第99話 コマンダーの即断と、深淵の真実(前編)
群馬県・赤城山ダンジョンにおける、神話級魔獣『九頭猛毒龍』との苛烈な死闘。
かつてSSランクパーティーによるアタック失敗から『監視・封印級』となっていた赤城山ダンジョンが、たった一つの規格外パーティーによって人知れず踏破されてから、数日の時間が経過していた。
千葉県野田市の一等地に広大な敷地を構える、佐修院家の本邸。
美しく手入れされた日本庭園には初夏の陽光が降り注ぎ、鹿威しの澄んだ音が時折、静寂の中に響き渡っている。
その庭園を一望できる瀟洒な応接室の、ふかふかとした最高級の革張りソファに深く腰を下ろし、結羽とふゆの姉妹は、佐修院家お抱えの専属料理人が腕を振るった特級の紅茶と焼き菓子を堪能していた。
「んん〜っ! お姉ちゃん、このマカロンすっごく美味しい! 外はサクサクなのに、中はふわふわで、噛むとイチゴとピスタチオの香りがお口の中で大爆発するよ!」
ふゆが、宝石のように美しいピンク色のマカロンを両手で大切そうに持ち、頬をリスのように膨らませて満面の笑みを浮かべる。
「ふゆ、あんまりお行儀悪くしちゃダメだよ。……でも、本当に美味しいね。こんな高級なお菓子、テレビのグルメ番組でしか見たことなかったよ……」
結羽もまた、繊細な意匠が施されたマイセンのティーカップを落とさないようにおっかなびっくり両手で持ちながら、ほうっと至福の溜め息をついた。
数ヶ月前まで、その日暮らしの探索者として割引の弁当で食いつないでいた結羽と、三年間病院のベッドで昏睡していたふゆにとって、ここはまさに別世界のような空間だった。
そして、その姉妹の向かいの席には、すっかり健康的な顔色を取り戻した佐修院彩斗美と、その背後に影のように一切の気配を消して控える、完璧な執事・黒田の姿があった。
過剰適応の呪いと、心臓に食い込んでいたヒュドラの猛毒を完全に克服した彩斗美の纏う空気は、以前の病的で危ういそれとは全く異なっている。
呪いを受け、虎柄のようになっていた髪は、艷やかな漆黒を完全に取り戻したが、「これは戒めの記憶よ」と、サイドに流れる一房を豪華な金色に染めていた。
かつて『日本の頂点』に立ったSSランク探索者としての気高き威厳と、研ぎ澄まされた名刀のような覇気。
それでいて、孤高のコマンダーだった頃には決して見せなかった、穏やかで人間らしい温もりを帯びた微笑みが、彼女の美しさをより一層際立たせていた。
「遠慮しないで、好きなだけ食べてちょうだいね。ふゆちゃんは育ち盛りなんだし、結羽さんはあれだけの死闘を乗り越えた身体なのだから、栄養と糖分をしっかり補給しなきゃダメよ」
彩斗美が優雅な手付きでティーカップを傾け、姉妹に優しく語りかける。
「ありがとうございます、彩斗美先輩! でも、こんなに良くしてもらって、なんだか申し訳なくて……」
「何を言っているの。私にとって、あなたたちは命の恩人であり、背中を預けられる最高の仲間よ。これくらい、『よろず屋ドレイク』のコマンダー兼スポンサーとして当然の歓待だわ」
ふふっ、と彩斗美が微笑んだその時、応接室の重厚な扉が開き、長身の男がのっそりと姿を現した。
首に使い古されたタオルを巻き、上下お揃いの安物のジャージを羽織った、どこからどう見ても『その辺にいる休日のおっさん』。
だが、その瞳の奥には、数千年の時を生きる神話の火龍としての、絶対的な質量の光が宿っている。
ヨシュア・A・ドレイクだった。
「――それで、赤城山の後始末はどうなったんだ? 協会やトップギルドの連中、ここ数日随分と騒がしかったようだが」
