目
……ハチミツ、多くない?
ティーポットの横に置かれた、ティーカップの半分ほどの大きさの壺からとろりとした黄金色が真っ逆さまに流れ込んでいく。
そこへ、ミルクをゆっくりと、しかし大量に注ぎ込んでいく。
手を翳すまでもなく、紅茶に小さな渦が生まれる。
ぐるり、ぐるりとかき混ざっていく。紅い茶が、ほとんど白に近い琥珀色になっていた。
リヴェータさんは少し機嫌よさそうにティーカップのハンドルを指でつまみ、口へ運ぶ。
「……ほ」
一口飲んで、青銀の髪の彼女は幸せそうに息をついた。
僕とアルター、リリアは目を見合わせた。
僕らのところにも同じく、紅茶が並べられている。
立ち上る香気からして、相当に高品質な紅茶だ。あまり高価なものや紅茶に縁のない僕でも、これは特別な一杯だとわかる。
それにハチミツとかミルクをどぼどぼと……。
うん。見なかったことにしよう。好みは人それぞれ。先頭車両で馬鹿みたいに爆食いしていた僕が言える話じゃあない。
僕が紅茶に手をつけようとしたとき、リヴェータさんはテーブルの上の呼び鈴を二度鳴らした。
「ドネル。彼に食事を。この土地周辺のものをたくさんお願いします」
「ご用意しております。ご満足いただける量かと」
壁に自然に立っていた執事服の男性が深々と一礼する。
給仕さんがワゴンを押してテーブルの脇に立った。銀の蓋が、一つずつ外されていく。
「北部高原の料理をご用意いたしました」
湯気が、ふわりと立ち上った。
とろりとした白いポタージュ。
この匂い、トウモロコシか。《蒼眼》で詳しく視ると、トウモロコシの粒が白く、凍てついたようになっている。なるほど、玉蜀黍ならぬ、凍蜀黍ってか。
隣には薄く切られた、脂が透き通るほど艶やかなハム。
大振りの骨に僕の上半身ほどの大きさの分厚い肉。そこにかかる赤黄のソースがまた、スパイシーな香りで食欲をそそる。
香りの癖が少ないチーズを、惜しげもなく溶かして乗っけた平たいパン。そこにはサラミにニンニク、黒くぷるんとした溶けた肉の髄が乗っている。
根菜をごろごろと煮込んだ、赤いシチュー。
それから、籠に山と積まれた真っ白なパン。しかも顔ほど大きなクロワッサンも同じ数ある。
なんだこれ、僕のための宝石箱?
「どうぞ」
リヴェータさんが、にこにこと微笑んでいた。
「いただきます!」
両手を合わせ……いや、ここはみんながやるように三角の祈り手を作った方がいいのか? 僕の祖国、リステリアでは両手を合わせることで円環を現していたけど……。
まあ、いいや。まずはスープから。
一口運ぶと、舌の上にやさしい甘さがふわっと広がった。モロコシの甘さ。ミルクとバターのまろやかさが包み込んでいて、飲み込んだ後にほんのわずかに塩味が残る。
戦闘の緊張で張りつめていた身体の芯に、じんわりと温かさが滲んでいく。
うっま。大皿に盛ってもらったけどこりゃ二秒ともたない……。いや、我慢だ。今はまだ遠慮していなければならない。
お次はハム。きめ細やかな霜降りが特徴の、銀皿に盛られたものをいただく。
じゅわ。
舌の上で、脂が溶けた。噛むまえに、脂の旨味が体温でバターのように溶ける。木の実のような、どこか甘い香りのする脂。
その奥から、しっかりとした塩気と、凝縮された肉の旨味がじわじわとあふれてくる。
これは……すごいね。雪というんですかね、舌の上に脂が広がっているのに、塩が一気に味を〆てくれる。六枚一気に食べてみよう。
——うまい。というか、噛むたびに腹とは別の場所が満たされていく。
「おお。それはハルトンという北部高原のハムだ」
クロが、クロワッサンをナイフで切り分け、小さく切ったクロワッサンをハムと一緒にフォークで刺して口に運ぶ。
「赤い蹄の豚に、どんぐりだけを耐えさせて、塩だけで何か月も熟成させている。クロワッサンと食べるとうまいぞ」
クロが同じようにクロワッサンを切り分け、ハムと一緒に刺したものを僕の前に運んでくる。
「食べてみるといい」
「え、いいの。じゃあ」
あーん、と口に運ばれてきたクロワッサンとハムの合体物を口に入れようとし——。
「——あーん」
隣にいたリリアが、僕の開けていた口に、クロワッサンとハムをねじ込んできた。
電光石火の速さ。クロワッサンのほのかな甘さとバターの香りが混ざり合い、甘さと塩味が口の中でハーモニーを奏でる。
「……貴君」
