【聖都 サン・ヘレナ】
「おはようございます、皆さん」
ラウンジに行くと、リヴェータさんが待っていた。
昨日と同じ、白い法衣にヴェール。ただ、手元には紅茶のカップではなく、分厚い書類の束があった。羽ペンが、ひとりでに紙の上を走っている。
その隣には、クロがいた。頭のてっぺんに、立派なたんこぶができあがっていた。<生命賛歌>で治してあげようと思ったが、リヴェータさんの視線が飛んできた。
治すな、ということだろう。リヴェータさんがいなくなってから治そう。
「……おはよう、クロ」
「おお、エディン。おはよう」
クロは、何事もなかったように手を挙げた。
「よく眠れましたか?」
「はい。おかげさまで」
「それはよかった」
リヴェータさんは微笑んで、書類から顔を上げた。
「それで、本当に申し訳ないのですけれど――朝食の時間を、あまり取れそうにありませんの」
「……え」
朝食が、ない。
僕の顔から、たぶん、血の気が引いた。
「昨日、救援のために、列車の運行表を少しだけ弄りました。他の便に支障が出ない範囲で、ですけれど。
その調整のために、これから少し、いくつかの方々とお話ししに行かなければならなくて」
リヴェータさんは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「それから、【聖都】の中は地代がとても高いので、駅を街の中に作ることができなかったのです。
ですから、ここから【聖都】の中までは、フネイカ便をご利用ください。高速の便が出ております。鉄道に乗られた方は、無料でコーンを渡しております」
「フネイカ……? コーン……?」
「水路を走る、乗り物のようなものです。乗ってみれば分かりますわ」
リヴェータさんは、くすりと笑った。
「朝食の時間を十分に設けられなくて、本当にごめんなさい。せめてものお詫びに、軽いものを用意させました。ドネル」
「こちらに」
ドネルさんが、銀の盆を持って現れた。
盆の上には、大きな皿が一つ。平焼きのパンに、ふわふわに焼いた卵がたっぷりと挟んである。
卵の黄身が、普通の鶏の卵よりずっと濃い橙色をしていた。その上に、溶けたチーズと、刻んだ香草。横には、冷たいミルクの入った硝子の杯が添えられていた。
「騎獣の卵ですわ。黄身がとても濃厚で、【聖都】の方々の自慢の一品ですのよ」
「いただきます!」
僕は、皿に飛びついた。
かぶりつく。卵が、口の中でとろりと溶けた。
うひゃあ、黄身が、とんでもなく濃い。まるでクリーム、いやチーズのような濃厚さだ。
香草の香りが混ざって、パンの香ばしさがそれを全部受け止めて――
――気づいたら、皿が空になっていた。
「……」
リヴェータさんが、ぱちぱちと瞬きをした。
「……まあ」
それから、口元を手で覆って、肩を震わせた。
「ふふ、ふふふっ……。本当に、見ていて気持ちがいいですわね」
冷たいミルクも、一息で飲み干した。
……足りない。けど、言えないよなあ。リヴェータさんは忙しいらしいし、列車はすぐ降りなきゃならないし。
「それと、エレクロス」
リヴェータさんが、クロの方を見た。
「はい」
「これを」
リヴェータさんは、小さな麻袋をクロに手渡した。中で、何かがからからと鳴っている。
「乾燥コーンです。フネイカへのおひねりに」
「……ああ」
「それから、あなたはいつも市井に降りて遊び回っているのでしょう?