ドレイクはどっかりと彩斗美の隣のソファに腰を下ろすと、ローテーブルの上の木箱から、佐修院家が彼への歓待として特別に用意した最高級の葉巻を一本抜き取った。
シガーカッターで先を器用に切り落とし、マッチで火をつけると、紫煙を吸い込んで、極上の香りをゆったりと楽しむように吐き出した。
その堂に入った振る舞いは、安物のジャージ姿と絶妙なアンバランスさを醸し出しているが、不思議とこの高級な空間に馴染んでいた。
「ええ、もう大騒ぎよ」
彩斗美は、面白くもなさそうにフッと鼻で笑い、ティーカップをソーサーにコトリと置いた。
「なんせ、何年も放置されていた監視・封印級の赤城山深層が、たった一晩で完全に攻略された挙句、死に体だったはずの元SSランクの私が、呪いを克服して完全な健康体となって生還したのだから。……ここ数日、各国のトップギルドやダンジョン協会の上層部から、私の元へ山のようにお誘いや復帰のオファーが舞い込んできているわ。結界キューブや古代遺物をちらつかせてくる連中もいたわね」
「で? どうあしらったんだ?」
ドレイクが、ニヤリと牙を剥いて問う。
「もちろん、全部まとめて鼻で笑って蹴り飛ばしてやったわ」
彩斗美の漆黒の瞳に、鋭く冷徹なコマンダーとしての光が宿る。
「『私はすでに、よろず屋ドレイクという規格外のパーティーのコマンダー兼スポンサーとして専属契約を結んでいる。あんな数字や権力、政治的な駆け引きに縛られた鳥籠の中に、今さら戻る気は一切ない』とね。……黒田が各方面に強烈な牽制と情報統制をかけてくれたおかげで、今のところ表立った干渉はないわ。事後処理としては完璧よ」
「恐れ入ります、お嬢様。……当家の情報網と財力を以てすれば、よろず屋パーティーの皆様の平穏を守るための防壁を築くことなど、容易い仕事にございます」
背後に控えていた黒田が、恭しく一礼する。
佐修院家の莫大な資本と、黒田という万能執事による徹底した情報統制力は、結羽たちよろず屋パーティーにとって、これ以上なく頼もしい『兵站』であり『盾』であった。
「事後処理はありがてえ。お前さんたちのその手腕は、俺も全面的に信頼してる」
ドレイクが葉巻を灰皿に置き、スッと表情を引き締めた。
先ほどまでの緩んだ空気が一変し、室内の温度が数度上がったかのような錯覚を覚える。
数千年の時を生きる火龍の瞳に浮かんだのは、ただの探索や冒険を語る熱ではない。
星の歴史と世界の根幹に関わる、重く、そして冷たい色だった。
「だが、今日はもう一つ、あんたらにしっかりと共有しとかなきゃならねえ話があってな」
「共有しておきたい話……?」
結羽が背筋を伸ばし、傍らに置いた鈍い銀光を放つ『如意棍棒』を見つめながら息を呑む。
「ああ。……黄龍、説明してやれ」
『承知いたしました、師父』
ふゆのスマートフォンから、黄龍の風雅で知的な音声が響き、応接室のローテーブルの上に、青白い立体ホログラムが投影された。
映し出されたのは、結羽たちが住む地球と、もう一つの巨大な惑星――かつてドレイクと黄龍がいた異世界『アストライア』が、漏斗のように一点で繋がっている、巨大な『砂時計』の図だった。
『彩斗美殿、黒田殿。我々が赤城山の最深部で遭遇した、あの機甲化されたヒュドラが守護していた施設についてです。あれはただの遺跡などではなく、大断裂という我々の世界が一度迎えた世界崩壊……その事件以前にアストライア大陸で作られた、大量破壊兵器の最終処分場への入り口でした』