「あら。わたしは仲間として当然の行いをしたまでですわ。アイネイアス家のご嫡子に、わたし達のエディンの給餌をさせるわけにはいきませんもの」
ばちり、とクロと微笑んでいたリリアの視線に火花が散った。
…………またか。本当に仲が悪いな君たち。さっき仲直りしたんじゃなかったのか、やっぱり殴り合わせるしかないのかな。
なんて考えて、口を開いた瞬間。
「——エレクロス」
リヴェータさんの、ほんのわずかに冷気を帯びた声。
ビクゥッ、とクロの背筋が直立に伸びた。
「お客人の前ですよ。粗相をしない」
「……はい、サー。大婆様」
「サーはいらない。敬礼もいらない。座りなさい」
「はい」
すごすごとクロが椅子に座った。
至極丁寧な仕草で彼はクロワッサンを切り分け、気配を消して食事に没頭し始めた。
「ごめんなさいね。まだ、勉強中でして。遠慮せず、どうぞ」
リヴェータさんはす、と手を差し伸べた。
クロがちらちらこちらを見て、頷いている。ほんの短い付き合いだが、言いたいことはなんとなくわかる。
『派手にやれ』、だ。
……ううむ。なら、勢いを本来のものに戻すか。
スプーンを握り、ポタージュを丁寧に、しかし普段の剣速と同じ勢いで口へ運ぶ。
骨付きの大ぶりの肉が目の前に置かれる。
ナイフとフォークを自在に操り、肉の筋、切れ目、脂の層を《蒼眼》で視分け、一息に切り分けて口へ運ぶ。
肉が、ほろほろと口の中で崩れる。肉の髄というか、膠がぷるぷるになっている。
たぶん、肉の固くて旨い部分だ。甘酸っぱいのに、どこかスパイシーで、ほんの少しスモーキー。
1.4メテルくらいある肉だけど、なんてことはない。数秒あれば平らげるのに十分だ。
赤いシチューは、根菜が舌の上でほろりと崩れて、肉と野菜の旨味をたっぷり吸い込んでいた。チーズのパンは、外がかりっとしていて、中のチーズがどこまでも伸びる。
白いパンを、ひとつちぎって口へ運ぶ。
……柔らかい。指先にほんの少し力を入れるだけでパンがちぎれる。
雪みたいにふわふわで、口に入れるとすっと溶ける。ほんのり甘い。焼いた麦の香りと雪解けのような甘味が鼻を抜けていく。
うまい。うますぎる。
「おかわり、お願いしてもいいですか」
15回目のおかわりをドネルさんにお願いする。
スープ。ハム、肉、白パンにクロワッサン。とにかく、うますぎて何度でも食える。僕ここで暮らそうかな。
気づけば、僕の前には、空になった皿が塔のように積みあがっていた。
……あ。
顔を上げると、リヴェータさんがぽかんとしていた。
笑顔が消えて、目だけを丸くして、僕の前の皿の塔と、僕の顔を交互に見ている。はちみつとミルクたっぷりの紅茶を持ち上げた手が、口元に届く寸前で止まっていた。
沈黙。
……これは、やばいか?
助けを求めるように隣を見ると、リリアがそっと目をそらした。アルターは窓の外の景色を堪能しながら、白パンを食べていた。
ログマだけが「平常。いつものことです」と小さく頷いていた。
そういうことを言ってほしいわけじゃないんだよ、ログマ。
「——ふっ」
リヴェータさんが、吹き出した。
「ふふ、ふふふふ……っ!」
口元を手で覆って、小さな肩を震わせている。
上品に笑おうとしているのに、どうしても笑いがこらえきれない、といった顔で笑っていた。
「ご、ごめんなさい。笑うつもりは、なかったのですけど……っ。まさか、ここまで召し上がるなんて、思ってもいなくて」
「……す、すみません。つい」
「いいえ。謝ることなんて、なにもありませんわ」
リヴェータさんは、目の端に浮かんだ涙を指先で拭いながら、まだ肩を揺らしていた。
「たくさん召し上がる方は、見ていて気持ちがいいものです。料理人も喜びますわ。ただ……その細いお身体の、どこい入っているのかしら、と思ってしまって」
「おお、大婆様」
横からクロが口を挟んだ。
先ほど注意を受けたことなど忘れたように、しれっとした様子で続ける。
「それも、エディンの良さのひとつだよ。彼は何をするにも、いつだって全力だ。そこも、公が気に入ったところじゃあないか」
リヴェータさんの笑い声が、ぴたりと止まった。
彼女は、クロの方を見る。
それから、僕の方を見た。
氷のような碧い瞳が、きらきらと輝き始めていた。
「……まあ」
小さな声だった。
「エレクロスが、人のことをそんな風に言うなんて」
リヴェータさんは、両手でカップを包み込んだ。その指先の力が、ほんの少し緩んでいるのが分かった。
