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第65話 人化への執念と、スパルタ変身指導

 紅泉郷の外れの洞窟で静かに眠る、数え切れないほどの琥珀色の酒樽。


 月酔仙と共にウイスキーの熟成を見守るという、永い寿命を持つ者ならではの極上の楽しみを見つけた俺だったが、最近になってどうにも我慢ならない不満が一つ、頭をもたげ始めていた。


 それは、俺自身のこの巨大すぎる身体についてだ。


 村人たちが丹精込めて造り上げた米の酒も、長い時をかけて香ばしい樽の中で琥珀色に染まった麦の酒も、確かに飛び上がるほど美味い。


 だが、この城壁のように巨大な火龍の身体では、樽一つ分など文字通り一舐めで終わってしまうのだ。


 小さな盃に注がれた酒を、ちびちびと舐めながら風味を楽しみ、アテをつまんで語り合う。


 前世で俺が愛してやまなかったあの至福の酒盛りが、火龍の巨体では物理的に不可能なのだ。


 おまけに、俺が酒を飲む時は、村人たちは俺の巨大な顔の前に樽を並べ、少し離れた場所から畏れ多くも平伏しながら見守っている。


 月酔仙は仙術でふわりと浮き上がり、俺の顔の高さまで来て杯を傾けてくれるが、それでも同じ卓を囲んで飲み交わすという空気には程遠かった。


『……虚しい』


 ある月夜の晩、俺は火山の山頂で腹這いになりながら、深々とため息を吐いた。


 鼻から漏れ出た熱い息が、夜風に乗って白い煙となって消えていく。


『美味い酒は山ほどあるのに、同じ目線で、同じサイズの器を傾けて乾杯できねえなんて、拷問以外の何物でもねえぞ……』


 俺の前世は、ただの不器用な男だったが、酒の席の賑やかな空気だけは大好きだった。


 道場の裏で、気の置けない仲間や弟子たちと肩を並べ、くだらない愚痴をこぼしながら安酒を煽る。


 あの泥臭くて温かい時間が、どうしても恋しかった。


 俺は重い腰を上げ、月酔仙が滞在している村の庵へと向かった。


 ドズン、と巨大な足音を立てて庵の前に降り立つと、月酔仙は縁側で涼しい顔をして酒を飲んでいた。


『どうされましたかな、火龍殿。こんな夜更けに』


『……月酔仙。俺に、人化の術を教えてくれ』


 俺が切実な念話を飛ばすと、月酔仙は盃を持った手をピタリと止め、目を丸くした。


『人化の術、ですか。偉大なる火龍殿が、なぜまたあえて我らのような脆弱な人の姿に?』


『……樽を一舐めで終わらすのは、もう嫌なんだよ』


 俺は正直に、己の食い気と寂しさを白状した。


『お前さんたちと同じ目線で座って、同じサイズの器で乾杯がしてぇんだ。俺だって、ただ見上げられるだけの神様気取りでいるのは退屈なんだよ』


 俺の言葉を聞いた月酔仙は、数秒の沈黙の後。


「ぶっ……ふぉっふぉっふぉっふぉっ!!」


 腹を抱えて、盛大に吹き出した。


『こ、これは失礼……。いやはや、火龍殿の酒への執着、そしてその人間臭いお心のありよう、本当に愛おしいお方だ』


 月酔仙は目尻に涙を浮かべながら、愉快そうに肩を揺らしている。


『笑い事じゃねえよ。こっちは大真面目だ』


『よくわかりますとも。ええ、ええ。同じ卓で火龍殿と盃を交わせるのなら、私にとってもこれ以上の喜びはありませぬ』


 月酔仙は表情を引き締め、すっと立ち上がった。


『しかし火龍殿。神話の存在たる巨大な竜が、人という小さな器に自らを押し込めるのは、並大抵の苦労ではありませぬぞ。相当な荒行になりますが、覚悟はおありで?』


『上等だ。美味い酒のためなら、どんな修行だって乗り越えてやる』


 俺の決意を聞き、月酔仙はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。



