第87話 新幹線の空気椅子と、優しい嘘の終わり(後編)
途中で知り合った『すごいお師匠様』に助けられ、今では特級の探索者になり、ふゆの目を覚まさせることができたこと。
そのすべてを、結羽は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、包み隠さず打ち明けた。
怒られると思った。
危険な真似をして、と泣かれると思った。
だが、一美は、結羽の言葉を最後まで静かに聞き終えると。
怒るどころか、どこまでも優しく、そして誇らしげに、フッと目を細めて笑ったのだ。
「……なんや。そんなことか」
「え……?」
「結羽。あんたが一人で野田に残るって言い出した時から、なんとなくそんな気はしとったんよ。……あんたのお母ちゃんもそうやったけど、ウチの女は、いざって時には絶対に引かへん、アホみたいに頑固な血が流れとるからね」
「おばあちゃん……」
「三年間。たった一人で、ふゆのこと守り抜いたんやね。……よく一人で、頑張ったねぇ。あんたのそのド根性は、やっぱりウチの女……いいや、死んだお父ちゃん譲りだねぇ」
一美は、結羽の涙を親指で優しく拭い、ポンと、その逞しくなった肩を叩いた。
その言葉の端に現れた『義昭』という名前に、部屋の隅で気配を消していたドレイクが、ハッと息を呑むのがわかった。
「お父ちゃん、ですか?」
「ああ。私のお父ちゃん……あんたたちの曾祖父さんやね。私がまだちっちゃい頃に、プロレスの試合の事故で死んでもうたんやけど」
一美の視線が、ふと遠い過去の情景を映すように和らいだ。
「私の母ちゃん……あんたたちの曾お祖母ちゃんの修子は、いっつも言うとったわ。『あんたのお父ちゃんは、いっつも道場の若い衆を家に連れ帰ってきては、飯を食わせて酒を飲ませる、世話焼きで不器用な人やった』ってね」
その言葉は、ドレイクの記憶の扉を、直接こじ開ける鍵だった。
「お母ちゃんはすっごく料理上手でね。お父ちゃんに連れ回されて二日酔いになってる若い衆に、いっつも熱いしじみの味噌汁を出してやってたそうや。『どうせお父ちゃんに連れ回されて酒にやられとるんやろ? しじみの味噌汁飲んで、しっかり食わなあかんよ』って。……『関節の鬼』って呼ばれてたお父ちゃんも、お母ちゃんには基本的に頭が上がらんかったらしいわ」
「ふふっ……なんだか、曾お祖母ちゃん、すごくかっこいいですね」
「ああ、かっこよかったんよ。……お父ちゃんが死んで、頼る人もおらんくなって。それでもお母ちゃんは、泣き言一つ言わんと、女手一つで私を育て上げてくれたんや」
一美は、自身の震える指先をジッと見つめた。
「『冨士川』。……それが、うちの昔の苗字や。ワかんむりの、冨士川。お母ちゃんは、お父ちゃんが遺したその苗字の『ワかんむり』に、自分の手で『一画』を足したんよ」
「一画……?」
「ああ。私が、欠けた『一画』になってこの家を守るって。ワかんむりの『冨』から、ウかんむりの『富』にな。誰にも恥じることない、四方の誰から見ても立派やねって言われる『富士』にな。……それが、お父ちゃんを喪った修子お母ちゃんの、『一画の覚悟』やったんよ」
欠けたものを、自らの手で補い、次へと繋ぐ。
それが、理不尽に大切なものを奪われても決して屈しなかった、富士川の、そして前山田の女たちの、決して折れない『ド根性』のルーツ。
その真実を聞いた瞬間。
部屋の隅に立っていた巨大な男の口から、微かな、本当に微かな、嗚咽のような呼気が漏れた。
(……ああ。……そうか)
ドレイクは、目深に被ったハンチング帽の鍔を、さらに強く引き下げた。
数千年の時を生きる火龍の、炎金に輝く瞳から、熱い、熱い雫がこぼれ落ちていた。
彼が元いた世界線において。
愛する妻の修子との間に生まれた一人娘の一美は、幼い頃に流行り病で命を落とした。
だからこそ彼は、その空いた心の穴を埋めるかのように、道場の若手たちを自分の子供のように可愛がり、不器用に世話を焼き続けたのだ。
異世界アストライアに召喚されてからも、その本質は変わらなかった。
だが、この近接した並行世界においては。
自分がリングの事故で先に死んだ代わりに、妻の修子は「ワかんむり」から、俺と同じ「ウかんむり」の富士川へと姓を変え、その『一画の覚悟』で家を守り抜いた。
娘の一美は生き延びて、異世界で商売を成功させるほどのド根性の血を引く明という逞しい娘を産んだ。
そしてその明が、ダンジョンなんてものが生えたこの世界で、結羽とふゆというとびきり頑丈で誇り高い二人の曾孫を、この世界に生み出してくれたのだ。
自分の血脈は、途絶えてなどいなかった。
数千年の時を超え、次元を超え、彼女たちがその命と闘魂を、ここまで繋いでくれていたのだ。
(……ありがてえ。……本当によく、生き抜いてくれた)
それは、火龍の魂に数千年間こびりついていた、重く冷たい「後悔」という名の呪いが、解き放たれ、救済された瞬間だった。
「……ん? 結羽、その後ろにおる、おっきな人はどなたさんなん?」
一美が、涙を拭きながら、部屋の隅で静かに肩を震わせているドレイクの存在にようやく気がついた。
結羽は振り返り、真っ赤な目で、けれど世界で一番誇らしげな笑顔を浮かべた。
「この人が、わたしとふゆを助けてくれた、最強のお師匠様……よろず屋の『おやっさん』だよ!」
結羽の言葉に、ドレイクは大きく鼻をすすると、帽子の鍔を上げた。
そして、かつて愛した妻の面影と、自らの血を色濃く残す「娘」に向かって、不器用に、けれどどこまでも優しく、獰猛な笑みを浮かべてみせた。
「……初めましてだな、ばあさん。俺は探索者のドレイクってモンだ。結羽とふゆは、俺が責任を持って、最強の探索者に……最強の戦士に育て上げてやる。……安心しな」
それは、ただの師匠としての言葉ではない。
数千年の時を超えて果たされた、不器用な父親からの、絶対の約束だった。
「……そうか。あんたさんが、結羽たちを……」
一美は、ドレイクのその言葉と、瞳の奥に宿る揺るぎない覚悟を見て、フッと柔らかく微笑んだ。
「大きな人やね。……結羽、ふゆ。本当に良いお師匠さんに巡り会えたんやね」
「うんっ!」
結羽は涙を拭い、満面の笑顔で手にしたクリアファイルを一美に差し出した。
「だからね、おばあちゃん。わたし、もう学校を卒業して、本格的に探索者として、おやっさんたちとお父さんたちを探しに行くことにしたの。……これに、サインをお願い」
一美は受け取った『特例・スキップ卒業認定試験申請書』に目を通し、力強く頷いた。
「わかった。富士川の女がこうと決めた道や。最後まで、しっかりやり抜きなさい」
変形した指で、けれど確かな筆致で、一美はその紙に保護者としてのサインを書き込んだ。
過去の優しい嘘は終わりを告げ、血脈に受け継がれた『一画の覚悟』が、結羽の背中を力強く押す。
彼女たちの次なる目的地は、因果の渦巻く古都・京都。
縛仙環の超重力を纏った少女と火龍の、関西遠征はまだ始まったばかりだった。




