第37話 病室の薬膳スープと、天才オペレーターの通信
さいたまダンジョンでの過酷な遠征から帰還した結羽とドレイクは、その足で真っ直ぐに野田市内の佐修院家の本邸へと向かっていた。
最奥の個室。
分厚い防音扉の向こう側は、初夏だというのに、まるで冷凍庫の中にいるかのような底冷えする空気に満ちていた。
部屋の中央に置かれた医療用ベッドで、酸素マスクをつけた佐修院彩斗美が、浅く、苦しげな呼吸を繰り返している。
「……お嬢様。前山田様と、ドレイク様が到着されました」
ベッドの傍らに控えていた執事の黒田が、静かな声で告げた。
彩斗美がゆっくりと重い瞼を開ける。その美しい黒髪には、呪いの進行を示す不気味な『虎柄』の変色が、前回会った時よりもさらに色濃く広がっていた。
彼女の肉体を蝕んでいるのは、群馬県・赤城山ダンジョンの最深部に潜む神話級の魔獣『ヒュドラ』から受けた、猛毒と過剰適応のエラーだ。
現代の医療技術も、最高峰の回復魔法も、この呪いめいた症状の前にはただの延命措置にしかならない。
「……結羽、さん……ドレイク、殿……」
酸素マスク越しに漏れる声は、ひどく掠れていた。
「申し訳、ありません……こんな無様な姿を……」
「謝る必要はねえよ、スポンサー様」
ドレイクはベッドの脇にドカッと腰を下ろすと、ジャージの首に巻いたタオルでゴシゴシと汗を拭った。
彼の巨体からは、ダンジョンでの激闘の熱気と、うっすらと漂う香ばしい出汁の匂いが発散されている。
「約束通り、極上の特効薬を調達してきたぜ。こいつを飲めば、少しはマシに息ができるようになるはずだ」
そう言ってドレイクがサイドテーブルの上にドンッと置いたのは、布で何重にも包まれた黒い『土鍋』だった。
埼玉の老舗料亭の女将から譲り受けた、何十年もコークスの業火で鍛え上げられた年代物の道具。
ドレイクが布を解き、分厚い土鍋の蓋をパカッと開けた瞬間――。
「……あ……」
彩斗美の目が、驚きに見開かれた。
部屋に充満していた凍てつくような呪いの冷気が、土鍋から立ち上る凄まじい熱気と香りに、一瞬にして駆逐されたからだ。
醤油と生姜、そして何より、野生の暴力を煮詰めたような極上のすっぽんの出汁の香り。
鍋の中で琥珀色に輝いているのは、さいたまダンジョンの主『ジャイアントマッドスナッパー』の分厚いゼラチン質の肉と、数十種類の特級生薬を、浄化の仙術と高火力で完全に一体化させて炊き上げた『至高の薬膳スープ』であった。
「黒田、少し手伝ってやれ。かなり熱いぞ」
「は、はいっ!」
黒田が震える手でスープを小鉢に取り分け、彩斗美の酸素マスクをそっと外す。
彩斗美は上体を少し起こし、レンゲで掬われた黄金色のスープを、おそるおそる唇に含んだ。
「……ッ!!」
その瞬間、彩斗美の全身が大きくビクンッと跳ねた。
不味かったからではない。
熱かったからでもない。
それは、数年間も彼女の細胞の奥底で凍りついていた生命力が、強烈な活力を得て無理やり叩き起こされた反動だった。
ヒュドラと同じ爬虫類系統の頂点に立つ巨大魔獣の血肉。
それが、ドレイクの『浄化の仙術』によって一切の毒素を抜かれ、純粋な「生命のエネルギー」となって彼女の枯渇した魔力回路へと爆発的に流れ込んでいく。
「こ、これは……」
彩斗美の顔に、見る見るうちに血の気が戻っていく。
青白かった唇が桜色に染まり、浅かった呼吸が、深く、力強いものへと変わっていく。
「結羽、お前さんが説明してやれ」
