青銀の皿
「ガデムドロル様も、ひどいお方」
扉の前に、リヴェータさんが立っていた。
白い法衣に、白銀のヴェール。今朝、列車の窓から銀の蛇に乗って飛び去って行った時と、何も変わらない姿。
小さな背筋をぴん、と伸ばして議場を見下ろしている。
扉が、静かに閉じる。
百人の聖職者たちが、一斉に息を呑んで彼女を見つめていた。段々の座席のあちこちで、せわしなく視線が揺れる。
《蒼眼》で視れば、さっきまで穏やかだった高位の聖職者たちの心音が一気に跳ね上がっていた。
「——これは、これは」
ガデムドロルさんが、ゆっくりと立ち上がった。
「リヴェータ卿。お忙しい身と伺っておりました故、お手を煩わせるまでもないかと思いましてな。
いや、これは失礼をいたしました」
「まあ。ガデムドロル様のお気遣い、痛み入りますわ。
ただ——」
リヴェータさんは、僅かに目を細めながらガデムドロルさんを睨む。
「本日の評議は、11時からと伺っていましたの。寂しいわ、まさか10時には初めていらしたなんて」
「ははは。どうやら、使いの記憶に齟齬があったようですな。こちらでよく言って聞かせておきます」
「それには及びません。誰にでも過ちはあるもの。どうか、お許しになってあげて?」
リヴェータさんは、にこりと微笑む。
そのまま、一歩を踏み出した。
「リヴェータ【枢機卿】! どうぞ、こちらへ……」
書記官さんが、慌てたように駆けよってきた。
リヴェータさんの前で深く頭を下げ、議場の一番奥、真ん中の席。
ネルルさんとガデムドロルさんの間を手で差した。
「猊下。どうぞ、お席へ」
「ありがとう。でも、ごめんなさいね」
青銀色の髪の少女は、書記官さんを見て小さく笑う。
「あの子の席がないのに、わたしだけが座るわけには参りませんもの」
書記官さんの動きが、固まった。
前代未聞。ありえない事態に出くわした時のように、彼の身体が停止していた。
リヴェータさんは、何も言わずに降りてくる。
一段、また一段。
聖職者たちの視線と警戒を一心に浴びながら、彼女は僕の許へ降りてくる。
聖職者たちは、何も言わない。
咳払いひとつ、布ずれの音ひとつ立てない。リヴェータさんの靴音だけが、石の段に、こつ、こつと響いていた。
そして、すり鉢の底へ彼女の細く、なめらかな右足が降りた。
全員が固まる議場で、彼女の碧の瞳が僕を見上げ、柔らかく微笑んだ。
「——このような不慣れな場所で、大変でしたね」
それから、少しだけつま先立ちになって、手を伸ばした。
くしゃり、と。
やわらかい氷柱のような指が、僕の髪を撫でた。
「よく、頑張りました」
……温かい。
まるで、お母さんのようだった。僕の知る母上とは違うけど、それでもたくさんの人が想像する、慈しみに満ちた笑み。
僕より小さな背丈から、あふれんばかりの母性がにじみ出ていた。
「ありがとう、ございます」
……実際、だいぶ居心地は悪かった。
知らない間に僕の考えが決定されていって、周囲が熱狂している中、自分だけが静かな疎外感。
肝心のネルルさんはさっさと一番上に行ってしまったし、一口も飲まないまま紅茶は冷めてしまった。
「あとで、あたたかいものを淹れましょう。もちろん、リリアさん方や、エレクロスもいっしょに」
リヴェータさんはふふ、と笑い、僕の頭から手を離した。
軽く僕を壇の下におろして、代わりに彼女が立つ。
そして、くるりと僕に背を向けた。
小さな背中が、僕の前に立った。
肉眼の範疇に戻した僕の視界が、白い法衣と、腰まで届く青銀の髪にふさがれた。
段々の座席も、百人の顔も、ガデムドロルさんも、もう見えない。見えるのは、リヴェータさんの背中だけ。
——そこで、ようやく心が落ち着いた。
さっきまで僕に刺さっていた百人分の視線が、全部リヴェータさんへ向かっている。
「あとは、わたしが引き受けます」
そして、リヴェータさんは振り返る。
「大丈夫です」
少し不敵に笑った。
「すぐに終わります」
※※※
しん、と静まり返った議場。
そこに、リヴェータさんが、自然に。しかし洗練された仕草で、注目を集めるように両手を広げる。
