第64話 消毒液とウイスキー、二百年の約束
紅泉郷に、極上の清らかな米の酒が誕生してから、しばらくの時が流れた。
俺の庇護下に入り、ただの生贄から『龍の民』へと生まれ変わった村人たちは、もはや狂気にも似た職人魂を燃えたぎらせている。
彼らが寝食を忘れて造り上げる酒は、光華王朝の都でも献上品として最高級の評価を受け、皇帝を大いに喜ばせているらしかった。
俺自身も、村の中央広場にどかと腹這いになり、彼らが運んでくる透き通った酒を心ゆくまで堪能する日々を送っている。
雑味の一切ない、研ぎ澄まされた米の旨味と華やかな香りは、前世で飲んだどんな銘酒にも引けを取らない。
だが、この巨大な火龍の身体を持て余しながらのんびりと空を見上げていると、どうしても次なる欲望が頭をもたげてくるのだ。
米の酒は、確かに美味い。
しかし、俺の記憶の底には、もっとガツンと喉を焼き、鼻腔を芳醇な香りで満たしてくれる、別の極上の酒の味が刻み込まれていた。
麦やトウモロコシを発酵させ、その成分を熱で抽出し、長い時間をかけて木の樽で寝かせることで生まれる、あの美しい琥珀色の液体だ。
前世の世界では『ウイスキー』と呼ばれていた、あの酒が無性に飲みたくなってしまったのである。
俺は大きな欠伸を一つ噛み殺し、隣で瓢箪の酒器を傾けている親友へと視線を向けた。
『なぁ、月酔仙。お前さん、光華王朝の都で、麦を発酵させてからさらに熱を加え、強い酒の成分だけを集めた液体を見たことはねぇか?』
俺が念話で問いかけると、月酔仙は白い顎鬚を撫でながら、細い目をパチクリと瞬かせた。
『麦を発酵させ、熱して成分を抽出した強い液体……それはもしや、医術で用いる清めの水のことですかな?』
『清めの水?』
『ええ。怪我の治療や、器具の穢れを祓うために使われる高純度の火酒のことでしょう。都の医術師が、特殊な釜を使って抽出しております』
月酔仙の言葉に、俺は内心で膝を打った。
(間違いない。前世でいうところの消毒用アルコール、つまりは蒸留酒の原型だ)
この時代、この世界にも、すでにポットスチルのような蒸留技術自体は存在していたのだ。
『それだ、その釜を手配してくれねぇか。村の連中に麦の酒を仕込ませた後、そいつを使ってさらに強い酒を造りたいんだ』
俺の言葉に、月酔仙はギョッとしたように目を見開いた。
『あの清めの水を、飲む……とおっしゃるのですか?』
『こっちじゃ、そういう強い酒は飲まないもんなのか?』
『飲めないことはありませぬが……あれはあくまで清めや消毒に使うものです。喉が焼け付くように痛みますし、ひどい臭気で味も決してよくはありませぬぞ』
月酔仙は、俺が何を血迷ったのかと言わんばかりに首を横に振る。
確かに、ただ蒸留しただけの純度の高いアルコールなど、美味いわけがない。
『いやいや待て待て。お前さんの言う通り、そのままじゃただの毒水だ。だがな、一度蒸溜したその強い液体に、清らかな湧き水を加えて度数と味を調整するんだ』
『湧き水で割る、と?』
『そうだ。そしてここからが一番重要なんだが、そいつを木の樽に詰めて、長い間じっくりと熟成させるんだよ』
俺が前世の知識を総動員してウイスキーの製法を語り始めると、月酔仙の目に宿っていた戸惑いが、徐々に強烈な知的好奇心へと変わっていくのがわかった。
『ほうほう、実に……実に興味深いですぞ、火龍殿!』
月酔仙は身を乗り出し、興奮気味に念波を飛ばしてくる。