「この子が誰かをこんな風に親し気に紹介することがあるなんて。ふふ。いい出会いだったのですね」
「……大婆様」
「だって、嬉しいんですもの」
リヴェータさんは空になりかけたカップへ、ポットの紅茶を注ぎ入れる。
いつの間にか置かれていた追加のハチミツ瓶にハニーディッパーを差す。溝の入った特徴的な棒でハチミツを絡め、紅茶に落とす。
先ほどよりも、粘度と色が濃いハチミツだった。
クロは、少しだけ居心地が悪そうに目をそらしていた。耳の先が、ほんのりと赤い。
……へえ。クロも、そういう顔するんだ。
そのまま、リヴェータさんの視線が、僕の方へ戻ってきた。
変わらず、にこにこと微笑んでいる。
——ほんの一瞬、その笑みの種類が変わった。
目が、ちょっとだけ細くなった。でも、瞬きすればいつもの笑顔。
……怖。なんだ今の。
じっと、何かを覗きこんでくるような目だった。いつぞやのリモルさんが僕に向けたような——何かを求める、あるいは執着に見えた。
「おかわりも、たくさんありますからね」
「あ、ありがとうございます」
気のせい、かな。
僕は、もう一枚、ハムに手を伸ばした。
※※※
外の景色は、いつのまにか大きく変わていた。
一面、銀世界。
「……雪だ」
あたり一面を、雪が覆っていた。
さっきまで一面の砂漠だったのに、列車が北へ北へと進むにつれて、景色が少しずつ変わっていったようだ。
列車は、わずかな勾配を昇っている。
標高が高くなるにつれ、砂の海が岩肌に変わり、ぽつぽつと植生が目立ち始めていた。
針葉樹だ。棘のように細い葉を持つ木々が目立ち始め、その森が、今はすっかり雪に覆われている。
線路の先に、白い峰がいくつも連なって見えた。
「砂漠鉄道は、<嘆きの大砂漠>をまっすぐ横切るのではなく、北へ大きく迂回するように線路を敷いています」
僕が窓の外を見ているのに気づいて、リヴェータさんが教えてくれた。
「大陸の北の方は海が近く、高原と連峰が続いています。少し寒いですけれど、砂漠の真ん中を走るよりはずっと安全ですもの。
この列車は、特急の倍ほどの速さで運行させておりますので、明日の朝には【聖都】へ着きますわ」
「倍……」
600キロの、倍かぁ……。道理で景色が変わるのが早いわけだ。ちょっと見ないうちに銀世界になってたんだもの。
窓の外を視ると、確かに、雪の積もった森が、さっきの砂漠よりずっと速く後ろへ流れていた。それなのに、車内は相変わらず静かで、紅茶の水面も揺れていない。
風をすり抜け、山稜をなぞっていく。
そして。
足元から、地面の気配が消えた。
窓の外の森が途切れて、山間の雲霧が広がっていた。
「……谷?」
「ええ」
リヴェータさんが、指を向ける。
魔法陣が描かれ、つむじ風が渦を巻いて雲霧を払い、谷底が露わになった。
「【星の谷 エル・ヘレナ】です」
谷の底には、星と光の帯があった。
凍湖だ。透明度の高い凍った湖が、夜空に輝く星と揺らめく光帯が、谷底いっぱいに広がっている。
その氷の上に、光が揺れている。
空を、見上げる。
夜になりかけていた藍色の空に、緑から青へ、青から紫へ、色を変えながら、音もなく空を流れていく。
「オーロラ、と言います」
リヴェータさんが指を差しながら説明する。
「星空と、光の帯を写す永久凍湖。連峰の間にある、大渓谷。その上に、橋を架けて渡しています」
上にも、下にも、光の帯がある。
切り立った崖にはぽつぽつと民家の明かりが灯っている。どれも、厚い氷に覆われていた。
氷の壁を加工して、家を作っているようだった。
「……きれい」
リリアが、小さくつぶやいた。
アルターも、ログマも、黙って窓の外を見ていた。
僕も、何も言えない。
アレアの<止水>を思い出していた。果てなく続く、黄昏の湖。上と下の境目に立っている、あの感覚に似ていた。
「——大婆様」
クロが、ナプキンで口元を拭いて立ち上がった。
「向こう側からの方が、谷底がよく見える。エディンを案内してもいいかな?」
「まあ」
リヴェータさんは、窓の外から視線を戻して、やわらかく微笑んだ。
「ええ、どうぞ。せっかくですもの。よく見せて御上げなさい」
「ありがとう。——おお、エディン。来たまえ。こっちの方がいいぞ」
クロがいつもの様子で僕を手招きした。
「今行くよ」
僕は、皿の塔をそのままにして立ち上がった。
※※※
車両の反対側には、テーブルから少し離れた場所に、ソファの置かれた小さな展望スペースがあった。