「まずは、遅れてしまったことへのお詫びを」
リヴェータさんは、議場の一番奥を見上げて、丁寧に頭を下げた。
「昨日の件の後始末に、少々手間取ってしまいました。なにせ、砂漠鉄道における襲撃など、二百年ぶり。列車の運行の調整に、乗客の皆様へのご説明。損害の確認。
……それから」
頭を上げた。
「エディンさんが。あなた達にわかるようにいうなれば、次期【勇者】様が殺されかけたばかりということを。ご共有した方がよろしくて?」
その場にいた全員の表情が強張った。
「乗客の皆様、【月睨派】の信徒の方々にお聞きしました。
突然の闖入者。風よりも速く駆ける襲撃者から、エディンさんは恐れることなく立ち向かい、時間を稼ぐ勇敢さを見せた。
結果、この子はお腹を蹴られて、大変な目にあいました」
リヴェータさんは声を荒げず、よどみなく、淡々と語っていく。
手振りを数度して、その場に集う高位聖職者たちの視線を飽きさせず、集めていく。
「それに対する礼が、これですか?」
冬の湖のような瞳が、議場をゆっくりと見渡した。
「見知らぬ大人たちで囲い、見知らぬ部屋の底にひとりで立たせ、一生を左右するようなお話をずっとされていたのでしょう?」
段々の座席が、小さくうめき声をあげた。
「誰も寄り添ってあげず、何が聖職者でしょう。何が【大司祭】でしょう。何が【司教】でしょう。何が【大司教】でしょう」
「——リヴェータ卿」
ガデムドロルさんの声が、降ってきた。
「それは、誤解というもの。我らは、【勇者】殿を歓待しようとしただけのこと。
貴殿は、まるで我らが、子供を言いくるめようとしていたかのように仰る」
「まあ。そのように聞こえてしまいましたか? 」
リヴェータさんは、笑顔のまま首を傾げた。
「歓待のおつもりだったのは、承知しておりますわ」
「ならば、先の発言は——」
「ですが」
リヴェータさんが、ほんの少しだけ声を落とした。
「どれだけ心からの歓待であっても、見知らぬ場所で囲うような真似をしては、エディンさんもつらいというもの。
そこだけは、理解していただけて?」
ガデムドロルさんは、すぐには答えなかった。
目を瞑り、何かを考え込むように顎に手を当てて、静かに目を見開いた。
「——ご無礼を、エディン殿。我らも浮足だってしまった。謝罪しよう。
急かすつもりもない。圧をかけるつもりもなかった。それだけは、承知しておいてほしい」
朗々と語るガデムドロルさんの口調、心音に淀みはない。
しかし、周囲の聖職者たちは僅かに顔を引き攣らせ、脈拍に乱れがあった。
……ふーん。なるほど。そういうことね。
リヴェータさんが来る前に、一気に事を運ぼうとしたってことかな?
リヴェータさんを言いくるめるより、僕ひとりを丸め込んだ方が迅い、って考えてるのかな。
もちろん、これは決定事項ではない。確たる証拠もない。
だけど、もしも僕の考えていることがアタリならさ。
ずいぶん、舐めてくれたものだよね。
「しかし。我ら【月睨派】は、貴殿の望むものを、望むだけ差し上げる用意がある。富も。名誉も。力も。異性も。【勇者】の<神話継承>も。
貴殿が必要とされるものを、必要とされるだけ。我らは我らの教えの通り、あまねくすべての籾を分配する用意がある」
「その通り。我らの信仰。【勇者】様は、ようやく表れた光」
「貴殿は、特別なのだ。アルフェウス公に替わる我らの——」
瞬間。
「——へえ」
怖気。
ぞっとするほどの冷気が、視界を明滅させるほどの殺気が、僕の肌のすべてに這った。
「なるほど、なるほど。ゼーレ卿。貴卿は、アルフェウスが。九偉人の第一位が、代替の効く者とおっしゃるのね?」
冷たい覇気が針のように束ねられ、ゼーレと呼ばれた老淑女へ刺すように放たれる。
ぱち、と空気が凍るような音が聞こえた。
「——それは、エディンさんが、誰かの替わりに過ぎないという、【月睨派】全体からの侮辱と受け取ってよろしいかしら?」
気をやっていた彼女が、二度目の威圧で叩き起こされた。
「い、いえ。私は、そのような……」
「——リヴェータ卿」
ネルルさんが、初めて口を開いた。