エディンさんが満足できるお店くらい、知っているはずです。きちんと案内して差し上げなさい」
「……心得た」
クロは、たんこぶを押さえながら頷いた。
リヴェータさんは、僕の方へ向き直り、深く一礼した
「では、皆さん。【聖都】を、楽しんでくださいね」
顔を上げると、彼女はラウンジの窓を開けた。
朝の冷たい風が、吹き込んでくる。
リヴェータさんは、指を唇に当てて、細く、高く、指笛を鳴らした。
ひゅう、と。
その音が、空に溶けた。
指笛が、特殊な音階を奏でる。
――ばさり、と。
大きな羽音がした。
窓の外の空から、何かが降りてきた。
蛇だった。
巨大な、銀色の蛇。長い胴が、朝の光を受けて鱗の一枚一枚をきらきらと光らせている。
その背中から、大きな翼が生えていた。鳥の翼のような、羽毛に覆われた白銀の翼。それをゆっくりと羽ばたかせながら、蛇は列車の窓の外に、静かに浮かんでいた。
首の後ろあたりに、鞍がついていた。
――翼のある、蛇。
アイネイアス家の紋章と、同じ姿だった。
「リヴェータ【枢機卿】」
ラウンジの入り口から、声がした。
ヨアン【司祭】だった。白い法衣に、旅の外套を羽織っている。
「お待たせいたしました」
「ええ。参りましょうか」
ヨアン【司祭】は、リヴェータさんに一礼してから、僕の方へ向き直った。
目尻の皺を、深くして。
「エディンさん」
「はい」
「昨日は、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私は今ごろ、主の御許に召されていたでしょう」
ヨアン【司祭】は、胸のロザリオに手を当てて、深く頭を下げた。
「お約束のお話は、また今度。必ず」
「……はい。また今度」
僕も、頭を下げた。
ヨアン【司祭】が、窓の外の蛇の背へ、リヴェータさんの手を借りて乗り移る。
それから、リヴェータさんが、窓枠を軽く蹴った。
ふわりと、小さな身体が宙に舞う。白い法衣の裾が翻る。そのまま、彼女は蛇の首の後ろの鞍に、音もなく飛び乗った。轡を、片手で握る。
「行きますよ」
蛇が、翼を大きく広げた。
――ごうッ!
風が、ラウンジの中に叩きつけられた。書類が舞い上がりかけて、クロが慌てて押さえる。
次の瞬間、銀色の蛇は、とんでもない速さで空へ駆け上がっていた。
朝の光の中を、一直線に。
峰の一つを、あっという間に飛び越えて――その向こうへ、消えていった。
……速すぎない?
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……行くか」
クロが、乾燥コーンの麻袋を肩に担いで言った。
「うん……」
僕は、空っぽの皿をちらりと見た。
……朝ごはん。
「おお、エディン。そう悄気るな。公がとびきりの店に連れて行ってやる」
「……ほんと?」
「本当だとも」
クロは、たんこぶを魔法で癒しながら、自信満々に胸を張った。
※※※
列車を降りると、そこは山の上の小さな駅だった。
白い石で造られた、簡素な駅舎。
その向こうに、石造りの水路が一本、山の斜面に沿って下へ伸びていた。
水路には、透き通った水が、とんでもない勢いで流れている。
「――あ、エディン君!」
声がして、振り返ると、モーリス君が駆け寄ってくるところだった。義足が、石畳をかつかつと叩いている。
「モーリス君! 無事でよかった」
「うん、エディン君こそ! 昨日、すごいことになってたって聞いたよ。後ろの車両もすごい揺れて、窓の外になんかでっかいのが――」
そこまで言って、モーリス君の目が、僕の隣に向いた。
クロだった。
モーリス君の顔が、さっと強張った。
「――っ」
ぴしっと、背筋が伸びる。
それから、勢いよく、深々と頭を下げた。
「し、失礼いたしました! アイネイアス家の、エレクロス様でいらっしゃいますか!
