差し伸べられた手
カンバーバッヂ。
その名前を聞いた瞬間、頭の中に霧が立ち込めた。
何重にも反響して聞こえる、くぐもった男性の声。青と草原の緑。
ぼんやりとした輪郭が、頭の中でぐるぐるする。頭が熱っぽくて、ふらふらする。
何か、大切なものを忘れている。そんな気がしてならなかった。
「おや。大丈夫かの」
ネルルさんが、ふらついた僕の肩に手を置いた。
肩に置かれた老人の手から、ふわりと涼やかな香りが漂ってくる。涼やかな、蜜の少ない青い果実の香り。
……香水、じゃない。信じがたいことに、この果物のような瑞々しい香りはネルルさんの体臭らしい。
……不思議な人だな。
この人はにこにこと笑っているだけなのに、その周りの空気だけが、ほんの少し、ぼんやりと霞んでいる。
目の前にいるのに、少し遠くにいるような、独特の雰囲気だった。
「これは、これは」
僕の隣から、澄んだ声が割って入った。
クロだ。
彼は足を揃えて、胸に手を当てる。見本のように優雅な仕草で、軽く頭を下げた。
淀みがなく、つっかかりもない。この国の貴族について僕は明るくないが、見本のように洗練された動き。
じっと、黄金色の瞳をネルルさんへ向けている。
その目は、口元に浮かんだ笑みとはまったく違う冷たい色を宿していた。
「ネルル・カンバーバッヂ猊下。かような朝に、このような橋の上でお目にかかれるとは、光栄の至り」
「ほっほ。アイネイアスの坊か。大きゅうなったのう」
「恐れ入ります。ときに、猊下」
クロが、頭を上げた。
「少々、首を傾げてしまうことがありまして。
【月睨派】の穏健派の筆頭である、猊下のような慎重であられるお方が、護衛のひとりも従えず、橋の上で優雅に浸っておいでとは。
そのうえ、普段大事に懐に忍ばせられている徽章を、消して拾い上げられぬ川底へ手放されるとは。なんとも、風変わりな奇縁もあったものです」
淡々とした口調で、じっとネルルさんを見つめられる。
「今朝の【聖都】の水は、ずいぶんと悪戯が過ぎるようでございますね。本日は、よいお散歩日和でいらっしゃいましたか?」
慇懃無礼、というのは、こういうことなんだろうなと思う。礼を尽くした言葉の端々に、棘がびっしりと生えていた。
「ほっほっほ」
彼は、髭を撫でながら楽しそうに笑った。
「あまり年寄りを脅しつけんでくりゃれ。ただの老いぼれの散歩じゃよ。供をぞろぞろ連れて歩くのは、どうにも肩が凝っていかんでな」
クロが顔を顰め、じっと老爺を見る。
散歩、散歩ねえ。
どうにもきな臭いものを覚えて、僕はなんとなく《蒼眼》の視界を少し広げる。
高架の道の先に、果物を売っている女の人。欄干にもたれて、水路に釣り糸をたらしている男の人。洗濯物の籠を抱えて、立ち話をしている夫婦。
……全員、かなりの使い手だった。
僕やリリアほどの使い手ではない。でも、ひとっとびでこちらまで跳んでこれる距離と体勢を維持している。
果物はひとつも売れていない。釣り糸は針をつけておらず、夫婦の会話は同じような言葉を繰り返しているうえ、言葉に微弱な魔力を込めていた。
……ああ。そういうこと。全員、ネルルさんの護衛か。
「それよりものう」
ネルルさんの視線が、クロから僕へ戻ってきた。
「その坊やに、礼がしたいんじゃよ。あの徽章は、わしの命より大切なものでのう。それを拾うてもらった。
茶の一杯でも振る舞わねば、気が済まん」
皺だらけの手が、遠くの方を指した。
街の中心。黄金色に輝く、三角錐の神殿。
「大神殿のうらに、静かで、よい茶をだす部屋がある。そこで一刻ほど、老人の話し相手になってはくれんかの。
なに、ほんのお茶の時間じゃ」
「それには及びません」
クロが、即座に返した。
「彼は今、リヴェータ【枢機卿】の命の下に、公が街を案内している途中でして。
