カンバーバッジ
アスキーアートを使います。
絵文字が使えないとは思いませんでした。
フネイカ便を降りると、そこはもう街の中だった。
白い街。
石畳も、建物の壁も、橋の欄干も。何もかもが白い。あさの光を受けて、眼が眩むくらいに輝いている。
道行く人の何人かが、薄い色のサングラスをかけていた。
なるほど、あれがないとこの街では目がやられるのか。
降りてすかさずアホみたいに光るサングラスをつけようとしたアルターを抑えながら、観察を続ける。
「……つけさせるのです、まぶしいのです」
「恥ずかしいからやめてね。普通の買いなよ」
「ばっか言うんじゃないのですよ。エディンの食費を考えたらサングラスを買ってる余裕はないのです」
ぐさりとくる言葉で僕に反論してきた。
「おお。飯代ならば安心するといい。公が払う。百万でも二百万でも好きな額を食すがいい」
隣を歩くクロが、何枚もの小切手をドヤ顔で出してきた。
目の周りには黒い魔法障壁を浮かべ、眼を保護していた。
いいな、その術式。【天素宣言】で術式がわからんけど、原素の流れを視れば全然再現できる。模倣ろ。
僕はリリアとログマ、アルターに同じ術式を目元に展開する。
「その発光するサングラス、マジで公共の場で使わないでほしいんだけど。リリアもなんか言ってよ」
「ありえないくらいダサいから、宿や部屋以外で使わないでくれる?」
「俗悪。悪趣味です、アルター」
三対一でアルターを囲み、思い思いの言葉を彼女に浴びせる。
「う……うう。爆食モンスターの癖に……。剣馬鹿淑女の癖に……絶対、モーリスがこの場にいたなら賛同してくれたのです……」
「モーリスなら信じられないものを見る目で見て、距離を取るわよ。あと、今日で二回目よ。次にわたしを罵倒したら水路に蹴り墜とすから」
リリアは微笑みながら、水路に親指を向けた。
モーリス君は、船着き場で手を振って別れた。先に宿に荷物を置いて、今日はそこで休むらしい。「受験の勉強もしなきゃだから」と言いながら、義足の足を響かせて人ごみの中へ消えていった。
真面目だなあ。うちの財務大臣も見習ってほしい。
「さて」
クロが、墨の染みた外套をばさりと払う。黒いマントが液体のように蠢き、全身にまとわりついていた汚れに這い、丹念に顔を拭いていく。
「ありがとう、エルちゃん」
外套にクロが礼を言い、労わるようにやさしく撫でる。
「エルちゃん」、と呼ばれたそれは「ദ്ദി」の形に象り、照れたようにもじもじとさせていた。
「紹介しよう。エルちゃんだ。公の使い魔だ」
「そうなんだ。よろしく——」
エルちゃんに挨拶するために近寄った瞬間。
「 fニ)
|_|
|=|
|_ |
/⌒| |⌒i-、
/| | | | |ヽ
|( ( ( ( |
| |
\ /」
マントが思い切り、中指を立てた。
「こら、エルちゃん。公の友人にそんなことをするものじゃない。
…………すまないな。エルちゃんは、公以外にはなつかないんだ。公の言うことは、よく聞くのだが」
「そ、そうなんだ……。使い魔にも、いろいろあるんだね」
そろーっとマントから距離を取れば、するするとクロの外套に戻っていった。
にしても、大した精密性だ。
偽造創世神と戦っていた時に、液体金属のようにクロに纏わりついたかと思えば、一瞬で魔鎧に変わったんだもの。
さっき、クロの顔を拭くときといい、相当精密性が高い。スピードや膂力については未知数。だが《蒼眼》で視たところ、魔力強化値がかなり高いから、スピードも膂力も相当なものだとみていいだろう。
自由意思のようなものも見えるから、式神とは違う、信頼によって成り立つものなんだろう。
「まずは。腹ごしらえだな。公の行きつけがある。ついてこい」
「待ってました」
※※※
【聖都】の道は、二階建て。
道の下にデカい水路がある。
建物よりも広い水路が、街の中をまっすぐに貫いている。
その上を、硝子の舟を牽いたフネイカが何匹も行きかっていた。荷物を山積みにした平たい舟もあれば、客を乗せた小さい舟もある。
ぶつかりそうになると、フネイカ同士がくい、と身体を捻らせてすいすいと避けていく。
「器用だな~」
ぼんやりと《蒼眼》で水路を視ながら、人の行く道を視る。
地上の道は、人がまばらだった。