「すこし、その物騒な気配をしまってはくれんかのぅ。後ろのエディン殿も怯えていよう。この場で平気な顔をしておるのは、ガデムドロル卿のみ。老い先短い老いぼれを、脅かさんでくりゃれ」
……すっげえ余裕そうな調子でしゃべるじゃん。
でも、若干心音に乱れがある。そりゃそうだよ。殺気だけで人を殺せるレベルだもの。
実際、周囲を見回すと、意識を保っている人はガデムドロルさんと、ネルルさん以外、一人もいなかった。
全員、その場で気絶していた。
ガデムドロルさんは、涼しい顔のまま。
あれほどの覇気を浴びても、表情も心音も変わらない。
……ここまでされて変わらないのは、変だな。
戦闘の心得があるわけでも、魔力が人より多いわけでもない。
精神的な動揺が、身体にまるで出てないような……。いや、それだと《蒼眼》で視れていた判断すべての信ぴょう性が消えるんだけど。
「——失礼しました。少し、粗相をしてしまいましたわ」
リヴェータさんの凍てつく覇気が、嘘かのように消えていた。
ふう、とため息をついて、僕に振り返った。
「……ごめんなさい。怖がらせてしまいましたね」
リヴェータさんは目を伏せ、長いまつ毛が瞳を覆っていた。
極寒の覇動を纏っていた怪物が、僕より小さな少女に替わっていた。
「いえ……大丈夫です。その、リヴェータさん。ひとつ、とてもぶしつけなことを聞いてもいですか?」
「ええ。もちろんです」
「リヴェータさんが……【叡神派】の人が、僕にくれるものって。何ですか?」
……我ながら、心底卑しい発言だと思う。
でも、とても興味がわいてしまった。この人が、これほどの気迫を持ち、クロですら恐れるこの人が、僕に何を渡すというのか。
彼女が、何を考えているのか。
「学ぶ場所と、自由です」
リヴェータさんが、両手を広げて語る。
「【月睨派】の皆様が差し上げられるもは富と名声と力。
わたしは、それほどの物は、望まれない限り与えません。
だから、自由と、自由に学ぶ場所を。魔法でも、剣でも、料理でも、星のことでも。学びたいだけ、学びたいものを」
リヴェータさんは一呼吸を置き、
「未知の世界を。あなたに与えます」
がつん、と胸を打った。
まだ見ぬ、未知の世界。僕の知らない、世界を、この人はくれるといった。
リヴェータさんは、耳元により、こういった。
「先に、申し上げておきますね」
ぞく、と背筋に鳥肌が走った。
「わたしにも、思惑があります。あなたに、【叡神派】に来てほしいと思う理由が、ちゃんとあります。それを、隠すつもりはありません」
甘く、冷たい声。
「ですが、あなたに損はさせません。あなたが気になることがあれば、何でも聞いてください。聞かれたことに嘘偽りなく、真実を与えることを。必ずお約束します。ええ」
リヴェータさんは、小さく呼吸を置き、
「我が王、アルフェウスの名に誓って」
氷すら溶かしてしまうほどの熱がこもった言葉が、耳元に吹きかけられた。
リヴェータさんは距離を置く。
声を張り上げ、指を一本ずつ折っていった。
「学んで、遊んで、失敗して。休んで。それから、友達とくだらないことで笑って。そうやって、大人になれる場所を、用意します」
――友達と。
クロの顔が、浮かんだ。昨日の屋台で、魔法をぶつけ合ったときの、あのぎらぎらした目。リリアと、アルターと、ログマ。トランプのジョーカーを全部押しつけられた、昨日の夜。
「それと引き換えに、何かをしてほしいとは申しません。【勇者】になれとも、剣になれとも、盾になれとも」
リヴェータさんは、静かに言った。
「断っても、あなたの席は変わりません。今日、何も選ばなくても構いません」
議場が、しんとしていた。
……変わらない。
断っても、何も変わらない。
ガデムドロルさんは、富も名誉も力も、全部くれると言った。その代わりに、剣と盾になってほしいと言った。
リヴェータさんは、学ぶ場所をくれると言った。その代わりに、何もしなくていいと言った。
僕は、二人の心臓を、《蒼眼》で視た。
どちらも、揺れていなかった。
どちらも、嘘はついていなかった。