壁一面g窓になっていて、なるほど確かに、こっちの方が谷の底までよく見える。
凍った湖の上で、オーロラの光が揺れていた。
「おお、見ろ。あれが湖だ。夏になると、湖の上で釣りができるらしい」
クロは窓の前に立って、明るい声でそう言った。
それから、僕の肩に手を置いて、ぐっとクロの顔が耳元に近づく。
肩に置かれた手に、力が入っている。
「——エディン」
クロの声が変わっていた。
さっきまでの明るい声じゃない。ひどく低くて、小さな声だった。
気が付けば、耳元には薄く、小さな防音の障壁が張られていた。魔力探知でも、この術式ならば探知は困難だろう。
「今から言うことは、理由を聞かずに守れ」
「……クロ?」
「大婆様の前で、アルフェウス公について一切考えるな」
息を、飲んだ。
「何一つだ。アルフェウス公に関わる伝説、伝承、受け取ったもの。陛下の国の話も。ああ、迷宮都市国家のことも、考えないほうがいいかもしれないな」
「何を……」
クロの声は止まらない。
「そしておそらく、これは公の勘だが。お前は迷宮都市国家でアルフェウス公に関わる何かを頂戴した。そうだな? 肯定であれば瞬きを一回しろ」
……受け取ったな。
クロの言う通り、瞬きを一度だけする。
「……そうか。それは今、どこにある?」
「……僕の身体の中に、吸収されたよ」
「………………そう、か」
クロが顔に渋面を浮かべた。
「エディンは、リヴェータ大婆様を、どう思う?」
「どうって、そりゃあ……いい人だな、って」
クロが頭を小さく振った。
「そうだ。だが、違うぞ。エディン。リヴェータ大婆様は誰よりも慈悲深く、そして」
クロは、僅かに言葉を溜めて僕の眼を見た。
「誰よりも、化け物なんだ」
……っ?
クロの顔は、畏敬と親愛に満ちた、複雑な表情だった。
「なぜ、二千年の時を生きてなお、リヴェータ大婆様は善良であれるのか。なぜ、人生を飽いていないのか。
それは、ひとえにアルフェウス公を想うがため。アルフェウス公こそが、彼女の原動力なんだ。
考えても見ろ。二千年間、教育と経済、そして政治の中心にいるんだ。普通は途中で疲れて辞める。それでも続けるのは、相応しい情熱なり、信念を秘めていると言うこと。
二千年も続く情熱をなんと呼ぶか知っているか」
クロは、静かに囁く。
「狂気、妄執だ」
「………………」
「大婆様は、やさしい。だが、それはあの人の下した判断の補正にしか使われない。
わかるか。つまり、目的達成のためならば、大婆様はやさしさを自分の判断から切り離せるのだ」
クロは、何度も忠告するように僕に言う。
「さっき、大婆様がお前を見ただろう。あれを忘れるな。そして、大婆様の前ではアルフェウス公と警戒を忘れろ。考えることもよくない。
見抜かれるぞ」
「見抜かれたら……?」
「命取りになる」
クロは、それだけ言った。
それから、ぱっと手を放して、また明るい声に戻った。
「おお。見ろ、エディン。いま、湖の下が光ったな。あれは冷アナゴの光だ」
僕は、窓の外を視た。
湖の上を、確かに、ひときわ明るい光の線が走っていくところだった。
その光は、もうほとんど目に入ってこなかった。
「……………」
背中に、冷たいものが這い上がってきていた。
覚えのある感覚だった。
今朝、大聖堂の小さな部屋で、ヨアン【司祭】にアレアの名前を伝えようとしたとき。
自分の口から出たはずのアレアが、音にならなかったとき。知ったら災厄を齎す知識に触れたとき。
あのときと、同じ感覚だった。
――これは、触れちゃいけないものだ。
理屈じゃなかった。身体の芯が、先にそう告げていた。
頭の奥に、黒い枝が浮かびかけた。
溶けて、指から染み込んで、部屋中の瘴気が僕の中へ吸い込まれていった、あの朝の光景──。
僕は、それを押し込めた。
浮かびかけたものを、頭の一番奥の、暗いところへ押し込んで、蓋をした。
考えるな。
思い出すな。
冷アナゴだけを、見ろ。
ニョロニョロと氷の下をうごめく、やたら輝くアナゴが、崖へ向かって泳いでいた。
「……ほんとだ。きれいだね、クロ」
声が、ちゃんと出た。
クロは、ほんの一瞬だけ僕の横顔を見て、それから、小さく頷いた。
背後で、テーブルの方から、リヴェータさんの柔らかな笑い声が聞こえた。リリアと何か話しているらしい。
僕は、振り返らなかった。
窓の外の光だけを、じっと見つめていた。