道路は、水路の上に架かっている。
石造りの、高架の道だった。水路の両側から、アーチがいくつも重なっている。アーチの橋に、家が建っているケースもあった。
水路と水路が交わるところでは、道も交わって、橋が橋の上を渡っていた。
「水路が、大通りなんだね。道路に人や獣車が少ないや。フネイカで移動するのが普通なのかな?」
「そうだな。【聖都】では、重い荷物はすべてフネイカで運ぶ。まこと、ロジスティックじゃあないか」
クロがうんうん。と頷いている。
にしても、思いのほか涼しいな。日差しが強いから、熱いのかと思ってたけど。ほのかに肌寒いくらい。
いいね。食べ歩きの季節って感じ。
街を歩いていると、標識の後ろに並んでいる人たちがいた。
「なにかしら」
「あれは、イカ停だな。イカバスを待っているのだろう」
「イカバス?」
「大きな舟で移動する公共交通機関だ。だいたい一乗車につき150テレス弱が相場だ。値切り交渉をすると官警のお世話になるから注意だ」
クロは、慣れた足取りで高架の道を進んでいく。
道の両側には、家が並んでいた。
白い壁の家。
四角くて、窓が小さい。屋根はほとんど平らで、ほんの少しだけ水路の方へ傾いている。
雨が降ったら、そのまま水路へ流れ落ちるようになっているんだろう。
時々、家の入口の扉が開いていて、その奥がちらりと見えた。
中庭だ。
家の真ん中が、四角くぽっかりと空に向かって空いてた、小さな庭。
中にはオリーブの木や、柑橘の鉢植え。真ん中に小さな水盤。その中庭を囲むように、部屋が並んでいるらしい。
中庭に洗濯物を干している家庭もあった。
「一軒家には中庭があるのね」
リリアが覗き込みながら言った。
「夜は冷えますからねー。窓を大きくすると、熱が逃げちゃうのですよ。
だから、外の壁は厚くして、窓が小さいのです。中庭から風を取り込むのですよ」
「おお、アルター嬢は詳しいな。【聖都】に住まいがあったのかな?」
「アルターでいいのですよ。昔、不動産所得やっていたときに何件か買っていたので、一応の知識はあるのです。仕入れでぽしゃった時に手放しましたが」
アルターの背中が悲哀を背負っていた。
そういえば、この街に煙突がいっぽんも見当たらない。どの家も、どの建物にも屋根の上に何も突き出ていなかった。
それなのに、家の通気口からほんのりと暖気が流れてくる。
魔導具による暖房かな。にしては魔力反応が薄い。
視点情報を切り替える。肉眼と魔力探知から、赤外線による熱の探知へ。
視界が、黄色と青、赤に染まった。視点を動かしながら、少しだけ壁の中を覗く。
石の管が、家の中をめぐっていた。
その管の一番奥で、何か黒い石みたいなものが動いている。
熱蟲だ。そういえば、アシュドットの屋台でもレムルー窯とか言ってたけど、そうか。これか。
石を噛んで、ぼんやりと熱を出している。あれが家の中で飼われていて、その熱を管で家中に回しているらしい。
なるほどな。煙も何も出ないの。だから煙突がいらないんだ。
「着いたぞ」
クロが、足を止めた。
高架の道の脇に、小さな屋台が出ていた。天幕の下で、日焼けしたおじさんが、鉄板の上で何かを焼いている。
「おう、坊ちゃん! また来たのか! 今日はどこの日雇い行ってきたんだ? 荷運びか、それとも引っ越し手伝いかい?」
えっ。
「おお、親父。今日は休暇なんだ。客を連れてきた。いつものを、七人前……いや」
さらりと言われた衝撃的な言葉をクロが流し、ちらりと僕を見た。
く……クロお前、とんでもない金持ちなのに日雇いで働いたりしてんのか。
はは、ほんと変な奴だな。
「三十人前だ」
「三十!?」
おじさんが、眼を丸くした。
……さすがクロ、わかってるな。
※※※
焼き上がったのは、平焼きのパンに、香辛料をまぶして焼いた羊肉と、刻んだ野菜。そこに白いソースをたっぷり挟んだものだった。
僕はそれを両手にひとつずつ持って、高架の道を歩きながら二口で飲み込む。
うん、うまい。塩気が強いソースだ。チーズとも違うか。
「………………相変わらず、バカみたいに食べるのが早いのです。咀嚼する顎が残像残ってるのですよ」
はあ、とアルターがアホを見る目で僕を見てくる。
誰も、庇う人はいない。
