【聖都 サン・ヘレナ】
「さあ。着きましたぞよ」
ネルルさんが先に降り、おずおずと僕に手を差し伸べた。
フネイカ舟を降り、白い足場に足を踏み出す。
そこには、黄金の壁がゆるやかな勾配となって聳え立っていた。
「でっ、か——」
あんぐり、と大口を開けて空を見ていた。
【聖都】の外から見たときは巨大な三角の大神殿だった。でも、間近から見れば、三角錐なんてもんじゃない。
この大神殿の真ん中には、大地を睥睨するように巨大な一つ目が描かれていた。
黄金の山だ。人の手で築き上げられた代物と思うには、あまりにも巨大すぎる。
山、ってのは大概比喩に使っていたけど、これは立派な金嶺だ。
「……………………」
さっきまで複雑な面持ちだったリリアまでこの表情。
ログマと揃ってあんぐり、と口を開けている。見慣れているのか、クロとアルターは表情を全く変えなかった。
「【サン・ヘレナ大神殿】。儂が生まれるより以前、遥かな真代からありますのじゃ。【聖都】の歴史そのもの、と言ってもいいですの」
ネルルさんが、大神殿をのんびりと見ながら白い石の道を歩く。
白い石の広場。
広場は、神殿を囲うように伸びていた。
地面には、白い石が三角形に組まれて敷き詰められていて、継ぎ目のない一枚の床のように見える。
その広場いっぱいに、人がいた。
巡礼者だ。
旅装の人。白い服の人。杖をついたお年寄り。
子供を背負った母親。誰もが胸元のロザリオを握りしめて、神殿の正面へ向かって、ゆっくりと列を作っていた。
静寂、極まりない。
これだけの人がいるのに、聞こえるのは、衣擦れの音と、静かな足音と、どこからか響いてくる低い歌声だけだった。
神殿の正面には、列柱が並んでいた。
太い。
アシュドットで見たどの柱よりも、さっきの教会の柱よりも、ずっと太い。
白い石の柱が、何十本も、等間隔に並んで、黄金の三角錐を支えている。
柱の一本一本に、細かな幾何学模様が彫り込まれていた。三角形と、円と、直線だけで構成された、どこまでも正確な模様。そこに、光り輝く三角錐と瞳が描かれている。
その列柱の奥から、香りが流れてきた。
甘い香り。
花のような、蜜のような、それでいて少しだけ冷たい、澄んだ甘さ。吸い込むと、胸の奥が、ふっと静かになる。
ふと、《蒼眼》が何かを捉えた。
なんだろうな、と思って《蒼眼》を、少しだけ開く。
「なんじゃあ、こりゃあ——」
足元の、ずっと下。
大地の底を、光が流れていた。
太い光の河が、何本も、何十本も。
四方八方から、この神殿の真下を目指して、地の底を流れてきている。
「おお、エディン。それは霊脈だ。星をめぐる魔力の流れ。おかげさまで、【聖都】近郊は良質な霊地にも、農耕地にもなる。
我が、ロー・ヤヘルにも、その恵みが届くんだ。」
クロの言葉を聞きながら、脳裏に河がよぎる。
河が、海に注ぐようだ。
すべての流れが、この神殿の足元で合わさって、静かに渦を巻いていた。
その渦の上に、僕は立っていた。
空気が、違った。
濃い。でも、重くはない。澄んでいて、温かくて、まるで世界がここでだけ、ゆっくりと深呼吸をしているみたいだった。
「……すごい」
小さく、声が漏れた。
「ここは、かつて神が座した地ですじゃ」
ネルルさんが、隣で静かに言った。
「この神殿は、遥かな昔、星の母がお座りになった山を、人の手で覆ったもの。地の上に見えているのは、ほんの頂に過ぎませぬ。この下には、山がまるごと眠っております」
「山が、まるごと……」
「左様。我らは、神の座の上で祈っておるのですよ」
ネルルさんは、正面の列ではなく、列柱の脇へと歩き出した。
「こちらへ。巡礼の方々の邪魔をしてはなりませぬでな」
※※※
公務門、と呼ばれる小さな門の前で、書記官らしい人が待っていた。
白い法衣に、分厚い帳簿を抱えている。ネルルさんの顔を見るなり、深々と頭を下げた。