◆◆◆



 その日から、月酔仙による地獄のスパルタ変身指導が始まった。


『まずはその巨大な御身を、均等に縮めることから始めましょう。己の魔力を内側へと凝縮し、密度を高めるのです』


 口で言うのは簡単だが、自分の身体のサイズを意図的に変えるというのは、途方もない集中力を要する作業だった。


 数百万トンにも及ぶであろう己の質量を、魔法の力で強引に押さえ込み、体積だけを小さくしていく。


 それはまるで、暴れ狂うマグマを小さな壺の中に素手で押し込めるような、神経をすり減らす苦行だ。


『ぐ……ぬぅぅぅっ……!』


 俺は全身の鱗を軋ませ、歯を食いしばって魔力を内側へと向ける。


 だが、少しでも気を抜けば、圧縮された魔力が反発して元のサイズにボヨンと戻ってしまう。


『甘いですぞ、火龍殿! もっと丹田に気を込めなさい!』


 容赦ない月酔仙の檄が飛ぶ。


 何ヶ月もそんな押し問答を繰り返すうちに、俺はどうにか、元の十分の一ほどのサイズ――大きな家くらいの大きさ――にまで縮むコツを掴み始めていた。


 重力魔法を使って自身の質量を騙し、空間に固定するという理屈を身体で覚えたのだ。


『ふむ、大きさの制御は様になってきましたな。では次は、四肢を人間の形へと変質させていきましょう』


 ここからがさらに地獄だった。


 分厚い鱗に覆われた前脚を、細い五本指を持つ人間の腕へと変化させる。


 骨の構造、筋肉の付き方、関節の可動域。


 俺は前世で格闘家として人体構造を熟知していたからこそ、イメージ自体は明確に持てていた。


『そうだ、手首の関節はこう曲がる。指の骨はこう連なってる……』


 前世の記憶を総動員し、己の魔力で肉体を再構築していく。


 バキバキと自らの骨が組み替わる不気味な音に耐えながら、俺は少しずつ、四肢を人間のそれへと近づけていった。


 だが、部分的な変化に意識を集中しすぎると、今度は別の場所の制御がおろそかになる。


 ある宴の夜のことだ。


 俺は日中の厳しい修行の成果を披露しようと、意気揚々と村の広場へ降り立った。


『どうだ、月酔仙! ようやく手と胴体を人間サイズにできたぜ!』


 俺のその姿を見た村人たちは、一瞬静まり返り、次いで悲鳴のような歓声を上げた。


 無理もない。


 俺の身体は確かに人間のおっさんのように服を着た二本足になっていたが、首から上だけが、元の巨大な火龍の顔のままだったのだ。


 人間の身体に、家ほどもあるドラゴンの頭が乗っかっているという、シュール極まりない悪夢のような姿である。


『か、火龍殿……! 頭が、頭がそのままですぞ!』


 月酔仙が吹き出しそうになるのを必死に堪えながら指摘する。


『あ? ……やべっ、顔の造形まで意識が回らねえ!』


 俺はそのアンバランスな姿のまま、無理やり器用に人間の手で小さな杯を掴み、龍の巨大な口へと酒を放り込もうとした。


 当然、杯の中の酒は龍の巨大な牙に当たってすべてこぼれ落ちてしまう。


『くそっ、飲めねえ! どうなってんだこれ!』


 俺が地団駄を踏んで悔しがると、村人たちは恐れおののきながらも、どこか微笑ましいものを見るような目で、大樽から直接俺の口へと酒を注いでくれた。


『火龍様、どうかご無理をなさらず……』


『うるせえ、次は絶対に完璧なおっさんの顔になってやるからな!』


 そんな滑稽な失敗を幾度となく繰り返し、俺の執念は徐々に実を結んでいった。



◆◆◆



 やがて、数年の歳月が流れた頃。


 紅泉郷の静かな朝。


 俺は月酔仙の庵の前で、ゆっくりと己の魔力を解放した。