薄情なこと極まりない。飯に対する敬意がないよ、ほんと。
※※※
しばらく歩くと、道の先に、大きな建物が見えてきた。
教会だ。
他の家々と同じ、白い石で造られている。
ただ、家とは大きさがまるで違う。見上げると、首が痛くなるくらい高い壁が、どっしりと構えている。
入口には、太い柱が何本も並んでいた。
大人が三人で手を繋いでも抱えきれないくらいの太さだ。その柱の上に、半円のアーチがいくつも連なって、その上に、大きな三角形の屋根の破風が乗っている。
アシュドットの大聖堂とは、まるで違う。
あそこは、とにかく尖塔があった。上へ上へと尖っていた。天へ向かって、細く、高く、伸びていこうとしていた。
こっちは違う。地面に、どっしりと根を下ろしている。
太い柱と、丸いアーチと、厚い壁。尖ったところが一つもない。
その代わり、破風の三角形と、壁に刻まれた模様が、どこまでも正確な幾何学の形をしていた。
「……」
僕は、パンを持ったまま、破風を見上げる。
七つの小さな紋章が、円を描いて並んでいた。
渦巻く炎の、瞳。
満ちた水の、真球。
雲と雷鳴を象った、三叉の槍。
正三角の大地。
緑の枝が生えた、逆さの十字。
白く輝く、閉じた瞳。
闇の中に浮かぶ、翼のある蛇。
「……これ、アシュドットの薔薇窓と同じ」
「ああ。七柱の創世神の紋章だ」
クロが、隣で破風を見上げながら言った。
「火、水、雷、土、木、光、闇。
この世界を創ったとされる、七柱の神々。その御業を、それぞれの紋章で表している」
翼のある蛇は、すぐに分かった。リヴェータさんの紋章と、同じ形だ。
「この教会は、【叡神派】のものだな。
【月睨派】の教会なら、アルメ=ガファ神だけを掲げる。周りの六つは、刻まない。刻んでも、同格のようには彫らん」
「【叡神派】と、【月睨派】……」
昨日から、何度も聞いた言葉だ。
リヴェータさんが【叡神派】のトップで、ヨアン【司祭】が【月睨派】で、メーテールさんが【月睨派】を殺そうとしていて。
……正直、何がどう違うのか、よく分かっていない。
「ねえ、クロ。その二つって、何が違うの?」
「おお、知らずに来たのか」
クロは、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「よかろう。ちょうどいい場所がある。そこで話そう」
※※※
クロに連れられて辿り着いたのは、水道橋の上だった。
高架の道よりも、さらに高い。
白い石のアーチが二段、三段と積み重なって、その一番上に、細い水路が一本通っている。
水路の脇に、人が一人歩けるくらいの細い通路があって、そこに座ると、街が一望できた。
僕らは、通路の縁に並んで腰を下ろした。足を、空中にぶらぶらさせる。
眼下に、白い街と青い水路が広がっていた。
遠くに、あの黄金の三角錐の神殿が、朝の光を受けて輝いている。
「【月睨派】は、一神教だ」
クロが、パンの最後の一口を飲み込んでから言った。
「この世界を創ったのは、土の創世神アルメ=ガファただ一柱。それが、【月睨派】の教えだ」
「じゃあ、他の六つは?」
「天使だ。アルメ=ガファに仕え、その御業を手伝った天使たち。火の天使、水の天使、雷の天使、という具合にな。天使、あるいは聖霊と呼ぶときもある。
この土地に昔から祀られていた神々や、人から神へ至った英雄たちも、すべて天使の列に加えられている」
「ふうん」
「対して、【叡神派】は、七柱すべてを最高の神格として崇める。どれか一柱が上ということはない。
七柱それぞれが、それぞれの御業でこの世界を創った。それを、そのまま認めて奉じる」
クロは、指を七本立ててみせた。
「創世の話は同じなんだ。初めに天地はなく、燃えよという声があって、炎が生まれた。そこから水が生まれ、雷が生まれ、天と地が分かれた。その筋書きは、どちらの宗派でも変わらない。違うのは、その声を発したのが誰か、という解釈だけ」
「解釈だけで、そんなに揉めるんだ」
「神学とはそのようなものだ」
クロは、肩をすくめた。
……なるほど。
なんとなく、分かった気がする。分かった気がするけど、一つだけ、どうしても気になることがあった。
「じゃあさ」
僕は、りんごをかじりながら聞いた。
「なんで【月睨派】って呼ぶの?
