第35話 点と面のスイッチと、泥蟹の装甲
埼玉県東部。
かつて広大な農地や、見沼と呼ばれた豊かな沼沢地だった場所に口を開けた『さいたまダンジョン』。
その内部は、結羽がこれまで拠点としていた野田ダンジョンのような、冷たく乾いた石畳の迷宮とは全く異なる、強烈な不快感に満ちた異質な空間だった。
「うわぁ……すごい湿気と、匂い……」
結羽はゲートをくぐった瞬間に押し寄せてきた空気に、思わず顔をしかめて口元を覆った。
生温かく重い空気に、長年発酵した腐葉土と、ヘドロのような泥の臭いがむせ返るように立ち込めている。
視界の先には、どこまでも続く巨大な洞穴の空間。
ドーム状に広がる土の天井からは、ダンジョンの魔力に侵食されて異様に肥大化した不気味な木の根が無数に垂れ下がっていた。
その根の先端からは、常に「ぴちょり、ぴちょり」と冷たい水滴が滴り落ち、結羽の肩や頬を容赦なく濡らしていく。
何より厄介なのは、その高低差の激しい地形だ。
道らしきものはなく、足元が見えないほどの濁った泥水と、ズブズブと底なしに沈み込む黒い泥沼で完全に覆い尽くされている。一歩足を踏み出すだけでも、泥が長靴に吸い付き、体力をゴリゴリと削っていく。
「……カッカッカ! 見事な泥っぷりじゃねえか。お前さんの足回りを鍛えるにゃあ最高の環境だぜ」
結羽が足を取られてフラフラしている横で、ドレイクはジャージの裾を膝までまくり上げ、長靴で泥をバシャバシャと踏み鳴らしながら楽しそうに笑っていた。
彼の巨体を支える足腰は、この最悪の沼地にあっても全くブレていない。
彼のポケットからは、黄龍の宝珠がチカチカと明滅しながら念話を飛ばしてくる。
『過去の地形データと現在の魔力分布を照合しました。どうやらこの迷宮は、かつてこの地にあった見沼の記憶をベースに、ダンジョンシステムが水棲魔獣の生態系を構築したもののようです。……私の調査では、ここの主な魔獣は巨大泥蟹に巨大蛇、そして鰐型の魔獣ですね。師父』
「ほう。茹でに、蒲焼きに、唐揚げといったところか。悪かねえ調理法だな。そんで一番奥の深層にジャイアントマッドスナッパー、つまりでけぇすっぽんがいるってわけか」
『左様です。正確には中層と深層の境目、ボス部屋の主といったところでしょうか』
黄龍とドレイクの会話を聞いて、結羽はギョッとした。
「結羽、なかなか豊かな『食生』だ。まぁ楽しんでいこうや。安心しろ、一対一の状況は俺が作ってやる。しっかり奴らの特性を掴んでこい」
ドレイクが冗談めかして笑うが、結羽の表情は引きつっていた。
「はい、でも、おやっさん……ここでも同位同食……その、倒したモンスターを食べるんですよね? こんなどろどろの泥水に潜ってるんですよ?」
野田のウルフやミノタウロスはまだ陸上の獣だったからよかったが、このヘドロのような臭いのする泥に浸かった生き物を食べるというのは、女子高生としてごく真っ当な生理的嫌悪感があった。
「解体している最中から、結構臭いがすごいことになりそうですし……」
その言葉に、ドレイクは呆れたように鼻を鳴らした。
「バカヤロウ、俺が弟子っ子に不味いもん食わせたことがあったかよ」
「うう……おやっさんの料理の腕も、仙術の浄化のすごさもわかっていますけれど、想像するだけでちょっとお腹が……」
「まぁ見とけ。極上のカニ出汁を味わわせてやるからよ。泥の臭いなんて欠片も残さねえ。……ほれ、さっそく食材のお出ましだ」
ドレイクが顎でしゃくった先。
前方の広大な泥沼の中から、ブクブクと黒い泡を立てて這い出してきたのは、小型車ほどもある巨大なカニの魔獣――『マッドアーマークラブ』だった。
全身が岩のように硬く分厚い黒褐色の甲羅で覆われ、丸太のような巨大なハサミをガチャガチャと鳴らしながら、縄張りに侵入してきた獲物である結羽を威嚇している。ハサミの先からは、ドロリとした汚水が滴り落ちていた。
「まずは足回りの『泥の歩法』。それから硬い装甲の抜け方だ。行ってこい結羽!」
「はいッ!」
結羽は気合を入れ直し、古代樫の闘魂棒を腰溜めに構えて、泥の中へと力強く踏み出した。
だが、その一歩目は最悪の結果を招いた。
ズブッ!
