第86話 新幹線の空気椅子と、優しい嘘の終わり(前編)
茹だるような真夏の熱気から逃れるように、滑り込んだ東海道新幹線のグリーン車の車内は、快適な冷房が効いていた。
だが、その最後列の座席で、前山田結羽の顔面は滝のような脂汗に覆われ、制服のブラウスはすでにぐっしょりと濡れていた。
「……はぁっ……っ、うぅぅ……ッ」
「結羽お姉ちゃん、大丈夫? すっごい汗かいてるよ?」
隣の席で、東京駅で買ったばかりの豪華な幕の内弁当を広げていたふゆが、心配そうに結羽の顔を覗き込む。
通路を挟んだ隣の席では、今回の関西遠征(京都の九尾の因果調査と、有馬温泉での面会)のスポンサーでありコマンダーである佐修院彩斗美が、優雅にアイスコーヒーを傾けながら、くすりと微笑んでいた。
「ふふっ。結羽さんは今、極限の『精神と肉体の対話』の真っ最中だから、邪魔をしてはいけないわ。ほら、ふゆちゃん、お姉ちゃんの分のお茶も開けてあげて」
「うんっ、わかった!」
結羽は、手元のハンカチで汗を拭う余裕すらなかった。
彼女の両手首と両足首には、ドレイクが黒鋼から打ち出し、魔術回路を刻み込んだ極悪な拘束具『縛仙環』が装着されている。
装着者の仙気を強制的に吸収し、それを際限のない超重力へと変換して押し潰しにくる仙人をも拘束する魔導具。
ただでさえ途方もない質量を持つ黒鋼が、結羽の膨大な仙気を燃料にして、今や小型の隕石のような重さを発揮していた。
『いいか結羽、絶対に気を抜くんじゃねえぞ』
結羽の脳内に、隠形したまま車両の隅に陣取っているドレイクの、容赦のない念話が響き渡る。
『もしお前さんが1ミリでもその縛仙環の重力制御を誤って、座席に体重を『預け』ちまったらどうなるか。……新幹線のシートごと、床の装甲がメキョッと抜けて、最悪この車両が脱線して大惨事になる。絶対に、重さを漏らすな』
(わか、ってますぅぅぅ……ッ!)
結羽は、悲鳴を上げたいのを必死に堪えながら、丹田の奥底で仙気を練り上げ、手足の縛仙環が放つ下向きの超重力を、上向きの反発力で完全に相殺し続けていた。
傍から見れば、彼女はただグリーン車のふかふかなシートに「座っている」ようにしか見えない。
だが実際は、シートの座面から数ミリだけ浮いた状態を維持し続ける、地獄の『パーフェクト・空気椅子』を強いられているのだ。
東京から新大阪までの約二時間半。
食事をする時も、ただ息をする時でさえも、仙気のコントロールをほんの少しでも誤れば、周囲を巻き込む大惨事に直結する。
ステータスという補助輪を外した結羽にとって、移動という「日常」そのものが、息を抜く暇もない極限の修行と化していた。
(お、重い……! 気を練れば練るほど、全部吸い取られてもっと重くなるぅぅ!?)
『カッカッカ! そうだ、その調子だ。抗おうとすればするほど重くなる。それが縛仙環のいやらしいところだ。……だが、それを完全に飼い慣らして『なんでもないように』振る舞えるようになった時、お前さんの器はもう一つ上の次元に到達する。死に物狂いで制御しろ!』
容赦のないドレイクの檄が飛ぶ中、結羽は白目を剥きそうになりながらも、決して重力を床に漏らさなかった。
ふゆと彩斗美が無邪気に、そして優雅に関西への旅路を満喫している横で。
結羽の、特級探索者としての泥臭くも逞しいド根性が、見えない次元の枷と戦い続けていたのだった。
◆◆◆
新大阪から専用のハイヤーに乗り換え(結羽はここでも空気椅子を強いられた)、緑豊かな六甲の山並みを抜けること数十分。
関西屈指の温泉地である有馬の奥地に、その施設はあった。
温泉療法を取り入れた、リハビリテーション兼・特別療養老人ホーム。
木立に囲まれた静かで空気の良い高台に建つ、清潔で広々としたエントランスを抜けながら、結羽の心臓は早鐘のように打ち鳴っていた。
(おばあちゃん……怒るかな。呆れるかな……)
結羽は、縛仙環の超重力を顔に出さないように必死にコントロールしながら、手にしたクリアファイル――学園の教務課からもらった『特例・スキップ卒業認定試験申請書』――を、ギュッと強く握りしめた。
これに保護者のサインをもらう、というのはあくまで建前だ。
本当の目的は、三年もの間、たった一人の肉親につき続けてきた『優しい嘘』を、自分の口から終わらせることだった。
後ろを歩くふゆが、不安そうな姉の背中を見て、そっとその手を握る。
さらにその後ろには、ハンチング帽を目深に被り、アロハシャツに首タオルというラフな出で立ちの巨大な男が、一切の気配を消すようにして静かに付き従っていた。
「――山咲一美様、ご面会の方が見えられましたよ」
看護師に案内され、日当たりの良い広々とした個室のドアが開かれた。
車椅子に座り、窓の外の青葉を眺めていた初老の女性が、ゆっくりと振り返る。
年齢は七十代半ば。
長年のリウマチの療養で手足の関節はやや変形し、身体もすっかり小さくなっている。
だが、その顔立ちを見た瞬間、結羽の背後にいたドレイクの肩が、微かに、けれど確かに跳ねた。
少しだけ垂れ下がった目尻。
しかし、その奥に宿る瞳の光だけは、病に伏してなお信じられないほど力強く、理不尽を絶対に許さない確固たる闘志のようなものを湛えていた。
それは紛れもなく、今、結羽の背後で息を潜めている神話の火龍――前世において富士川義昭と呼ばれた男の面影そのものだった。
「……結羽? ふゆ、なんかい?」
「おばあちゃん……!」
結羽とふゆは、車椅子へと駆け寄り、その細くなった身体にすがりついた。
三年間、ずっと会いたかった。
けれど、会えば絶対に心配をかけてしまうからと、野田の街で歯を食いしばって耐え続けてきたのだ。
「おお、おお……。よく来たねぇ。ふゆ、あんた、そんなに大きくなって……もう、すっかり元気になったんやね」
「うんっ! おばあちゃん、わたし、もうどこも痛くないし、走れるよ!」
「そうか、そうか……。結羽も、本当にべっぴんさんになって。あんたたちの|お母ちゃん……アキラの若い頃にそっくりやわ」
一美は、震える手で二人の頭を何度も、何度も撫でた。
その温かい手のひらの感触に、結羽の胸の奥で張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れた。
結羽は、一美の膝に顔を埋め、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、ついにその重い口を開いた。
「おばあちゃん……ごめんなさい。わたし、おばあちゃんにずっと、嘘をついてたの」
「……嘘?」
「わたし、奨学金をもらって普通の高校に通ってるって言ってたけど……本当は、違ったの。……ダンジョンに潜って、お金、稼いで、いたの」
結羽の震える声が、静かな病室に響く。
ふゆが三年間、本当はずっと目を覚ましていなかったこと。
両親を探すため、そして莫大な治療費を稼ぐために、ギルドの育成枠という名目で身売り同然にダンジョン科へ進学し、荷物持ちとして過酷な日々を送っていたこと。