一神教なら、ガファ派とか、そういう名前になりそうなのに」
「おお、いいところに気づいたな」
クロは、空を見上げた。
朝の空に、白い月が、うっすらと浮かんでいた。
「月を、睨むからだ」
「月?」
「月を支配する王がいる、と言われている。【月王】ノア。【月睨派】は、その月の王を、最大の敵と見なしているんだ」
クロは、月を指差した。
「曰く、遥かな昔、【月王】は数多の天使を殺した。天使の亡骸から瘴気が溢れ、そこから魔物が生まれ、迷宮が生まれた。
人々が魔物に襲われ、苦しむのは、すべて【月王】のせいだ――と、【月睨派】は教えている。だから、月を睨み続ける。いつか、あの王を討ち滅ぼすために」
「……へえ」
月を見上げた。
白くて、薄くて、なんだかふんわりとした月だった。
……瘴気、か。
瘴気っていうのは、怨念とか、負の感情とか、地形の影響で淀んで、溜まってしまった魔力のことだ。
人が死んだ場所や、恨みが積もった場所に、瘴気は溜まる。東塔で、飽きるほど視たものだし。
つまり、瘴気を生んでいるのは、だいたい人の側だ。
月の王サマは、あんまり関係ないんじゃないかな。夜に瘴気が生まれやすいのも、闇への恐れとかそういう負の感情が所以っぽいし。
月夜に瘴気が増えるとかデータがあるなら話は別だ。
けど、月の出てる日と新月の日で瘴気が変わるかって言われると、ほぼ変わんない。
月が魔物を生んだ、ってんなら、そういう月と瘴気に関する統計があって然るべきじゃない?
……と思ったけど、口には出さなかった。
昨日、ヨアン【司祭】と話してから、信仰の話を軽々しく否定するのは、なんとなく違う気がしていた。
「クロは【叡神派】なんだよね」
「当然だ。アイネイアスは【叡神派】の宗家だからな。……まあ、公個人としては、どちらの言い分にも一理あると思っている。」
クロは、ちらりと隣を見た。
「貴君はどうなのだ、剣士殿」
「わたし?」
リリアは、水筒の水を飲みながら、首を傾げた。
「あんまり考えたことないわね。でも、たぶん【月睨派】よ。家の礼拝堂も、正三角だけだったし。小さい頃から、ガファ様にお祈りしてたもの」
「深く考えずに?」
「深く考えずに。……悪い?」
「いや。大半の信徒はそんなものだろう。聖典も【神父】が独占しているのだからな」
クロは、意外にもあっさりと頷いた。
「アルターは?」
僕が聞くと、アルターは、平焼きパンの包み紙を丁寧に畳みながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「【月睨派】は嫌いなのです」
「嫌い?」
「いろいろありまして。お父様以外、ウチではたぶんいい感情を持ってる兄弟は少ないと思うのです」
アルターは、畳んだ包み紙を鞄にしまった。……それ、取っておくんだ。
「アルターが信じてるのは、家族と、仲間と、お金だけなのです。神様は、お腹を膨らませてくれないのですよ」
「……アルターらしいね」
「褒め言葉として受け取っておくのです」
「ログマは?」
「回答。【叡神派】です」
ログマは、背筋を伸ばして座ったまま、迷いなく答えた。
「木の創世神、エレメンチェレを奉じています。種を運ぶ神です。ワタシの故郷の村では、皆がそうでした」
ログマの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。故郷の話をするときのログマは、ほんの少しだけ、目が遠くなる。
「へえ。ログマ、そうだったんだ」
「肯定。……エディンは、どちらですか?」
「僕?」
僕は、りんごをかじったまま、少し考えた。
どっちだろう。
リステリアでは、どっちも習わなかった。東塔に閉じ込められていたから、そもそも誰からも何も習わなかった。
それに。
――僕には、祈っている相手が、別にいるような気がして。
大聖堂の小さな部屋で、ヨアン【司祭】にそう言ったのを思い出した。
「……分かんないや」
「なんだそれは」
「ほんとに分かんないんだもん」
クロは、呆れたように笑った。