「あわっ!?」
踏み込もうとした右足が、想像以上に深く黒い泥に取られ、全く前に進まない。
引き抜こうとすると、長靴が泥に強力な吸盤のように吸い付かれ、バランスが完全に崩れた。
その絶望的な隙を、泥蟹が見逃すはずがなかった。
巨大な右のハサミが泥を激しく巻き上げながら、結羽の身体を横薙ぎに襲う。
「くっ……!」
結羽は咄嗟に闘魂棒を縦に構えて防御したが、足元の踏ん張りが全く利かないため、打撃の強烈な衝撃を殺しきれず、泥沼の中へと無様に吹き飛ばされて転がっていった。
ズシャァァァッ!
「けほっ、ぺっ! ううっ、泥が……目と口に……!」
全身泥まみれになり、口に入った生臭い泥をペッペッと吐き出す結羽。
そんな彼女を見下ろし、安全な岩の上からドレイクの容赦のない檄が飛ぶ。
「馬鹿野郎! 足元ばかり気にしてるから上半身の力が抜けてんだろうが! 石の床と同じように踏ん張ろうとするから泥に足を取られるんだ! 泥に逆らおうとするな、泥を味方にしろ!」
「だって、踏ん張ろうとしたら泥に足が埋まって、動けなくなるんです! 避けようがないじゃないですか!」
「両極端なんだよ! 動く時は足裏全体に仙気を広げて『面』を作れ。泥の表面張力を利用してスケートのように滑るんだ! だが、打つ瞬間、止まる瞬間は違う。靴の中でも足裏の親指の付け根、小指の付け根、踵の『三点』に重心を集中させろ! 仙気で鋭いスパイクを作って、泥の奥深くの固い地盤まで刺して噛むんだ!」
ドレイクは、持っていた太い木の枝を、自身の足元の泥へと勢いよく突き刺して見せた。
スッと滑らせ、そしてドンッ! と突き刺す。
「『滑る』と『噛む』だ。この二つのスイッチを、呼吸と同じくらい無意識に切り替えろ。不安定な場所で常に同じ立ち方をしようとするからバランスが崩れる。……ほれ、カニ公が待ちくたびれてるぞ!」
「……はい! やってやりますッ!」
泥だらけの顔を腕の袖で乱暴に拭い、結羽は再び闘魂棒を構えて立ち上がった。
泥蟹が、重戦車のような突進で再び迫り来る。巨大なハサミが結羽の胴体を真っ二つにしようと迫る。
(……足裏全体に気を広げる。泥を面で捉えて、滑る!)
結羽は『面』の歩法を意識した。
足の裏から泥の表面へと仙気を薄く膜のように広げ、体重を分散させる。
泥に足が沈む前に、氷の上を滑走するようにツルリと身体をスライドさせた。
空を切るハサミ。
凶悪な軌道をギリギリで躱し、泥蟹の横へと回り込む。
そして、すれ違いざまの敵の死角。
ただ滑るだけでは、強力な打撃は打てない。
力が全て泥に逃げてしまうからだ。
(……今度は『点』! 三点で、泥の底を噛むッ!)
