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第63話 火龍の酒道と、仙術による奇跡の農作

 荒涼たる東の原野に、皇帝の号令と莫大な富が投下され、一つの巨大な集落が産声を上げた。


 かつて生贄として絶望の淵に立たされていた数百の民たちは、今や『龍の民』という名誉ある身分を与えられ、俺の住まう火山の麓に特区『紅泉郷』を築き上げていた。


 赤い岩肌が剥き出しだった荒れ地は、切り拓かれ、耕され、水路が引かれていく。


 彼らの瞳にはもう死の恐怖はなく、代わりに神話の存在に直接仕えるという狂信的なまでの使命感が宿っていた。


 俺自身は山頂の火口近くから、その様子をのんびりと見下ろす日々である。


 たまに山を下りて様子を見に行くと、村人たちは涙を流して平伏し、俺の巨大な鱗に触れては神の奇跡だと歓喜に打ち震えた。


 最初はそんな熱量に戸惑いもしたが、彼らが俺のために懸命に働いている姿を見るのは、案外悪い気はしなかった。


 だが、俺の真の目的は、そんな威厳を示すことではない。


 美味い酒を飲むことだ。


 村が少し落ち着いた頃、俺はさっそく村人たちに酒造りを命じた。


 皇帝が置いていった大量の物資の中には、醸造の技術を持つ職人も混ざっていたらしく、彼らはすぐに取り掛かってくれた。


 数ヶ月後、俺の元に樽ごと運ばれてきたのは、粟や稗を発酵させた濁酒だった。


 巨大な樽に口をつけ、一息に飲み干す。


「……む」


 悪くはない。


 生肉や木の実ばかりを食っていたこれまでの日々を思えば、アルコールのツンとした匂いと喉が焼けるような感覚は、確実に俺の前世の記憶を刺激した。


 だが、何かが足りない。


 雑味が多く、舌触りがひどくザラザラしている。


 俺が求めているのは、もっとこう、喉越しが良くて、米の甘みがスッと消えていくような、洗練された一杯なのだ。


『どうやら、お気に召さなかったようですな』


 不満げに鼻息を漏らした俺の横で、ふわりと宙に浮いた月酔仙が、白い顎鬚を撫でながら念話を飛ばしてきた。


 彼は皇帝の全権大使兼スーパーバイザーとして、都と紅泉郷を空飛ぶ雲に乗って行き来しながら、村の発展を指揮している。


『いや、不味いわけじゃないんだ。ただ、俺の記憶にある最高の酒には、まだまだ遠く及ばねえ』


『ほう。偉大なる火龍殿の記憶にある、最高の酒ですか』


 月酔仙の細い目が、知的好奇心にキラリと光った。


『ええ、どんなものかぜひお教え願いたい。私も長年、宮廷の贅を尽くした酒を味わってきましたが、さらなる高みがあるというのなら、これほど胸躍ることはありませぬ』


『俺が飲みたいのは、もっと澄んでいて、キレのある味なんだよ。米の芯だけを使って、雑味を極限まで削ぎ落とした、透き通るような酒だ』


 俺は前世の記憶を辿りながら、日本酒――清酒の概念を、念話で懸命に伝えた。


『なるほど……澄んだ酒、ですか。現在の都の技術でも、布で濾す程度のことはしておりますが、どうしても白濁した澱は残ってしまいますな』


『そこをなんとかするのが、俺たちの使命だろうが。最高の酒を造るって約束で、お前さん、この村の監督を引き受けたんだろ?』


『ふぉっふぉっふぉっ、左様でしたな。では、まずはその『米』とやらを極上のものに育て上げることから始めねばなりませんな』


 月酔仙の言葉通り、美味い酒を造るには、何よりもまず美味い米が必要だった。


 だが、この東原の地は、もともと荒涼とした火山帯である。


 皇帝の資金援助で水路は引かれたものの、土壌は決して肥沃とは言えず、気候も稲作に適しているとは言い難かった。


 俺がその点を危惧していると、月酔仙は涼しい顔で袖を翻した。



◆◆◆



 翌朝、俺は山を下りて、新たに開墾された田畑の前に立っていた。


 村人たちが不安そうに見守る中、月酔仙は畦道の真ん中に立ち、静かに印を結んだ。


「天の理、地の脈、我が気に呼応し、万物を潤せ」


 彼の口から紡がれる祝詞と共に、周囲の大気がビリビリと震え始めた。


 それは魔法とは違う、自然の摂理そのものを操作するような、静かで圧倒的な力の奔流だった。


 月酔仙の足元から、淡い翠色の光が波紋のように田畑全体へと広がっていく。


 枯れかけていた土は瞬く間に黒々と肥え、引かれた水は清らかな輝きを放ち始めた。


 さらに、彼が空に向かって杖を振り上げると、火山特有の乾燥した風が止み、心地よい湿気を帯びた涼風が吹き抜けた。


 季節の巡りすらも、一時的に歪められたのだ。


『こいつは……すげえな』


 俺は思わず、巨大な目を丸くして感嘆の念を漏らした。


 前世で見てきたどんな最新農業技術よりも、遥かに理不尽で完璧な土壌改良だ。


『お褒めいただき光栄です、火龍殿。この東原は、火龍殿が誕生された影響で、尋常ならざる龍脈の力が渦巻いております。私はただ、その力を少しだけお借りして、地に馴染ませたに過ぎませぬ』