僕は、ふーん、と思いながら、またりんごをかじった。
甘酸っぱい。しゃく、と小気味のいい音がした。
※※※
水道橋を降りて、高架の道に戻ったときだった。
「……おや、おや。困ったのう」
声がした。
道の脇に、老人が一人、しゃがみ込んでいた。
大きな老人だった。
背は僕よりずっと高くて、身体を覆う長い衣は、深い藍色をしている。
そして、何より目を引いたのは、その髭だった。
真っ白な髭が、胸のあたりまで――いや、腰のあたりまで、豊かに長く伸びている。髪も同じくらい白くて長い。
老人は、高架の欄干から、下の水路を覗き込んでいた。
「どうしたんですか?」
僕は、声をかけていた。
「――エディン」
背後で、クロの声がした。
低い声だった。
振り返ると、クロの顔が、強張っていた。
いつもの余裕のある顔じゃない。昨日、展望スペースで僕の肩を掴んだときと、少しだけ似た顔だった。
「待て。その御仁は――」
「おお、これはこれは」
老人が、ゆっくりと顔を上げた。
皺だらけの顔の中で、目だけが、不思議なくらい澄んでいた。青みがかった、灰色の瞳。
その目が、僕を見て、柔らかく細くなった。
「親切な坊やじゃのう。いや、実はのう。徽章を落としてしもうたんじゃ」
「徽章?」
「うむ。この欄干にもたれて、ちと景色を眺めておったらのう。胸から外れて、下の水路へ、ぽちゃん、と」
老人は、白い髭を撫でながら、困ったように眉を下げた。
「古いものでのう。儂にとっては、大事な大事なものなんじゃ。青い、丸い徽章でのう。こう、掌に収まるくらいの」
「青くて、丸い……」
「エディン、待て――」
「探してみますね」
クロの声より、僕の身体の方が早かった。
困っている人がいる。大事なものを落とした。僕なら、たぶん見つけられる。
それだけで、十分だった。
欄干から身を乗り出して、下の水路を覗き込む。
水は深い青で、流れはそこそこ速い。底は暗くて、肉眼では何も見えない。
――《蒼眼》を、開く。
水が、透明になった。
水の分子の一つひとつ、流れの向き、水底に沈んだ砂の粒、苔、小石、誰かが落とした硬貨、錆びた釘。
全部が、視界に流れ込んでくる。
あった。
水底の、橋脚の影になったところ。泥の上に、小さな丸いものが一つ、沈んでいた。
青い、徽章だ。
指先に気魄を練り上げ、外に放出する。
《統巡》を回し、青い徽章を周囲の力場で包み込む。そのまま、ゆっくりと引き上げる。
水面から、ぽちゃん、と小さな音がして、青い徽章が浮かび上がってきた。
僕の掌に、収まった。
ひんやりとした、金属の感触。
掌くらいの大きさの、丸い徽章だった。表面に、青い石がはめ込まれている。完全な、真ん丸の石。光を受けると、その中で、何かが揺らめいているように見えた。
……石の中に、水が閉じ込められているみたいだった。
「はい。これですか?」
僕は、老人に徽章を差し出した。
「――ほう」
老人の目が、ほんの一瞬だけ、細くなった。
それから、ぱあっと顔をほころばせた。
「おお、おお! これじゃ、これじゃ!」
老人は、両手で大事そうに徽章を受け取った。
「いやはや、助かった。本当に助かったわい。あんな深い水路の底から、こうもあっさりと見つけてくれるとはのう」
老人は、徽章を胸元に留め直した。それから、僕の顔を、じっと見下ろした。
澄んだ灰色の瞳が、僕の目を――僕の目の奥を、覗き込んでいるような気がした。
「良い目をしておるのう、坊や」
「え、あ、ありがとうございます」
「礼を言うのは、儂の方じゃよ」
老人は、大きな手を、僕の肩にそっと置いた。
温かい手だった。
でも、その手が触れた瞬間、背筋に、ほんの少しだけ冷たいものが走った。
理由は、分からない。
僕の後ろで、クロが、静かに息を吐く音がした。
老人は、にこにこと笑ったまま、言った。
「申し遅れたのう」
白い髭が、風にそよいだ。
「儂はネルル。ネルル・カンバーバッヂ」
肩に置かれた手に、ほんの少しだけ、力が込もった。
「【聖都】の【月睨派】。そこで第二【枢機卿】を務めておる者じゃよ」