「猊下。お待ちしておりました」
「うむ。こちらの方が、賓客じゃ」
書記官さんの目が、僕を見て、それから僕の後ろのみんなを見た。
「……随行の方々は、外拝殿までとなります」
帳簿をめくりながら、事務的な声で言った。
「招集名簿に記載のない方は、これより先へは」
「待て」
クロが、前に出た。
「公はエレクロス・ドゥ・アイネイアスだ。アイネイアス家の次期当主として、またロー・ヤヘルの領主として――」
「アイネイアスの坊」
ネルルさんが、振り返らずに言った。
「ここで待っておれ」
穏やかな声だった。
クロの言葉が、そこで途切れた。
書記官さんは、二人のやり取りを見なかったことにするように、帳簿に目を落としていた。
「……エディン」
クロが、僕を見た。
何かを言いかけて、やめて、もう一度口を開いた。
「何かあれば、呼べ。すぐに、応援を呼ぶ」
「うん。大丈夫だよ」
僕は、笑ってみせた。
大丈夫かどうかは分からなかったけど、そう言うしかなかった。
「エディン」
リリアが、僕の袖を掴んでいた。
何か言いたそうな顔をしていた。
でも、言葉は出てこず、もう一度僕を見る。しばらく僕の袖を握っていて、それから、ゆっくりと指を離した。
「……気をつけて」
「うん」
ログマが、「健闘を……祈ります……」と、何に対してか分からない言葉をおろおろと口にした。
アルターは、何も言わなかった。
※※※
外拝殿は、広かった。
列柱の間を抜けると、天井の高い、細長い空間に出た。
正面の奥に、祭壇がある。
祭壇の上には、大きな正三角の紋章が掲げられていて、その真ん中で、一つの瞳が静かにこちらを見下ろしていた。
その前に、たくさんの人が膝をついていた。
祈っていた。
正三角のロザリオを両手で包んで、額に押し当てて、目を閉じている。
ある人は小さく唇を動かし、ある人はただ黙って、ある人は肩を震わせていた。
「天地に召します我らの母よ。
御名が聖とわたりますように。
我等はあなたの葦。信仰の一塵」
信徒の方々の祝詞が、三角の天井に何重にも響く。
僕らは、その人たちの祈りを横切らないように、側廊を通って奥へ進んだ。
足音が、石の床に吸い込まれていく。
祈りの声が、天井に昇っていく。
僕は、歩きながら、祈る人たちの背中を見ていた。
大聖堂の朝の歌を思い出した。炊き出しの鍋の前で、芋とベーコンを山盛りにしてくれた人たち。ココアを淹れてくれた、ヨアン【司祭】。
あの人たちも、きっとこんなふうに祈っているんだ。
みんな、いい人たちだった。
側廊の終わりに、水路があった。
幅は、それほど広くない。
でも、驚くほど澄んでいる。
外から取り入れた陽光が曲がり、反射し、回廊を照らす。水面が、きらきらと瞬いている。
底の白い石が、まるで水がそこにないみたいに、くっきりと見える。
水路には、一本の橋が架かっていた。
白い石の、小さな橋。
その両脇に、白い鎧の衛士が二人立っていて、ネルルさんの姿を見ると、無言で槍を立てて道を開けた。
「祈りをここに。よき風があらんことを」
「風は祈り子の声を、母へ届けん」
【聖騎士】らしき人物の言葉に、ネルルさんが小さく返した。
橋を渡る。
水面に、光が反射していた。
高い窓から差し込む光が、水に当たって跳ね返り、列柱と天井に、ゆらゆらと揺れる白い模様を描いている。
柱が、揺れている。天井が、揺れていた。石でできているはずのものが、水の光を受けて、波のようにゆっくりと揺らめいていた。
橋の真ん中で、僕は一度だけ振り返った。
水路の向こう、外拝殿の奥で、祈る人たちの背中が小さく見えた。その向こうに、リリアたちがいる。
それから、前を向いた。
橋を渡りきると、空気が変わった。
静かだった。
外拝殿の、あの祈りのざわめきが、嘘みたいに消えていた。