礼であれば、リヴェータ・ロット・アイネイアスまでお願いいたします」
「陛下」
クロの言葉に、リリアが続く。
リリアは、僕の隣に進み出た。背筋を伸ばし、きれいな所作で頭を下げた。
普段のリリアとは違う、よそ行きの、礼儀正しい令嬢の声。
「申し出は、ありがたく存じます。
ですが、わたし達は見ての通り、貧相な身空の冒険者。【枢機卿】の御手を煩わせ、【サン・ヘレナ大神殿】へお招きいただける身分ではございません。
隣人を助く冒険者として、当然の行いをしたまでのこと。どうか、御寛恕願いますわ」
リリアは、堂々とした様子でネルルさんへ頭を下げた。
クロと、リリア。昨日までは顔を合わせるたびに喧嘩していた二人が、同じ方向を向いて、共同戦線を張っていた。
貴族特有の、問答無用を表す圧が、あたりの空気をわずかに震えさせる。
下に陣取る護衛たちが、ほんの少し気圧されたように身体を震わせるほどの覇気。
「煩わしいなどとは、とんでもない」
ネルルさんは、何も気にすることない。
そよ風を帯びたように飄々と首を横に振ったまま、ゆっくりと首を振った。
「賓客を遇するのは、為政者の務めじゃよ。ましてや、その方が——」
老人の薄い水色の瞳が、僕を見た。
「嵐と絶海に囲まれた蒼輝王国、リステリアの第三王子殿下とあらば。この老骨が自ら出向かんわけにはいくまいて」
——風の音が、少し遠くなった。
……王子なんて、一言も名乗ってないんだけどな。
鞘を、わずかに握る。
リステリアは、嵐に閉ざされた国家。外の人間が来た試しはイルクくらいなもの。
なにより、知名度が欠片もない。それは冒険者ギルドに登録したときにわかったことだ。
僕は、エディン・イラ・リステリア。
国名を姓として冠することができるのは、王族のみ。
リステリアの名が一般的に知られているのなら、あそこで大騒ぎになっていても不思議じゃない・
それが起きていないのなら、リステリアは知られていないも同然。
世界地図にも載っていない国なんだ。当然と言えば当然だ。
当然、なんだけど。
「…………」
この人は、どこから僕が王子だと嗅ぎつけた?
隣で、リリアが動いた。
リリアは、視線を下に落としていた。
奥歯を噛み締めて、拳を強く握っている。歯並びの線が、ぎり、と張りつめていた。
怒っているんだろうか。悔しそうに歯を噛み締め、悲しそうな目で僕を見ていた。
……リリアにも、僕が王族だと伝えていない。
意味がないからだ。知られたら怒られるかもな、とは思っていたけど、怒鳴る気配がない。驚いた気配もない。
……ほむ。
「……リステリア…………?」
低い、クロの声。
彼は顎に手を当て、口の中で言葉を転がしていた。初めて聞く言葉を、口の中で確かめるようにつぶやいていた。
それから、ゆっくりと僕の方を見た。
金色の瞳が、大きく見開かれていた。
「……王子、だったのか」
唇が、声にならない形で、もう一度そう動いた。
クロは、僕の名前の最後にリステリアとついてることは知っていた。けどまあ、普通は地図にすらない国の名を知らないのは当然。
次の瞬間。
クロの瞳が、ネルルさんへ向いた。
さっきまでの、礼儀正しい視線とはまるで違う。冷たくて、静かで、刃物の先みたいな目。
そこから、少し落ち込んだような顔で、僕を見てきた。
ひどく、沈痛そうな表情を浮かべていた。
憐れみも、同情もない。ただ、辛そうな表情で、僕を見ていた。
……僕、何かしたかな。
「…………」
アルターが、無表情だった。
計算高さも、欲深の表情も、間抜けな顔もない。一切の感情が凪いだ、知らない表情を浮かべ。
まっすぐに、ネルルさんを見ている。
蜂蜜色の瞳には、何も浮かんでいない。怒りも、驚きも、嫌悪も、何も。磨き上げた硝子のように、ただ冷たく、澄んでいた。
……アルター?