わ、わたくし、迷宮都市国家【伯方】の、鎮西大将軍、鴉門凛々絵が弟子、石上モーリスと申します! このたびは、ご挨拶が遅れまして、まことに――」
「おお、そう謙るな」
クロが、片手を挙げてそれを遮った。
「え」
「エディンの友なら、公にとっても友だ。よろしく頼む」
そう言って、クロはモーリス君の右手を両手で握った。
モーリス君は、その手を見下ろした。
それから、クロの顔を見た。
もう一度、手を見た。
「……え、あの」
「なんだ。握手を知らんのか?」
「い、いえ! 知ってます! 知ってますけど!」
モーリス君は、おそるおそる、クロの手を握り返した。
クロが、ぎゅっと握り返して、上下に振る。
「よろしく、モーリス」
「よ、よろしくお願いします……」
手が離れると、モーリス君は、自分の右手をまじまじと見つめていた。
それから、小さく首を捻った。
「……思ってたのと、違う……」
「何が?」
「いや、だって、アイネイアス家の次期当主様だよ? 師匠なんか、偉い人にはちゃんと頭を下げろ、頭が高いって、いつも――」
モーリス君は、そこまで言って、口を噤んだ。
……ああ。
リーリエさん、そういうところ厳しそうだもんな。
シンプルに偉ぶるのを楽しんでるだけかもしれないけど。
迷宮都市国家は封建社会だ。
偉い人に頭を下げるのは当然の話。その偉い人の方から「謙るな」なんて言われることは、たぶん、モーリス君の人生で一度もなかったんだと思う。
「おお、何をしている。行くぞ」
クロは、もう水路の方へ歩き出していた。
「自由な奴だなぁ……」
※※※
水路の脇に、それはいた。
――イカだった。
大きなイカだった。胴体だけで、僕の背丈の倍くらいある。
半透明の白い身体に、ところどころ淡い青の斑点が浮かんでいて、それが呼吸するようにゆっくりと明滅している。
大きな丸い目が、二つ。それが、きょろきょろと僕らを見ていた。
そのイカの後ろに、乗り物が繋がれていた。
硝子でできた、舟だった。
いや、舟というより、馬車に近いかもしれない。
透き通った硝子で、楕円形の箱のような客室が作られている。中には座席が並んでいて、外の景色がどこからでも見えるようになっていた。
客室の両脇には、水車のような丸い車輪がついていて、それが水路の水を受けて、ゆっくりと回っている。
イカの長い触腕が、何本も、その舟の前方にある金具に絡みついていた。
「これが、フネイカだ」
クロが、少しだけ誇らしげに言った。
「【聖都】の足だよ。水路を走って、人も荷物も運ぶ。賢くて、優しくて、ちょっとばかり食い意地が張っている」
フネイカが、大きな目をぱちぱちさせて、クロの方を見た。
正確には、クロの肩に担がれた麻袋の方を見ていた。
「おお、分かっているな。よし」
クロは、麻袋に手を突っ込んで、乾燥コーンを一掴み取り出した。
それを、ぽいっと宙へ放り投げる。
――しゅるっ。
フネイカの触腕が、目にも留まらぬ速さで伸びた。
宙に舞ったコーンを、一粒残らず、空中で絡め取る。そのまま、口元へ運んで、もぐもぐと食べ始めた。
それから、フネイカが、くるりと回った。
その場で、一回転。半透明の身体の斑点が、ぱあっと明るく光った。
「……喜んでる?」
「喜んでいる。こいつは、嬉しいと回るんだ。なあ、タロー」
ぶふーっ、と黒い墨をクロに向けて噴射した。
「タローではなかったようだ」
全身に墨をねっとりとこびりつかせながら、クロは平然と言い放った。
何してんだお前。
「お前たちもやってみるといい」
クロが、麻袋を差し出してきた。
僕は、乾燥コーンを一掴み取って、フネイカの方へ放った。
しゅるっ。触腕が伸びて、全部絡め取る。もぐもぐ。くるり。ぱあっ。
……かわいい。
リリアも、アルターも、ログマも、モーリス君も、順番にコーンを投げた。
そのたびに、フネイカはくるりと回って、斑点を光らせた。最後には、くるくると三回くらい続けて回って、触腕で僕の頭をぽんぽんと叩いてきた。
ひんやりしていて、ちょっとだけぬるっとしていた。
「懐かれたな、エディン」
「そうなの?」
「頭を撫でるのは、こいつらの最大の好意の表現だ」
……そうなんだ。
なんだか、少しだけ嬉しくなった。
「では、乗ろうか」
クロが、硝子の舟の扉を開けた。
――そこで、僕は思い出した。
舟。
水の上を、走る乗り物。
嵐の中の、あの双胴船。床が持ち上がって、ふわりと浮いて、どんと落ちる。白米八杯が、喉の奥で暴れていた、あの――
顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……あの、クロ。これって、揺れたり――」
