第035話 特級試験
ふゆの退院が済み、彼女の安全を完全に確保した数日後。
関東ダンジョン協会本部の、広大な地下コロシアム。
ここは通常、高ランク探索者同士の模擬戦や、凶悪な捕獲魔獣の処刑ショーなどに使われる、何重もの魔法障壁で完全に隔離された闘技場だ。
すり鉢状になった観客席には、噂を聞きつけた多くの探索者や協会の上層部関係者が詰めかけ、異様な熱気に包まれていた。
「おい、あそこに立ってるの、元『青銀の翼』の荷物持ちのハズレ枠じゃねえか?」
「ああ。レベル1の小間使いが、特級昇格の実技試験に挑むだと? 協会もどうかしてるぜ」
「死ななきゃいいがな……。相手はあの『暴君』だぞ。推薦した佐修院家も何を考えているんだか……」
周囲からの嘲笑と疑問の声が渦巻く中、結羽はコロシアムの中央に一人、静かに立っていた。
彼女の手には、ドレイクから与えられた新しい相棒である『牛角の闘魂棒』がしっかりと握られている。
「……貴様が、佐修院家の推薦と強引なコネを受けたという、生意気な小娘か。この神聖な特級試験を、遊び半分で汚すつもりなら、相応の覚悟をしてもらうぞ……」
結羽の数十メートル前に立ち塞がったのは、全身を分厚い漆黒のフルプレートアーマーで覆い、身の丈ほどもある無骨な大剣を担いだ巨漢――特級審査官の轟だった。
かつて彩斗美と、ギルドの覇権を争っていた派閥に属する、実力主義の権化のような男だ。
彼から放たれるのは、Aランク上位という数字の暴力を体現したような、圧倒的なステータスの威圧感。
並の探索者であれば、その殺気に当てられただけで膝から崩れ落ちてしまうだろう。
だが、結羽の心は、鏡のように澄み切った水面のように、驚くほど静かだった。
(……甲冑が重すぎる。大剣の重さに振られないように、右足に極端に体重が乗っている。初撃は、間違いなくあの大剣の重さを利用した、大振りな振り下ろし)
彼女の目に映っているのは、轟のレベルやステータスの数値ではない。
足元の重心の偏り、筋肉の緊張、呼吸の浅さという、純粋な『物理の理』だけだった。
仙気による体内循環が、結羽の五感を極限まで研ぎ澄ませ、相手の次の動作をスローモーションのように予測させていた。
「万年レベル1のゴミが、特級の領域を舐めるなァァァッ!!」
轟が吠え、自らの固有スキルである『重力剣』を発動させる。
彼の大剣に凄まじい質量の魔力が纏い、周囲の空間がミシミシと悲鳴を上げる。
それは、ただの鉄の塊を、数トンの超質量を持つ破壊兵器へと変貌させる恐ろしいスキルだ。
そして、轟は戦車のような恐ろしい勢いで、一直線に結羽めがけて突進を開始した。
ズシンッ! ズシンッ! と、一歩踏み出すごとに闘技場の床がひび割れる。
空間そのものを押し潰すような超質量の大剣が、結羽の脳天めがけて真っ向から振り下ろされた。
避けることすら許さない、重力場を伴った必殺の一撃。
だが、結羽は一歩も引かなかった。
逆に、彼女は重心を極限まで低く落とし、自らその死の軌道の内側へと、水が流れるように滑り込んだ。
「なっ……!?」
結羽は、両手で持った牛角の闘魂棒を、斜め上段へと柔らかく構えた。
真っ向から腕力で受け止めるのではない。
仙気を纏わせた棍の表面で、相手の重力のベクトルを『滑らせ』、軌道を流すのだ。
ガキィィィンッ!!
轟の絶大な重力の大剣は、結羽の闘魂棒の腹をズルリと滑るようにして軌道を逸らされ、空しく床の石畳へと激突した。
ドガァァァン! という鼓膜を破る轟音と共に、重力で圧縮された衝撃波が爆発し、闘技場の床に巨大なクレーターが穿たれる。
自らの放った絶大な質量に引っ張られ、轟の巨体が完全に前のめりへと崩れ、完全に無防備な背中を晒した。
(……ここッ!!)
刹那。
結羽は逸らした大剣の遠心力を、そのまま自身の身体の回転エネルギーへと変換し、轟の伸びきった右腕の下へと素早く潜り込み、背中を預けるようにして密着した。
右腕を闘魂棒と自らの腕で深く絡め取り、関節の可動域を完全にロックしてがっちりとクラッチを組む。
そして、轟の巨体の『重心の真下』へ、自らの腰を深く落とし込んだ。
「はぁぁぁぁッ!!」
結羽は丹田から練り上げた仙気の熱を一気に両足と腰へと流し込み、大地を蹴り上げた。
大剣の異常な重力と、轟自身の突進の勢い、そのすべてのベクトルを、結羽の腰という『テコの原理』のたった一点の支点へと集中させたのだ。
力みは一切ない。
極限まで研ぎ澄ませた、ドレイク直伝の完璧な『一本背負い』の理。
「うぉッ!?」
数百キロはあろう重装甲に身を包んだ巨漢が、自らが作り出した重力の勢いもろとも、空中で完全に天地をひっくり返された。
そして、彼自身の大剣が穿ったクレーターの底へと、無防備な背中から凄まじい勢いで叩きつけられた。
ズドォォォォォンッ!!!
コロシアム全体が、まるで地震が起きたかのように激しく揺れる。
全身の空気を強制的に吐き出させられ、内臓と脳を激しく揺さぶられた轟は、大剣を手放し、白目を剥いて完全に意識を刈り取られた。
魔法の詠唱も、派手なエフェクトを伴うスキル名も一切ない。
ただ純粋な『理』による、上位者に対する完全無欠の制圧劇。
「……そ、そこまでッ!! 勝者、前山田結羽!!」
審判の震える宣言が、闘技場に響き渡る。
数秒の完全な静寂の後、観客席から割れんばかりの歓声と、信じられないものを見たという驚愕のどよめきが、コロシアムを完全に支配した。
結羽は、その熱狂を背に受けながら、観客席の最上段――周囲の誰にも気づかれず、隠形を解いて腕を組んで立っていたドレイクの方を向き、誇らしげに闘魂棒を突き上げた。
ドレイクはそれに応えるように、満足げにカッカッカと笑い、親指を立てた。