白い法衣の人たちが、書類の束を抱えて回廊を行き交っている。
その足音すら、ほとんど聞こえない。扉の奥から、羽ペンが紙を擦る音が、かすかに漏れていた。
ネルルさんは、その回廊を迷いなく進んでいった。
途中で、大きな石の階段を上った。
広くて、緩やかで、どこまでも続く階段。踊り場から下を覗くと、さっき渡った水路と列柱が、ずっと下に小さく見えた。
「中も、相当広いですね」
「小さな山ほどの大きさはありますからの」
頭上を見上げると、黄金の三角錐の内側が見えた。
外から見たときは金色だった壁が、内側からは、古い岩肌になっていた。
……なるほど。外の装飾は、人の手によるものか。
いや、それにしてはでかすぎない? 外の黄金だけでどれだけの価値があるよ。
……うーん。やっぱり、宗教って儲かるのかな。
にしても、広いな。移動ももっと効率的にできないんか。権威付けみたいなもん? わかんないな。
聞かれたらめちゃくちゃ怒られそうなことを考えながら、僕はネルルさんの後ろに続いていた。
※※※
階段を上りきった先に、長い回廊があった。
片側には、白い列柱が並んでいた。その向こうは吹き抜けになっていて、下の方に、小さな内庭が見える。
緑の木々と、小さな水盤。天井の高い窓から、柔らかな光が落ちていた。
そして、もう片側は――岩だった。
剥き出しの、古い岩壁。何千年、何万年もの間、そこにあり続けた山の岩肌が、回廊の壁として、そのまま残されていた。
その岩の中を、琥珀色の筋が走っていた。
「鉱脈、ですか」
「その通りですじゃ」
ネルルさんは鷹揚に頷いて見せた。
黄褐色の、蜂蜜を固めたような透き通った石の筋が、岩壁の中を、上から下へ、右から左へ、幾筋も幾筋も走っている。
高窓からの光がそれに当たって、岩の中から、ぼんやりと温かい光が滲み出していた。
まるで、岩の中に、夕陽が閉じ込められているみたいだった。
足元の床は乳白色で、その真ん中に、黄褐色の石の帯が一本、まっすぐに敷かれていた。帯は回廊の先へ、ずっと続いている。その先に、大きな扉が見えた。
ここも、静かだった。
僕らの足音だけが、岩壁と列柱の間で、ゆっくりと反響していた。
遠く、ずっと下の方から、水の流れる音がかすかに聞こえる。
「……ネルルさん」
僕は、琥珀色の岩壁を見ながら、口を開いた。
「さっきの、あの人のこと。聞いてもいいですか」
名前は、言わなかった。
言っても、また音にならないだけだと分かっていたから。
「彼方の君のことですかな」
ネルルさんは、歩みを止めずに言った。
「はい」
「何を、お聞きになりたい?」
「……ネルルさんから見て、どんな人なのかなって」
ネルルさんは、しばらく黙っていた。
琥珀色の光が、その白い髭を、淡く染めていた。
「恐ろしい御方ですの」
静かな声だった。
「あの御方の前では、星々の光すら偽りに等しい。
善も悪も、ご自身で定められる。願えば叶えてくださる。願うことすら、不敬に等しい」
ネルルさんは、少しだけ目を細めた。
「儂は、若い頃に、一度だけ願いました。そして、叶えていただいた。……それ以来、ずっと、あの御方を畏れておりますじゃ」
生命よ、かねてより蒼を恐れ給え。
ネルルさんは、独り言のように、小さくそう呟いた。
「……怖い、ですか」
「ええ。この世の何よりも」
僕は、少し考えた。
アレアのことを思い浮かべる。
黄昏の湖。
甘くない桃の香り。頬杖をついて、意地悪そうに笑う顔。
答えを教えてくれなくて、試練ばかり与えて、僕が困っているのを見て楽しそうにしている。
怖い、と言われれば、確かに怖い。
何を考えているのか、全然分からないときがある。あの黄金の瞳に見つめられると、背筋に針金が通ったみたいになる。
でも。
「確かに、怖いところはあります」
僕は、言った。