「さっさと乗るのです」
どかっ。
背中に、衝撃。
アルターに、蹴り込まれていた。僕の身体が、硝子の舟の中へ転がり込む。
「アルター!?」
「後ろがつかえてるのです。エディンが船に弱いのはみんな知ってるのです。今さら青い顔しても遅いのですよ」
アルターは、涼しい顔で僕の横を通り過ぎて、一番いい席に座った。
……この守銭奴ドちびめ。マジで後で破産させるくらい飯屋で食うからな。覚悟してろよ……。
※※※
全員が乗り込むと、扉が閉まった。
フネイカが、触腕を金具にしっかりと絡め直す。
それから――走り出した。
「――っ!」
速い。
舟が、水路の激流に乗った。
山の斜面を下っていく水の勢いに、フネイカの泳ぐ力が加わって、景色がとんでもない速さで後ろへ流れていく。
窓の外を、岩肌が、木々が、白い水しぶきが、次々に飛び去っていく。
なのに。
「……あれ?」
揺れない。
全然、揺れなかった。
外の水は、白く泡立って、岩にぶつかって、跳ね上がっている。
激流だ。それなのに、舟の中は、まるで平らな床の上に座っているみたいに静かだった。
座席の横に置いた鞄も、ぴくりとも動かない。
「不思議だろう?」
クロが、向かいの席で足を組んで言った。
「この客室は、水の中に浮いている。舟の外殻と客室の間に水を満たした層があって、客室はその中に吊るされているんだ。
外の舟がどれだけ揺れても、その揺れは水の層に吸われて、客室までは届かない」
「へえ……」
「昔、【聖都】のさる大司祭が、フネイカ便でひどく酔ってな。
こんなものには二度と乗らんと大騒ぎしたそうだ。それで、<叡智の学堂>がこの仕組みを提供した」
クロは、肩をすくめた。
「おかげで今では、【聖都】中のフネイカ便が、この揺れない客室を使っている。その大司祭の名前は誰も覚えていないが、その酔いっぷりだけは、今も語り草だ」
「……その大司祭さんに、感謝しなきゃね」
ふーっと胸をなでおろす。
その人の犠牲があったおかげで、僕は船酔いから解放された。まさに救世主と言っていいだろう。
僕は、窓の外を見た。
水路は、山の斜面を縫うように、くねくねと下っていく。両側に切り立った岩壁が迫ってきて、空が細い帯のように狭くなる。水しぶきが、硝子に当たって、虹色に光った。
「――そろそろだな」
クロが、身を乗り出して、硝子の窓の留め金に手をかけた。
「エディン。こっちへ来い」
僕は、クロの隣に移った。
クロが、窓を開けた。
冷たい風と、水しぶきの匂いが、一気に吹き込んでくる。
その瞬間――岩壁が、途切れた。
舟が、谷の出口を飛び出した。
視界が、一気に開けた。
――。
下に、街があった。
山々に囲まれた、大きな盆地。その底いっぱいに、白い街が広がっていた。
巨大な三角形の街だった。
街全体が、巨大な正三角形の形をしていた。
三つの角の頂点には、それぞれ大きな水門があって、そこから水が街の中へ流れ込んでいる。
流れ込んだ水は、細い水路に分かれて、網の目のように街中を走り、複雑な模様を描きながら、街の中心へと向かっていく。
建物は、どれも白かった。白い石で造られた家々が、水路に沿って整然と並んでいる。
朝の光を受けて、その白が眩しいくらいに輝いていた。水路の水は、空の色を映して深い青に染まっている。
白と青。その二つの色だけで、街が織り上げられていた。
そして、その中心に。
三角錐の、神殿があった。
巨大な、黄金の三角錐。街を囲む山々にも負けないくらいの高さで、盆地の真ん中に聳え立っている。
朝日を受けて、その表面が金色に燃えていた。周りを、環状の水路がぐるりと取り囲んでいて、街中から集まってきた水が、そこで一つに合流していた。
金色の神殿を中心に、白い街が三角に広がり、青い水が網の目のように走っている。
美しかった。
人が造ったものとは、思えなかった。
昨日、アシュドットで見た嵐を飲む街も、すごかった。
でも、アシュドットとは少し雰囲気が違う。
これは――最初から、完璧な形を目指して、三角形であることを目指して造られた街だった。
舟が、激流に乗って、斜面を下っていく。
近づくにつれて、街の細部が見えてくる。水路を行き交う、たくさんの硝子の舟とフネイカ。
白い服を着た人々。屋根の上で干されている布。橋の上の市場。
リリアが、僕の後ろから身を乗り出して、窓の外を見ていた。ログマも、モーリス君も、みんな、言葉を失っていた。
視たことのあるアルターだけが、頷いている。
隣で、クロが静かに言った。
「これが、世界三大都市の一角」
風が、彼の金色の髪を揺らしていた。
「【聖都 サン・ヘレナ】だ」