 巨大な火龍の身体が、淡い光に包まれながらシュルシュルと縮んでいく。


 分厚い鱗は肌へと変わり、強靭な爪は太くゴツい人間の指へ。


 そして最後に、巨大な顎と角が収縮し、見覚えのある人間の顔立ちへと定着した。


 光が収まった後、そこに立っていたのは、身長185センチの、筋骨隆々とした強面の中年男だった。


 首には使い古した布のタオルを巻き、いぶし銀の職人を思わせるような面構え。


 前世の俺の姿そのもの、いや、少しだけ若返ったような、脂の乗り切ったおっさんの姿だ。


「……どうだ、月酔仙。完璧だろ」


 俺は自身の喉から発せられる、低く嗄れた人間の声帯の響きに、思わず口の端を吊り上げた。


 念話ではなく、空気の振動を介して直接放たれた言葉。


 庵の縁側に座っていた月酔仙は、目を細めて俺の姿を上から下まで眺め回し、やがて満足げに深く頷いた。


「お見事。見事な人化の術ですぞ。ただの人間と全く見分けがつきませぬな。……しかし、焔そのものを固めたような紅眼といい、なかなかに凄みのある、歴戦の武将のような面構えですな」


「へっ。こちとら前世じゃあ、道場で若手をシメてた裏方だからな。これくらい顔が怖くねえと、ナメられちまうんだよ」


 俺は自分の両手を開いたり握ったりして、人間の関節の感触を確かめた。


 懐かしく、そして愛おしい感覚だ。


「さて、火龍殿。せっかく人の姿を得たのです。人間の社会で生きていくための、名が必要になりますな」


 月酔仙が立ち上がり、俺の前に並ぶようにして立った。


「火龍殿というのも、人前では目立ちすぎますゆえ。何か、ご希望の名はございますかな?」


「名前、か……」


 俺は腕を組み、少しだけ考え込んだ。


「遙か西の異国の言葉では、火を司る力強き龍のことを『ドレイク』と呼びならうそうですぞ」


 月酔仙が、自身の豊富な知識の中から一つの単語を提案してくる。


「ドレイク……悪くねえな。じゃあ、ファミリーネームはそれでいこう」


「では、下の名はどうされます?」


「前世の名前でいい。俺の名前は、『ヨシアキ』だ」


「ヨショア……ヨシュアク? ヨシュアーク……?」


 月酔仙が、聞き慣れない異世界の言葉の響きに首を傾げ、何度か舌の上で転がすように発音する。


 光華王朝の言葉の訛りが入っているのか、どうにも正確な発音になっていない。


「……いや、それでいい。ヨシュア・アークだ」


 俺は面倒くさくなって、彼の言い間違いをそのまま採用することにした。


「ヨシュア・アーク・ドレイク。……うん、なんだか立派すぎる気もするが、悪くねえ響きだ。今日から俺は、ヨシュアだ」


「素晴らしい名ですな、ヨシュア殿。これでようやく、同じ目線で盃を交わせますな」


 月酔仙は嬉しそうに目を細め、庵の奥からとっておきの清酒が入った徳利と、二つの小さな盃を持ってきた。


 俺は縁側に腰を下ろそうとして。


 ドンッ――!!!


「……あ」


 俺の尻が触れた瞬間、頑丈なはずの庵の縁側の木材が、まるで紙屑のようにひしゃげ、木っ端微塵に粉砕されてしまった。


 俺の身体はそのまま床板をぶち抜き、地面に深くめり込んでしまう。


「ヨ、ヨシュア殿!? 一体何が……!」


 驚愕する月酔仙を見上げながら、俺は土埃の中で盛大に顔を引きつらせた。


(……しまった。見た目を人間に変えただけで、数百万トンの質量がそのまま残ってやがる……!)


 質量保存則という、理不尽極まりない物理の呪い。


 同じ目線で酒を飲むという俺のささやかな夢は、別の巨大な壁によって阻まれることになってしまったのである。

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