「意地悪だし、何考えてるか分かんないし、答えは絶対に教えてくれないし。……でも、優しいですよ」
ネルルさんの足が、止まった。
回廊の真ん中で、ぴたりと。
僕も、つられて立ち止まった。
ネルルさんは、僕の方を振り返った。
水色の瞳が、僕をまっすぐに見ていた。驚いているような。何かを確かめようとしているような。それとも、何か、とても遠いものを思い出しているような。
しばらく、何も言わなかった。
「……優しい、と」
やがて、ネルルさんは、小さく呟いた。
「ほっほ。……優しい、と来ましたか」
笑っていた。
でも、その笑い方は、さっきまでのものとは少しだけ違っていた。目尻に、光るものが滲んでいるように見えた。
「長生きは、してみるものですなあ」
ネルルさんは、また歩き出した。
僕は、少し首を傾げながら、その後を追った。
何か、変なことを言っただろうか。
「では」
しばらく歩いてから、僕はもう一つ聞いた。
「その、彼方の君の神官っていうのは、誰なんですか」
「儂の孫娘ですじゃ」
あっさりと、ネルルさんは答えた。
「……孫娘?」
「左様。カゥアと申します。今年で、二千になりますかの」
二千。
二千歳の、孫娘。
……そっか。ネルルさんは、もっと長く生きてるんだもんな。ていうか、それは娘って領域なんだろうか。
「普段は、<叡智の学堂>の召喚学科で、教鞭を執っておりましてな」
「学堂の……」
召喚学科。たしか、リリアとアルターが受けるつもりの学科だ。
「ですが、今年は、少々事情が違いましてな」
ネルルさんは、琥珀色の岩壁に目をやった。
「彼方の君から、あの子に神託が下ったのです。
今年の入学試験の試験官を、自ら買って出たのですよ。本来なら、学堂の教授陣が順番に受け持つものなのですがな」
「神託……」
アレアが、あの子に。
――【聖都】へ行くといい。そこでボクの唯一の神官が待っている。
夢の中で、アレアはそう言っていた。
「じゃあ、今、【聖都】に?」
「ええ。おりますとも」
胸の奥が、ぽっと温かくなった。
ようやく、か。
アレアの神官に。アレアのことを、僕以外に知っている人に。
会って、何を話せばいいのかは分からない。でも、会いたい。会って、アレアのことを話したい。
「会えますか」
「ええ、いずれ。彼方の君が、そう望まれておりますれば」
ネルルさんは、頷いた。
「ですが」
回廊の終わりが、近づいていた。
黄褐色の石の帯が、その先の大きな扉へと続いている。
扉の前は、少しだけ広くなっていた。
受付のような机があって、そこに座っていた書記官が、ネルルさんの姿を見て立ち上がり、深く頭を下げた。
左右には、控えの間らしい小さな扉がいくつか並んでいる。
そして、正面に、扉があった。
大きな扉だった。濃い褐色の木で造られていて、見上げるほど高い。その真ん中に、金属の紋章がはめ込まれていた。
正三角形。その中に、一つの瞳。
扉の向こうから、気配がした。
《蒼眼》を、少しだけ開く。
たくさんの人が、いた。
何十人。いや、もっとかもしれない。段々になった座席に、白い法衣の人たちが、ずらりと並んで座っている。その心臓の鼓動が、扉越しに、ざわざわと伝わってきた。
「ですが、その前に」
ネルルさんは、扉の前で立ち止まった。
それから、僕の方を振り返って、柔らかく微笑んだ。
「少々、野暮用を片付けてしまいましょうかの」
皺だらけの手が、扉の紋章に触れる。
正三角の中の瞳が、僕を見下ろしていた。
扉が、ゆっくりと、開いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
拙作ですが、10月31日以降の更新を打ち切らせていただきます。
当日までは毎日投稿を継続いたしますが、それ以降は約束しかねます。
理由は伏せさせていただきます。
以上、よろしくお願いいたします。




