第39話 五頭竜の脅威と、絶対の支点
江の島ダンジョンの最深部。
結羽が両手で力いっぱいに押し開けた重厚な石の扉の向こうには、これまでの狭く険しい海蝕洞窟とは全く異なる、広大で幻想的な空間が広がっていた。
ドーム状になった高い天井からは、青白い光を放つ発光苔がびっしりと群生しており、まるで満天の星空のように空間全体を薄明るく照らし出している。
そして、部屋の面積の八割以上を占めているのは、どこまでも深く澄み切った巨大な地下湖だった。
結羽が立つ入り口付近のみが、辛うじて足首まで浸かる程度の浅瀬の岩場になっている。
だが、その美しい光景とは裏腹に、空間に充満している空気は最悪だった。
潮の香りなど一切しない。
鼻腔を突くのは、内臓が焼け焦げるような強い酸の匂いと、爬虫類特有のひどく生臭い体臭。空気を吸い込むだけで、肺の奥がチリチリと痛むような感覚がある。
『お姉ちゃん、気をつけて! 湖の底から、とてつもない質量の魔力反応が急浮上してくる! ……くるよッ!』
インカムから飛んできたふゆの警告と同時だった。
鏡のように静かだった地下湖の水面が、中央から不自然に、大きく盛り上がり始めた。
ゴボォォォォォッ……!
大量の気泡が湧き上がり、何十トンという水が四方八方へと弾け飛ぶ。
激しい水飛沫のカーテンを引き裂いて現れたのは、ぬめりを帯びた深緑色の鱗に覆われた、大型トラック数台分はあろうかという巨大な胴体だった。
そして、その太い胴体の先から、扇状に分岐するように伸びる『五つの長大な首』。
それぞれが独立した意志を持つ大蛇のようにうねり、鎌首をもたげ、黄色く濁った十の瞳が、一斉に浅瀬に立つ結羽を射抜いた。
伝説級亜種魔獣――『五頭竜』。
赤城山のヒュドラに連なる、水と猛毒を操る多頭の化け物が、ついにその全貌を現した。
「シャァァァァァァッ!!!」
五つの首が一斉に威嚇の咆哮を上げる。鼓膜を突き破らんばかりのけたたましい叫び声が洞窟内に反響し、水面がビリビリと波打った。
(……デカい。すっぽんの時とは、全然違う威圧感……!)
結羽は背中に背負っていた『鎖分銅付きの乳切木』を抜き放ち、仙気を練り上げて重心を低く落とす。
『お姉ちゃん、敵の攻撃パターンを解析する! 一番右と一番左の頭から、強力な水流攻撃が来るよ!』
ふゆの声がインカムに響いた直後、五頭竜の左右の首が大きく口を開けた。
ズドォォォォッ!!
高圧洗浄機など比較にならない、凄まじい水圧のブレスが二方向から交差するように放たれた。
直撃すれば、人体など容易く真っ二つにへし折られるほどの破壊力だ。
(『面』で滑るッ!)
結羽は咄嗟に足裏全体に仙気を広げ、『面』の歩法で海水の張った岩場をスケートのように滑走した。
さいたまの泥沼で体得した歩法は、この浅瀬においても完璧に機能する。
水流ブレスが結羽の残像を切り裂き、後方の石の扉を直撃して深いクレーターを穿った。
「すごい威力……かすっただけで骨が折れそう!」
『休んでる暇はないよ! 真ん中の三つの頭が来る! 噛みつきの連撃!』
水流ブレスを躱した結羽に息をつく暇も与えず、今度は中央の三つの首が、大木のような太さで次々と襲いかかってきた。
右から、左から、そして上から。
三つの首が、互いの死角をカバーし合うような完璧な連携で結羽を追い詰めていく。
「くっ……!」
結羽は乳切木を両手で構え、振り下ろされる牙を棍の部分で弾き、薙ぎ払いを跳躍して躱す。
だが、完全に防戦一方だった。
打撃でダメージを与えようと一歩踏み込んでも、一つの首を狙えば、必ず別の首が背後や死角から反撃を繰り出してきた。
五つの視点と五つの脳を持つこの魔獣に、単独での死角は存在しない。
さらに悪いことに、五頭竜の呼気からは、目に見えない微細な毒霧が散布されていた。
『お姉ちゃん、空間の毒素濃度が急上昇してる! おやっさんの仙術で基礎耐性はついてるはずだけど、長引けば確実に肺をやられるよ!』
ふゆの焦ったような声が響く。
結羽自身も、呼吸をするたびに肺に鉛が溜まっていくような重さを感じ始めていた。
(……焦っちゃダメ。さいたまでおやっさんに教わった理を思い出して)
結羽は激しい攻防の中で、冷静に相手の動きを観察した。
五つの首はそれぞれ独立して動いているが、その根元は一つの巨大な胴体に繋がっている。
『……多頭の相手を封じるには、点や直線ではなく「円」の遠心力で絡め取るのが一番理にかなってやがる。首が一つでも地面に縫い留められりゃ、残りの首の可動域も自ずと制限されて、連携が崩れるって寸法よ』
出発前のドレイクの言葉が、結羽の脳裏に蘇る。
(……一つをピン留めすれば、残りの首も引っ張られて、自由に動けなくなるはず!)