ドレイクに促され、結羽はベッドの脇に立ち、真っ直ぐな瞳で彩斗美を見つめた。
「彩斗美先輩。それは、さいたまダンジョンの中層で仕留めた、巨大なすっぽんの魔獣のスープです」
「すっぽん、の……魔獣……?」
「はい。おやっさんに鍛えてもらった浄化の仙術と、いくつもの生薬で一切の臭みや身体に悪い魔素は消してあります。そのお肉を、さいたまのすっぽん料理屋さんから譲ってもらった最高のお鍋に清浄な水を張って、高火力で炊きました。先輩の呪いは、ヒュドラの毒と、その支配領域下での過剰適応……だったら、同じ爬虫類系統の魔獣の肉を食べて、身体の基礎耐性を上書きしてしまえばいいんです」
結羽の言葉を聞きながら、彩斗美は自分の身体に起きている信じられない変化に戦慄していた。
痛みが消えていく。
凍りついていた肺が、自らの力で温かい酸素を取り込んでいる。
何より彼女を驚かせたのは、目の前に立つ前山田結羽という少女の「変化」だった。
(……この子、たった数日で、どれほど死線を潜り抜けてきたの……?)
以前会った時のような、どこか不安そうな顔をした少女のものではない。
全身から放たれる、魔獣の血と泥に塗れ、自らの手で巨大な生命を絶ってきた戦士特有の静かな覇気。
彼女がどれほど過酷な環境でこのすっぽんを仕留めてきたのか、元トップ探索者である彩斗美には痛いほどに伝わってきた。
「結羽さん……貴女、怪我は……」
「大丈夫です! 泥だらけにはなりましたけど、おやっさんが最高の歩法を教えてくれましたから」
結羽が照れくさそうに笑うと、ドレイクが横から「おいおい、早く次を食わせねえと冷めるぞ」と急かした。
「あ、はいっ! お嬢様、もう一口どうぞ!」
黒田が涙声になりながら、再びレンゲを彩斗美の口元へ運ぶ。
二口、三口とスープを飲み込むたびに、彩斗美の身体からは目に見えて冷気が消え去り、力強い脈動が戻っていった。
まだ完全な呪いの解呪には至らない。だが、少なくともベッドの上で死を待つだけの状態からは、完全に脱却したのだ。
「……ドレイク殿。結羽さん。……そして、黒田」
彩斗美は、自らの手でしっかりと小鉢を受け取り、残りのスープを飲み干した。
「……ありがとう。私、まだ戦えるわ」
その瞳には、絶望ではなく、かつてのSSランク探索者としての強烈な闘魂の炎が、静かに、しかし確実に灯っていた。
◆◆◆
その日の夜。
野田市内のマンションのリビングで、結羽は風呂上がりの髪をタオルで拭きながら、タブレットのスタンドをテーブルに立てていた。
『お姉ちゃん! おやっさん! やっほー!』
あちらもタブレットで通信しているのだろう、少し横長の画面の中から、元気いっぱいに手を振るふゆの姿が映し出される。
彼女がいるのは、『覚醒者特別育成学園』の全寮制施設の自室だ。
真っ白な壁に、真新しい家具。
ふゆ自身も、学園の指定であるシックなブレザーの制服を身に纏い、以前よりも少し大人びて見えた。
「ふゆ! 元気にしてる? ご飯ちゃんと食べてる?」
『うんっ! 学園のご飯も美味しいけど、やっぱりおやっさんのちゃんこ鍋が一番食べたいなぁ』
画面越しの妹の健康的な笑顔に、結羽は心底ホッとしたように目を細める。
ソファでビールを煽っていたドレイクも、満足げに鼻を鳴らした。
「カッカッカ! いい面構えになったじゃねえかちび助。学園の授業はどうだ? 退屈してねえか?」
『うーん、座学は簡単すぎるから、先生に言ってほとんどスキップさせてもらってるの。実技の時間は、黄龍さんがいろいろ教えてくれるからすっごく楽しいよ!』
