなさったのか。何をなさってきたのかを」
ガデムドロルさんは、議場を見回した。
「千五百年前、カサンドラの地で何が起きたのか。
民が飢え、民が民を食らう地獄を作り上げた。先ほどの威圧がいい証拠です」
段々の座席から、頷きが返ってくる。
何を把握しているのかわかったもんじゃない。ただ、彼らは神妙な顔で頷いていた。
「自由に学べる場所。結構なことだ。だが、その場所を与える御方の正義が、いつまた暴走せぬとも限らぬ。
我らは、それを危惧しておるのだ。次のカサンドラが、いつ起きるやもわからぬ」
ガデムドロルさんがとうとうと語る。
肯定か、否定か。それとも、記憶にございませんと返すのか。
リヴェータさんは、なんて返すんだろう。
純粋な興味が、胸の底から湧き出てきた。
彼女は、ゆっくりと、ガデムドロルさんの方へ向き直った。
「……ええ」
静かに、重々しく頷いた。
「カサンドラのことは、すべて事実ですわ」
議場が、ざわっと揺れる。
ガデムドロルさんが、追撃しようと口を開いた瞬間。
リヴェータさんの、凍えるような覇気が彼を突き刺した。
心音も、なにも揺れない。しかし、開きかけた口は、ぴくりとも動かなくなった。
「——失礼。ガデムドロル様。ですが、いまはわたしがお話をさせていただいております。
議論中の横やりは大評議室討論法の違反です。どうか、ご清聴を」
しい、と彼女は口元に指をあてた。
「千五百年前、わたしは、ある司祭を裁きました。
その者は、人を殺し、その肉を喰らい、市井に売り捌いておりました。わたしは、それを裁いた」
リヴェータさんの声は、少しも揺れていない。
指を一本、そこへ立てる。聖職者たちの視線も、僕の視線も、すべてがそこに吸い寄せられる。
「それは、正しいことでした。今も、そう思っています。あのような者を裁かずに放っておくことが正しいとは、わたしには、どうしても思えません」
滔々と語りながら、語気に陰りが生まれた。
「ですが」
リヴェータさんは、続けた。
「わたしは、その後のやり方を、間違えました」
静かな声だった。
「あの時のわたしは、後を何も考えていませんでした。
民の熱に火を点けてしまって、その火を、消すことができなかった。貧民街が燃えたのも、その後に多くの方が亡くなったのも。
わたしが、あとを考えずに動いてしまったこと。その責は、今もわたしが負っております」
リヴェータさんは、胸に手を当てた。
「一日たりとも、忘れたことはありません」
議場が、静まり返る。
ガデムドロルさんは、何も言わなかった。
「ただ」
リヴェータさんは、少しだけ首を傾げた。
「一つだけ、思い出していただきたいことがございますの」
ガデムドロルさんの方を、まっすぐに見上げる。
「あの火事の後、焼け出された民を、罰する法が作られましたわね。住まいのない者を罪人とする法。行き場を失った十万の民は、その法によって、施しを受けることも許されず、飢えて亡くなりました」
リヴェータさんの声は、穏やかなままだった。
「それから、カサンドラの地を、まるごと破門するという判断も。
<神話継承>を奪われた農村は、作物の育て方すら失い、五万六千の民が、冬を越せずに亡くなりました」
議場の空気が、ひどく重くなった。
「どちらも、尊き方々の、長い長い合議の末に下された、ご判断でしたわね」
リヴェータさんは、にこりと微笑んだ。
「数多の賢人の皆様が、言葉を重ね、語り合い、その果てに定められた道。……わたし、それを、とても尊いことだと思っておりますのよ」
誰も、何も言えなかった。
「そうそう。その住まいのない者を罰する法を、撤廃なさったのは」