 涼しい顔で汗一つかいていない月酔仙に、村人たちは俺に対するのと同じように、涙を流して平伏した。


「仙人様の奇跡だ……!」


「これで、火龍様への極上の米が育つぞ!」


 村人たちの熱狂的な声が、開墾地に響き渡る。


 こうして、月酔仙の仙術による奇跡の農作と、龍の民たちの血の滲むような努力によって、数ヶ月後には黄金色に輝く極上の米が豊作を迎えた。


 一粒一粒が真珠のように輝き、噛めば口いっぱいに豊かな甘みが広がる。


 そのまま食っても飛び上がるほど美味い米を前に、俺の酒への欲望はさらに燃え上がった。



◆◆◆



 米が揃えば、いよいよ本格的な酒造りの開始である。


 俺は前世の朧げな知識を総動員し、念話を使って村人たちに酒造りの工程を事細かに指示した。


 米の表面の雑味を削り落とす精米の重要性。


 米を蒸す時の水分量。


 そして何より、酒の命とも言える麹菌の育成と、発酵時の温度管理だ。


 しかし、ここで大きな問題に直面した。


 だが、俺のこの数百万トンのドラゴンの身体じゃあ、繊細な温度の変化や米の蒸し加減を指先で確かめるなんてミリ単位の作業は物理的に不可能だ。


 俺が少しでも力を込めて米を握れば、米粒は瞬時に粉砕されて小麦粉以下の粉末になってしまう。


 樽に顔を近づけて発酵の匂いを嗅ごうとすれば、鼻息の熱で麹菌が全滅しかねない。


『くそっ……こんな時、人間の手先があれば……!』


 もどかしさに巨大な爪で岩盤を引っ掻きながら、俺は深い焦燥感に駆られていた。


 指示は出せても、最終的な調整は村人たちの感覚に頼るしかない。


 だが、彼らは熱意こそあるものの、俺の求める清酒の正解の味を知らないのだ。


 そんな俺の苦悩を察してか、またしても月酔仙が頼もしい助け舟を出してくれた。


『火龍殿の仰る酒造りの理、非常に興味深いですな。目に見えぬ菌とやらを育て、米の糖分を酒へと変える。これはまさに、医術における薬の調合や、毒を薬に変える仙術の理に通ずるものがあります』