ふゆが制服のポケットから取り出したのは、淡く光る宝珠が映ったスマートフォンだった。
本来はドレイクのインテリジェンス・アーティファクトである黄龍だが「ふゆを見守り、また学園・協会・ギルドのネットワークやデータベースに直接潜り込むため」という名目で自身の分体を作り出し、ふゆのスマートフォンを介して彼女の生活に寄り添っていた。
『こちらの私とは少しお久しぶりですね、師父。結羽殿』
スマートフォンのスピーカーから、黄龍のジェントルな合成音声が響く。
「おう。そっちのハッキングの進み具合はどうだ、黄龍」
『完璧です。ふゆ殿の天才的な演算能力と私の干渉スキルをリンクさせることで、学園内のセキュリティはおろか、探索者協会の特級データベースまで、もはや私たちの庭も同然です。現在、彩斗美様の呪いを完全に解くための「次の標的」の選定を行っておりました』
黄龍の言葉に、結羽の表情が引き締まった。
さいたまダンジョンの巨大すっぽんは、あくまで基礎耐性をつけるための第一段階。
ヒュドラに対抗するためには、さらに強大な「多頭」の爬虫類を喰らう必要がある。
『ふゆ殿、画面の共有をお願いします』
『わかった! えーと、これだね』
タブレットの画面が切り替わり、複雑な魔力波形のグラフと、日本地図が映し出された。
赤いピンが立てられているのは、神奈川県――湘南海岸に位置する『江の島ダンジョン』だった。
『協会の上層部だけが共有している極秘データの中に、ここ数日以内に、江の島の海蝕洞窟の最深部に、特定の伝説級魔獣の亜種がリポップするという予測データを発見しました』
黄龍の冷静な声が、ターゲットの名を告げる。
『標的は、水棲の多頭蛇――『五頭竜』。ヒュドラと同じ多頭の構造を持ちながら、猛毒と水流を操る極めて危険な魔獣です。現在、トップギルドのいくつかが討伐権を巡って水面下で争っていますが……』
「カッカッカ! 上等だ!」
ドレイクがビール缶をドンッとテーブルに置き、獰猛な牙を剥き出しにして笑った。
「複数の頭の処理を学ぶには、最高の練習台じゃねえか。それに、海の魔獣なら肉も悪くねえ。いいか結羽、明日の夕飯は浜焼きだ。最高の多頭蛇を捌きに行くぞ」
「はいッ! ……えっと、おやっさん、その、多頭蛇って、どうやって捌けばいいんですか……?」
結羽が首を傾げると、画面越しのふゆが、ふふっと得意げに笑った。
『大丈夫だよ、お姉ちゃん! 私がこっちから、黄龍さんの魔力視を使って完璧にナビゲートするから! 首の落とす順番も、一番美味しい毒腺の避け方も、全部計算済みだよ! そっちの黄龍さん! 明日はカメラ役お願いね!』
『しかと承りましたとも。そちらの私、明日のふゆ殿のスケジュールは問題ありませんね?』
『ふゆ殿は初等部における全ての座学は習得済みですよ、そちらの私。念のため邪魔が入らぬよう教務課に「一日仙術の瞑想」と提出しておきます』
『ふふふっ遠隔だけどダンジョンデビューだね! 楽しみだー!』
画面越しに、ふゆがはしゃぐ気持ちが伝わってくる。
守られるだけだった妹はもういない。
現代のネットワークと異世界の知識を統べる『天才オペレーター』が、結羽の背中を力強く押していた。
「……ありがとう、ふゆ。頼りにしてる!」
結羽は力強く頷き、愛用のタングステンナイフと、ドレイクから与えられた『骨の牛刀』を見つめた。
次なる決戦の地は、神奈川県は江の島。
前山田姉妹は静かに闘志を燃やした。