『一度抽出して純度を高めたものに、あえて再び自然の水を調和させ、さらに木器の中で長い時をかけて練り上げる……。それはまさに、我が仙術における丹薬の錬成にも通ずる、深遠なる理ですな!』
『まぁ、そういう小難しいことはよくわからねぇがな。とにかく、とびきり美味い酒になることだけは保証するぜ』
『それにしても、清めの水を極上の酒に昇華させようとは……火龍殿の酒への執着、もはや尋常ではございませんな!』
月酔仙は愉快そうにからからと笑い声を上げ、すぐに都の職人に命じて大型の蒸留釜を手配してくれた。
数週間後、紅泉郷の広場には巨大な青銅製の蒸留釜が据え付けられていた。
村人たちは、俺が指示した通りに麦を発酵させた酒を釜に注ぎ込み、下から火を焚いて熱を加えていく。
やがて、釜の管の先から、ポタポタと無色透明な液体が滴り落ち始めた。
アルコールの強烈な揮発臭が広場に充満し、作業をしていた村人たちが思わずむせて咳き込む。
「こ、これが火龍様の望まれる新しい酒の元……!」
「なんて強い匂いなんだ。本当にこれを飲むのか……?」
村人たちがざわめく中、俺は満足げに巨大な鼻を鳴らした。
『よし、第一段階は成功だ。次は樽の準備だ』
俺は村の長に命じ、都から大量の果実酒の空き樽を取り寄せさせていた。
琥珀色の酒を造る上で絶対に欠かせないのが、樽の内側を炎で焦がす『チャーリング』という工程である。
木材の表面を炭化させることで、酒の不純物を取り除き、あの甘く芳醇な香りと美しい琥珀色を引き出すのだ。
『樽の蓋を開けろ。俺が直接、中を焼いてやる』
俺の念話を聞いて、村人たちが慌てて並べられた樽の蓋を外していく。
俺は長い首をゆっくりと持ち上げ、樽の開口部に向かってそっと顔を近づけた。
本来の俺のブレスをまともに放てば、樽どころかこの村ごと一瞬で灰燼に帰してしまう。
だからこそ、俺は自身の内にある莫大な火の魔力を、極限の極限まで小さく絞り込んだ。
巨大な顎の先から、チロチョロと小さな、まるで蝋燭の灯りのような熱息を吐き出す。
ゴォォォ……という微かな音と共に、樽の内側が均等に炙られていく。
パチパチと木が爆ぜる音が鳴り、やがて甘いカラメルのような、焦げた木の香ばしい匂いが周囲に漂い始めた。
『完璧だ。我ながら見事な火加減だぜ』
俺は自分の繊細な作業を自画自賛しながら、次々と空き樽の内側を丁寧に焦がしていった。
この巨大な身体で、ミリ単位の魔力制御を要求される作業はひどく骨が折れるが、美味い酒のためならば労力など惜しくはない。
焦がし終えた樽に、適度に加水した透明な蒸留酒がなみなみと注がれ、しっかりと蓋で密閉される。
『あとは、こいつを静かで涼しい場所で寝かせるだけだ。月酔仙、頼めるか?』
『お任せあれ。村の外れにある洞窟に、温度と湿度を一定に保つ仙術の結界を張っておきましょう』
月酔仙の頼もしい言葉と共に、数十個の樽が洞窟の奥深くへと運び込まれていった。
◆◆◆
それから、俺たちにとってはほんの瞬きのような、しかし人間にとっては確かな重みを持つ時が流れた。
春が来て、秋が過ぎ、冬の雪が幾度となく火山の麓を白く染める。
数十年という歳月が経過する中で、紅泉郷はますます発展を遂げ、光華王朝になくてはならない一大特区となっていた。
かつて生贄として怯えていた村人たちの顔には深い皺が刻まれ、その子供や孫の世代が、今や立派に酒造りの中心を担っている。
ある日の午後、俺は月酔仙と共に、あの酒を寝かせている洞窟の前にやってきていた。