 月酔仙は酒造りの工程を、仙術や医術の観点から論理的に理解しようと試みてくれた。


『特に温度管理というものが肝要なのでしょう? ならば、私の結界術の出番ですな』


 彼は酒蔵として用意された巨大な岩穴全体に、一定の温度と湿度を保つための強固な仙術結界を張ってくれた。


 外がどれほど冷え込もうと、火山の熱気が押し寄せようと、結界の中は常に麹が育つための最適な春の陽気を保ち続ける。


『ありがてえ。これで最大の壁は越えられたぜ』


『何、私も火龍殿の仰る極上の酒とやらを、一刻も早く味わってみたいだけですよ』


 月酔仙の知的好奇心と仙術のサポートを受け、酒造りは徐々に軌道に乗り始めた。


 しかし、それでも完成した酒は、まだ白く濁っていた。


『違う、もっと澄んでなきゃダメなんだ』


 俺は巨大な舌で濁酒を舐め取りながら、首を横に振った。


 布で濾すだけでは、どうしても微細な澱が残ってしまう。


 前世で飲んだあの透き通るような清酒のキレを出すためには、さらなる濾過が必要だった。


「火龍様、申し訳ございません! 我らの技術が未熟なばかりに……!」


 酒造りの責任者となった村の長が、地面に額を擦り付けて涙を流して謝罪する。


『いや、お前らが悪いわけじゃない。ただ、もうひと工夫必要なんだ。そうだ、灰や炭を使ってみてはどうだ?』


 俺は前世の知識の奥底から、酒の濁りを取るための手法を捻り出した。


『細かい灰や木炭の粉を酒に混ぜて、澱を吸着させるんだ。静かに時間を置いて沈殿させれば、上澄みだけを綺麗にすくえるはずだ』


「灰と炭を、酒に混ぜる……?」


 村人たちは一瞬戸惑った顔を見せたが、すぐにその表情を狂気じみた職人のそれに変えた。


「分かりました! すぐに火山の麓で極上の木炭を焼き、試してみます!」


 生贄から救われた彼らの、俺に対する忠誠心と恩義の念は、今や異常なほどの職人魂へと変貌していた。


 彼らにとって、俺の言葉は神の啓示であり、俺が満足する酒を造ることは、自らの命の価値を証明することと同義になっていたのだ。


『おいおい、そんなに血走った目で徹夜しなくても……』


「いいえ! 火龍様が透き通る酒をお望みなら、我らは寝食を忘れてその期待に応えてみせます! 世界一の酒を造り上げるのです!」


 俺が引くくらいの熱意を見せつける村人たちは、交代で不眠不休の作業に没頭した。


 月酔仙もまた、彼らの情熱に当てられたのか、徹夜で結界の微調整を行い、灰の沈殿を早めるための術式まで編み出し始めた。



◆◆◆



 それからさらに数ヶ月の試行錯誤が続いた。


 失敗した酸っぱい酒を大量に廃棄し、温度を変え、米の削り具合を変え、濾過の灰の種類を変え。


 そしてついに、その日は訪れた。


 紅泉郷の中央広場に、村人全員が集められていた。


 静まり返る広場の中央には、美しく磨き上げられた巨大な木樽が一つ、鎮座している。


 俺は火口から飛翔し、広場の端に音を立てて着陸した。


 ドズン、という地響きと共に、村人たちが一斉に平伏する。


「火龍殿。我らの情熱と、この郷の民たちの魂の結晶……とくとご賞味あれ」


 月酔仙が静かに進み出て、樽の蓋を覆っていた布を取り払った。


 その瞬間、風に乗って漂ってきたのは、これまでの濁酒とは全く違う匂いだった。


 果実を思わせるような華やかな香りと、米の芯が持つ深く澄んだ甘い匂い。


 俺はゆっくりと巨大な頭を下げ、樽の中を覗き込んだ。


 そこにあったのは、泥水のような濁りなど一切ない、底まで透き通って見えるほどの透明な液体だった。


 月明かりを反射して、かすかに黄金色を帯びた清冽な水面が揺れている。


『……こいつは』


 俺は震える感情を抑えながら、長い舌を伸ばして、その透き通った液体を慎重に掬い取った。


 口に含んだ瞬間、驚きで目を見開く。


 滑らかな口当たり。


 雑味の一切ない、研ぎ澄まされた米の旨味。


 そして、喉を通り抜けた後に鼻腔へ抜ける、気高い香り。


 前世で飲んだどんな高級な日本酒にも引けを取らない、いや、この世界の龍脈の力と仙術が織りなした、奇跡の清酒がそこにあった。


『……美味い。最高だ』


 俺が静かに、しかし深い感嘆を込めて念話を放つと。


「う、おおおおおおっ……!!」


「火龍様が、お認めになられたぞ!!」


 広場を埋め尽くしていた村人たちが、一斉に歓喜の涙を流して抱き合い、絶叫した。


「我らの酒が、神の御心に叶ったのだ!」


「これもすべて、火龍様の加護のおかげだ!」


 ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、地に伏して俺を拝む村人たち。


 その光景を見て、俺は巨大な鼻からフンと熱い息を漏らした。


『加護のおかげじゃねえ。お前らが寝食を忘れて、必死に汗水流して造り上げたからこその味だ。……誇っていいぞ、お前らは世界一の酒造りの職人だ』


 俺の言葉に、村人たちの泣き声はさらに大きくなった。


 その夜、紅泉郷では盛大な宴が開かれた。


 広場のあちこちで篝火が焚かれ、村人たちは完成したばかりの極上の清酒を酌み交わし、歌い、踊った。


 俺は広場の端で腹這いになり、彼らが次々と運んでくる酒樽を美味そうに飲み干していく。


『火龍殿の仰る通りでしたな。ただの生贄だった彼らが、これほどの異常な執念と技術を開花させるとは』


 月酔仙が、小さな瓢箪の酒器を傾けながら、俺の横に座って笑いかけてきた。


『お前さんの仙術のおかげでもあるさ。見ろよ、すっかり極上の酒造りの村になっちまった』


『ええ。もはや、都の貴族どもが飲む酒など、泥水のように感じられることでしょうな。……この紅泉郷は、いずれ光華王朝の誇る、伝説の特区となるやもしれませぬ』


 月酔仙もまた、完全にこの酒の虜になっていた。


 頬を赤く染め、上機嫌で月を見上げる親友の姿を見て、俺は腹の底から湧き上がる満足感に包まれた。


 だが、俺の酒への情熱は、これで終わりではない。


 清らかな米の酒ができたのなら、次は麦の酒、そして何十年、何百年と寝かせて琥珀色に輝く蒸留酒……。


 俺たちの果てしない酒道は、まだ始まったばかりだった。


 長すぎる寿命を持て余していた俺にとって、この紅泉郷でのスローライフは、退屈など入り込む隙のないほど、極上に輝き始めていたのである。

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