『ふゆ! 一番動きが直線的な首を教えて! 軌道を予測して!』
結羽はインカムに向かって叫びながら、敢えて五頭竜の攻撃範囲の内側、激しい水飛沫の上がる地下湖の縁へと深く踏み込んだ。
『えっ……わかった! 一番動きが単調なのは、右から二番目の頭! 三秒後に、下段からすくい上げるような噛みつきが来る! 首の付け根から三メートル上の関節部分に、魔力の薄い隙があるよ!』
『ありがとう、ふゆ!』
結羽は、右二番目の首が下段から迫り来る直前、浅瀬を滑っていた『面』の歩法から、一気に『点』のスイッチをオンにした。
足裏の親指、小指、踵の三点に仙気を集中させ、濡れた岩場の固い地盤をガッチリと『噛む』。
ギュンッ!!
滑走していた結羽の身体が、まるで強固な杭を打ち込んだかのように急停止した。
慣性の法則を無視したかのような急制動。
絶対的な支点を構築した結羽は、手にした乳切木の先端から伸びる鎖を、右手のスナップを効かせて勢いよく解放した。
「いっけぇぇぇッ!!」
ヒュンッ!
仙気を纏ったドレイク謹製の鎖が空気を切り裂き、分銅が右二番目の首の関節部分めがけて一直線に飛ぶ。
ガンッ! と重い分銅が鱗に命中した瞬間、結羽は手首を返し、鎖を円の軌道で操って太い首の周囲に幾重にも巻き付けた。
「シャァァッ!?」
突然首を拘束された右二番目の頭が、パニックを起こして暴れようとする。
だが、結羽はそこで鎖を力任せに引くような愚行は犯さなかった。
彼女は首の引き戻す力に逆らわず、自らも『面』の歩法で後方へと滑り、一気に鎖をピンと張り詰めさせる。
そして、結羽の背後にそびえ立っていた、大人の胴回りほどもある強固な石筍(下から生えた鍾乳石)の根元に鎖を一周させ、乳切木の棍の部分を岩の隙間へと深く、力一杯に突き立てた。
テコの原理と仙気による、完全なる『絶対の支点』の完成である。
ギギギギギッ!!!
五頭竜が首を引き抜こうと暴れ、凄まじい張力で鎖が軋む。
だが、そもそもが大きな船舶を係留する鎖にドレイクが魔力回路を刻み込み、結羽の仙術で極限まで強化された鎖は決して千切れない。
右二番目の首は、結羽の構築した支点によって地面スレスレの高さに完全に縫い留められ、身動きが取れなくなった。
「シャァァァァァァッ!!!」
一つの首を拘束され、想定外の事態に陥った五頭竜。
その巨大な胴体が、拘束された首に引っ張られるようにして、不自然に右側へと大きく傾く。
胴体が傾いたことで、残りの四つの首もまた、物理的に可動域を大きく制限されることになった。
左端の首は結羽に届かず、中央の首同士は絡まり合いそうになり、先ほどまでの完璧な連携が完全に崩壊したのだ。
『すごい、お姉ちゃん! 敵のバランスが完全に崩れたよ! 魔力波形も乱れてる!』
インカムからふゆの歓喜の声が響く。
「よし……捕まえた」
結羽は岩に固定された乳切木から手を放し、大きく息を吐き出した。
そして、右腰のホルダーに手を伸ばし、ドレイクが打ち上げたばかりの真新しい『骨の牛刀』を両手で抜き放つ。
白く美しい双刃が、仙気を帯びて微かに赤熱し始めた。
打撃と捕縛から、斬撃と解体への完全なシフト。
「ここからは……わたしの時間だッ!」
毒霧と水飛沫が舞う空間の中、結羽の瞳は、もはや恐怖の対象としての魔獣を映してはいなかった。
そこにあるのは、解体を待つだけの、巨大で極上の『食材』の姿に他ならなかった。