結界を解いて中に入ると、ひんやりとした静寂の空気に混じって、えも言われぬ芳醇な香りが漂ってくる。
洞窟の壁際には、仕込んだ年代ごとに分けられた無数の樽が整然と並んでいた。
村人たちが俺の許可を得て、定期的に新しい樽を仕込み続けてくれているおかげで、今やこの洞窟は立派な熟成庫となっている。
俺は比較的浅い年代の樽を指差し、村の若者に蓋を開けさせた。
中から姿を現したのは、かつての無色透明な毒水とは全く違う、美しい琥珀色の液体だった。
俺は長い舌を伸ばし、その液体をそっと舐め取る。
アルコールの強烈な刺激はすっかり丸くなり、代わりに焦がした樽の甘い香りと、麦の深いコクが口いっぱいに広がった。
『……うめぇ。こいつはたまらねぇな』
俺が至福の溜息を吐き出すと、隣で試飲した月酔仙も目を丸くして驚愕の声を上げた。
『……ほう! これはこれは!!』
月酔仙は瓢箪の杯を見つめ、信じられないものを見るような顔をしている。
『あのむせ返るような清めの水が、長い時を経てこれほどまでに深く、まろやかな味わいに変化するとは……! 時の流れそのものが、極上の調味料になっているかのようですな』
『だろ? こいつが『ウイスキー』って呼ばれる酒の真髄よ』
俺は前世の記憶のままに誇らしげに語り、月酔仙も深く頷きながら二杯目を口に運んだ。
だが、月酔仙はふと、洞窟の一番奥に置かれている、最も古い年代の樽の群れに視線を向けた。
『火龍殿。仕込んだ樽を次々と空にして楽しんでおられる中で、あの奥の樽たちだけは、決して手をつけようとなさいませぬな』
月酔仙の不思議そうな念話に、俺は巨大な鼻からフンと息を漏らした。
『あの樽たちは、最初に仕込んだ時から数えて、すでに数十年が経過しております。……もしかして、あの樽の酒にはなにか瑕疵がありましたかな?』
『いや、そうじゃねえんだ』
俺はゆっくりと首を振り、最も古く、最も静かに時を重ねている樽たちを愛おしげに見つめた。
『この琥珀色の酒ってのはな、寝かせれば寝かせるほど、味が丸くなって深みが出るもんなんだよ』
『ほう。数十年でも足りないと?』
『俺もお前さんも、人間とは比べ物にならないくらい永い寿命をもらってる身だ。だからこそ、ちょっとだけ手元に残して、何百年でも見守りてぇって寸法よ』
俺の言葉に、月酔仙は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、やがて愉快そうに白い顎鬚を揺らした。
『ふぉっふぉっふぉっ。火龍殿の酒へのこだわりは、なんとも壮大かつ、業の深いものですなあ』
『笑い事じゃねえぞ。さっき飲ませた三年ものと、こっちの十年ものですら、全く口当たりが違うんだ。もう一回飲んでみろって』
俺が別の樽の酒を勧めると、月酔仙は真剣な顔つきでそれを味わい、再び感嘆の息を漏らした。
『……真なり。確かに、年を経た分だけ角が取れ、えも言われぬ深みが加わっておりますぞ』
『へへっ。こいつが何十年、何百年と続いてみろ。考えただけで涎が垂れるってもんさ』
俺は火口のような口元を緩め、まだ見ぬ未来の極上の一杯に思いを馳せた。
死の淵で願った、頑丈な身体。
まさかドラゴンの姿になるとは思わなかったが、この途方もない時間を持て余すことなく楽しめるのなら、それも悪くない。
薄暗い洞窟の中で、並べられた樽たちは静かに呼吸を続けている。
俺は傍らで微笑む親友と共に、この愛おしい酒たちが最高の熟成を迎えるその日を、いつまでも待ち続けるつもりだった。