声をかけようとして、
「困惑。……状況、不明。……あ、あの。……ええと」
ログマの、困ったような声。
僕とネルルさんと、クロと、リリアと、アルターの顔を、順番に何度も見回していた。
小さな声が、行き場をなくして宙に漂っている。
手が、握ったり開いたりを繰り返して、胸の前でふらふらとさまよっていた。
何かをしなければいけないことは分かっている。でも、思いつくことがないように、じっとみんなを見ていた。
この場にいる誰にも、たぶん、今はまだ何もできない。
僕は、深く息を吸った。
正直に言えば、政治のことはよくわからない。
ネルルさんの目的だ、とか。周囲の考えている事情、とか。皆目知らない。僕の知識は皆より小さく、常識も不明。
黙っていたところで、うまくことが運ぶとも思えない。
だから。
「あの、ネルルさん。ひとつ、聞いてもいいですか」
賭けに出ることにした。
僕は、りんごを左手に持ち替えて、一歩前に出る。
「もちろんじゃとも」
「——エディン」
クロの生死の声が飛ぶ。
でも、僕は止まらなかった。
アレアは言っていた。聖教へ行けば、唯一の神官が待っていると。会えば分かる、とも言っていた。
その手がかりが、目の前にあるかもしれない。
「■■■■■■を、知っていますか」
名前を、口にした。
僕の耳には、ちゃんと聞こえていた。ア、レ、ア、ラ、イ、ト。夢の中で何度も呼んだ、あの名前。
でも、また、あのときと同じ感覚が来た。
音が、ねじれる。僕の口から出た瞬間に、世界のどこかが、その名前を握りつぶして、ぐちゃぐちゃにしてしまう。
「……今、なんて?」
リリアが、眉を寄せた。
「聞き取れん」
クロが、首を横に振った。
「聴取不能。……今のは、何語でしょう」
ログマが、不安そうに呟く。
アルターだけが、何も言わなかった。
ネルルさんは、ゆっくりと、右手を、自分の胸に当てた。
それから、深く、深く、頭を垂れた。
白い髭の先が、地面に届きそうなほど。
第二枢機卿が、橋の上で、十三歳の僕に向かって、恭しく、最上級の礼をしていた。
「存じております」
しわがれた声が、静かに言った。
「大いなる彼方の君。秘められしクラトール。三千年前に、儂の蒙を啓いた、蒼の主」
老人は、顔を上げた。
その灰色の瞳に、何かが宿っていた。
涙のようにも見える。歓喜のようにも見える。畏れのようにも見える。そのどれもが混ざり合って、静かに燃えていた。
「その御名を呼ぶことが許されるのは、天上天下に、貴方様ただお一人」
……この人には、聞こえてる。
全員が聞き取れなかった名前を、この人だけが、受け止めている。
腕をさすれば、自分の腕に鳥肌が立っているのが分かった。
「あなたが」
声が、少し震えた。
「あなたが、神官なんですか。アレアの」
ネルルさんは、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。儂では、ございませぬ」
「……」
「ですが」
老人は、微笑んだ。
「その御方にお仕えする神官ならば、よう存じておりますぞ」
――心臓が、大きく跳ねた。
ああ、やっぱりか。やっぱり、知っているんだ。
この人は、アレアの唯一の神官を、知っている。
「猊下」
クロが、前に出ようとした。
「それは――」
「アイネイアスの坊」
ネルルさんの声は、柔らかかった。
柔らかくて、穏やかで、孫を諭すような響きだった。
「いま少し、大人の話をさせておくれ」
それだけで、橋の上の空気が、変わった。
重い。
まるで、水の底に沈められたみたいに、空気が重くなった。
誰かが魔法を使ったわけじゃない。
魔力の動きなんて、何も視えなかった。なのに、さっきのクロたちとはけた違いの圧が、放たれた。
クロの口が、開きかけたまま、止まった。
顎の筋肉が、きつく締まっている。
握りしめた拳が、小さく震えていた。それでも、クロは、それ以上、何も言わなかった。
リリアは、唇を噛んでいた。悔しそうに、血が滲みそうなくらい。
ログマは、「あ、あの」「その」と、さっきよりもっとあたふたと手を振っていた。何もできない自分を、責めているみたいだった。
アルターは、変わらなかった。何も言わず、じっとネルルさんを視界に収めていた。
ネルルさんは、そんな僕らを一人ずつ見回してから、もう一度、僕の方へ向き直った。
「エディン殿」
その呼び方が、さっきの「坊や」とは違っていた。
「知りたくは、ありませぬかな」
ゆっくりと、右手が差し出された。
皺だらけの、大きな掌。上を向いて、僕の目の前に。
その掌から、あの涼やかな果実の香りが、ふわりと立ちのぼっていた。
「知りたければ、この手を取っていただきたい」
ネルルさんは、静かに言った。
「それだけで、結構でございます」
背後で、みんなが息を詰めているのが分かった。
クロの視線が、背中に突き刺さっている。
痛いくらいに。リリアの、悔しそうな息遣いも。ログマの、おろおろした気配も。そして、アルターの、凍ったような沈黙も。
それでも、僕の頭の中には、一つのことしかなかった。
――唯一の神官。
アレアが言っていた。会えば分かる、と。分からなければ、まだ会うときじゃない、と。
この人は、その人を知っている。
わからないことだらけ。怪しいか怪しくないかで言えば、めちゃくちゃに怪しい。
なのに、ふだんは働く僕の警戒心が、欠片も反応していない。
僕は、左手のりんごを持ち直して、右手をゆっくりと前に伸ばした。
老人の掌が、目の前にある。
涼やかな香りが、ふわりと強くなり。
「——よろしく、お願いします」
僕は、その手を取った。