リヴェータさんは、ガデムドロルさんへ、軽く頭を下げた。
「他ならぬ、ガデムドロル様でしたわね。あれは、まことにご英断でした。心から、敬服しております」
――しん、と。
議場が、凍りつく。
ガデムドロルさんの表情は、変わらなかった。
肯定も、否定もしていない。ただ、静かに微笑んでいるだけ。
あの法が間違っていたと、一番最初に認めたのは、この人自身だった。
その人が、さっき、十五万の死を、リヴェータさん一人のせいにした。
……否定はしない、か。
肯定もしない。つまり、これを認めたくないが、否定もできないから黙っているしかない、と。
ずいぶん、この人たちは身勝手なんだな。
※※※
「――リヴェータ卿」
議場の右上から、声が上がった。
【大司祭】の一人だった。白い髭を蓄えた、痩せた老人。
さっき、僕に「【聖都】の庇護なくしては、何かとご不便もありましょう」と言った人だ。
「過去の話は、もうよろしいでしょう。それより、昨日の件です。
卿は先ほどから、まるで我ら【月睨派】が襲撃に関わったかのように仰っている。だが、その根拠は何なのです」
「根拠、ですか」
「ええ。卿の手の者が、襲撃者を捕らえたと聞き及んでおります。
ですが、それは<アリウスの梯子>の、犯罪者でございましょう。そのような者の口から出た言葉を、どれほど信じられるものか」
別の【大司祭】が、続いた。
「しかも、その証言を取ったのは、【叡神派】の手の者。いかようにでも、言わせることはできましょうな」
「然り、然り」
段々の座席から、また声が上がり始めた。熱が、戻り始めていた。
……ちら、ちらと、僕に何かを見せつけるように彼らは声を張り上げていた。
面白いね。まだ、僕がそっちにつくと思っているんだ。
リヴェータさんは、しばらく黙って、その声を聞いている。
それから、小さく頷いた。
「ごもっともですわ」
「……は?」
「犯罪者の言葉を、そのまま鵜呑みにするのは危ういこと。それに、わたしの手の者だけで取った証言では、皆様が疑われるのも、無理はありません」
リヴェータさんは、右手を軽く持ち上げた。
指先に、小さな魔法陣が浮かぶ。
議場の真ん中の空中に、光が広がる。
四角い、大きな光の板。その中に、映像が浮かび上がってきた。
薄暗い部屋だ。
石の壁に、一つだけ灯された魔導灯。部屋の真ん中に、椅子が一つ。
そこに、男が一人、縛りつけられていた。痩せた男だった。服は破れ、顔には擦り傷がある。
近くには、列車で見た石像が並べられていた。
「昨日、後方の車両で捕らえた襲撃者の一人ですわ」
リヴェータさんは、指先を軽く動かす。
映像が、大きくなった。
椅子の男の、その周りが映し出されていく。
男の正面に、誰かが立っていた。
白銀の鎧。胸に、琥珀色に輝く正三角の徽章。
「——【聖、騎士】」
誰かが、その徽章を見てわなわなと震えている。
一人ではない。三人。そのうちの一人が、男に何かを問いかけている。
残りの二人が、それを見守っている。三人とも、手に聖典を持っていた。
「――尋問は、【月睨派】の聖騎士団の方々に、お願いいたしました」
リヴェータさんの声が、議場に響いた。
「わたしの手の者は、一人も立ち会っておりません。それから、尋問の前に、聖典に手を置いての宣誓も、行っていただいております」
議場が、ざわめいた。
映像の中で、聖騎士が問いかけた。
『――依頼主の名を言え』
椅子の男が、うつむいたまま、口を開いた。
『……ゲーベル。ゲーベル【大司祭】だ。あの人から、少年を攫えと、言われた』
――議場が、凍りついた。
さっきまで声を上げていた【大司祭】たちが、一斉に口を閉ざした。
《蒼眼》が、議場の中で、一つの心臓を捉えた。