彼女は滑る足裏の気を瞬時に収束させ、親指、小指、踵の『三点』に爆発的な気を込めた。
見えない三本の杭が、泥の底の硬い地盤を強烈に『噛んだ』。
ギュンッ!!
滑っていた身体が、まるで強固なアンカーを大地に打ち込んだかのように急停止し、絶対的な『支点』が泥沼の上に構築される。
泥に一切力が逃げない。
下半身から生み出された強烈な回転のトルクが、腰、肩、そして腕へとロスなく伝わり、古代樫の闘魂棒へと完璧に乗った。
「はぁぁッ!!」
カキィィンッ!
力任せに分厚い甲羅を叩くのではない。
ドレイクから教わった『関節の理』。
装甲の隙間、脚の付け根の柔らかな関節部分を正確に捉えた闘魂棒のフルスイングが、泥蟹の硬い装甲を内部から見事に打ち砕いた。
「ギヂィィィッ!?」
バキッと脚の関節を砕かれた泥蟹が、体勢を崩して泥に大きく傾く。
結羽は再び瞬時に『面』の歩法へとスイッチし、滑るように敵の正面へと回り込むと、無防備に下がった頭部(急所)を容赦なく叩き割った。
光の粒子となって魔石を残して消えるのではなく、生々しい死骸が泥の上に残る。受肉した魔獣だ。
「ハァッ……ハァッ……。やりました、おやっさん!」
「おう。点と面のスイッチ、まだまだぎこちねえが、まずは及第点だ。……よし、美味さが逃げねえうちに、さっそくこいつをバラして茹でるぞ」
――十分後。
泥沼の端にある、水に浸かっていない安全な岩場の上。
ドレイクは結羽が解体した巨大泥蟹の太い脚と、極上のミソが詰まった甲羅を、買ってきたばかりの『年代物の土鍋』に乱暴に放り込んでいた。
「ちっ、周りの枯れ木も燃料も湿気ってて、火力が全然足りねえな。結羽、少し下がってろ」
そう言うと、ドレイクは土鍋の下に組んだ石の竈を覗き込むようにして、口からチロリと青白い『極小のブレス』を吐き出した。
ゴォォォォッ!!
神話級の火龍の息吹が、ガスバーナーの何百倍もの超高温を生み出し、土鍋の中の水を一瞬にして大沸騰させる。
周囲の泥沼の水分が熱で一気に蒸発し、視界が白い湯気で覆われた。
同時に、ドレイクの掌から放たれた青白い『浄化の仙術』が土鍋を包み込み、カニ肉にこびりついたヘドロの臭みと、魔獣特有の有毒な不純物を完全に消し去っていく。
グツグツと煮える土鍋から、先ほどの腐葉土の臭いなど微塵も感じさせない、濃厚で甘いカニの極上の香りが漂い始めた。
結羽の胃袋が、キュルルと正直な音を鳴らす。
「ほれ、食ってみろ」
ドレイクから渡された椀の中には、透き通った黄金色のスープに浮かぶ、真っ白でプリプリのカニの巨大な剥き身。
結羽はおそるおそる一口すすり……カッと目を見開いた。
「えっ!? 泥臭さなんて一切ない! すっごく濃厚なカニのお出汁で……身も甘くて、最高に美味しい!!」
「カッカッカ! だろ? こいつは爬虫類じゃねえが、水棲魔獣の良質なミネラルだ。お前さんの身体の基礎耐性をバキバキに底上げしてくれるぜ。さらにこの名店の土鍋だ。不味いもんができるわけがねえぜ」
不快極まる泥沼での過酷な修行と、それを乗り越えた後の極上のダンジョン飯。
泥まみれになりながらもカニ肉に食らいつく結羽の肉体は、さいたまの地で確実に、強靭な戦士への最適化を遂げようとしていた。