左の、中ほどの段。
でっぷりとした体格の、白い法衣の男。
その心臓が、ものすごい勢いで、どくどくと跳ね上がっていた。顔から、見る間に血の気が引いていく。
リヴェータさんが、そちらを向いた。
「ゲーベル【大司祭】」
穏やかな声だった。
「いかがでしょう」
百人の視線が、その男に集まった。
ゲーベル【大司祭】は、椅子からよろよろと立ち上がった。額から、汗が噴き出していた。
「ち、違う……! これは、違うのです! 私は、ただ――」
声が、裏返っていた。
「私は、ただ、上の――」
――口が、止まった。
ゲーベル【大司祭】の口は、開いていた。
開いて、閉じて、また開いた。ぱくぱくと。言葉を出そうとしているのが分かる。喉が動いている。息も吐いている。
なのに、声が、出なかった。
「――っ、――っ!」
ゲーベル【大司祭】が、自分の喉を両手で掴んだ。
顔が、赤くなって、それから青くなっていく。それでも、声は出なかった。
《蒼眼》を、凝らした。
ゲーベル【大司祭】の、舌の根元。
そこに、細い糸が絡みついていた。
魔力の糸だった。髪の毛よりも細くて、ほとんど透明な、一本の糸。
それが舌の根元にきつく巻きついて、上へ、上へと伸びていた。
どこへ伸びているのか、目で追った。
でも、途中で、ぷつりと切れていた。
糸の先は、どこにも繋がっていなかった。誰が、この糸を結んだのか。その先には、何も視えなかった。
僕は、思わず、議場の一番奥を見上げた。
ガデムドロルさんは、静かに座っていた。
その心臓は、少しも揺れていなかった。
「……あら」
リヴェータさんが、小さく首を傾げた。
「お口が、重いようですわね」
それ以上、何も言わなかった。
誰が、とも。なぜ、とも。
でも、議場の空気が、さっきとはまるで違っていた。
段々の座席の【大司祭】たちが、ゲーベル【大司祭】から目を逸らしていた。
自分の喉に、そっと手を当てている人もいた。心臓が、いくつも、いくつも、怯えたように縮こまっていく。
――次は、自分かもしれない。
そういう顔をしていた。
ゲーベル【大司祭】は、口をぱくぱくさせたまま、椅子に崩れ落ちた。
「……ば、馬鹿な」
しばらくして、誰かが言った。
右上の、白い髭の【大司祭】だった。
「こ、このようなこと……ありえぬ。我らの、同胞が……」
「そうだ……ありえぬ」
別の声が、続いた。
「月を睨む者が、同じ信仰を持つ者が、自らの教会に弓を引くなど……ありえるはずがない!」
「そうだ!」
「ありえぬ!」
「何かの間違いだ!」
声が、重なっていく。
でも、それはもう、さっきの熱とは違っていた。揃っていなかった。ばらばらで、上ずっていて、自分たちを守るために叫んでいるような声だった。
その中で、ガデムドロルさんだけが、黙っていた。
一番奥の席で、静かに、座ったまま。
ネルルさんは、彼の隣で、ゆっくりと茶を啜っていた。
リヴェータさんは、叫び続ける【大司祭】たちを、しばらく黙って見上げていた。
それから、小さく頷いた。
「ええ」
穏やかな声が、喧騒の中に、すっと通った。
「同じ信仰を持つ方が、自らの教会に弓を引くなど、ありえない。わたしも、そう思いますわ」
【大司祭】たちの声が、少しずつ、止んでいった。
「ですから」
リヴェータさんは、にこりと微笑んだ。
「次は、【月睨派】の方に、お聞きしましょう」
そう言って、彼女は、くるりと振り返った。
僕の後ろ。
議場の入り口。
さっき、静かに閉じた、あの大きな扉の方へ。
――あの、穏やかな鼓動が、まだそこにあった。
リヴェータさんは、扉に向かって、柔らかく言った。
「――お入りなさい」




