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第34話 すっぽんの名店と、受け継がれる土鍋

 ふゆが特待生として『覚醒者特別育成学園』の全寮制施設へと旅立ってから、数日が過ぎていた。


 三年間も眠り続けていた妹が、自分の足で立ち、自分の意志で親元――いや、姉元を離れて学びの場へと向かったこと。


 その見送りの朝、ふゆが見せた凛とした笑顔を思い出すと、結羽の胸の奥には今でも温かい誇らしさと、ほんの少しの寂しさが入り混じったような不思議な感情が満ちてくる。


「わたし、お姉ちゃんの足手まといになりたくない。……ただおうちで待ってるだけの、守られるだけの子供でいたくないの」


 そう宣言したふゆの言葉は、結羽自身の背筋を正すのに十分すぎるほどの力を持っていた。


 妹が自分の戦いを始めたのだ。


 ならば、姉である自分も立ち止まっているわけにはいかない。


 結羽とドレイクは、佐修院家の執事・黒田が手配した漆黒の大型SUVの後部座席に乗り込み、千葉県野田市から県境を越え、埼玉県へと向かっていた。


 窓の外を流れる景色が、見慣れた千葉の街並みから、徐々に緑の多い埼玉の郊外へと変わっていく。


 彼らの次なる目的地は、埼玉県東部の湿地帯に巨大な口を開ける『さいたまダンジョン』。


 かつて広大な農地や沼沢地――見沼と呼ばれた水郷地帯だった場所に発生したその迷宮は、ダンジョンの魔力と土着の記憶が混ざり合い、内部が泥と水に満たされた極めて足場の悪い自然発生型のダンジョンとして知られている。


 さらに、天井は巨大なドーム状に広がり、そこから侵食してくる不気味な木の根から常に冷たい水滴が落ちてくるという、ジメジメとした不快感極まりない環境だという。


 そこへ向かう目的はただ一つ。


 結羽たちの最強のスポンサーであり、今も病床で苦しんでいる元SSランク探索者・佐修院彩斗美の肉体を蝕む『過剰適応の呪い』を緩和するためだ。


 彼女を寝たきりに追いやった元凶である群馬県・赤城山の神話級魔獣『ヒュドラ(多頭毒蛇)』。


 その劇毒と呪いに抗うためには、ヒュドラと同じ爬虫類系統の頂点に立つ魔獣の血肉を喰らい、肉体の基礎耐性を極限まで高める必要がある。


 その標的としてドレイクが白羽の矢を立てたのが、さいたまダンジョンの深部に潜む『ジャイアント(巨大)マッドスナッパー(すっぽん)』だった。


 だが、ドレイクは野田を出発する際、ダンジョンへ直行することを良しとせず、運転席の黒田に「まずは寄るところがある。埼玉で一番美味い『亀』を食わせる店を予約しておけ」と告げていた。


 そうして到着したのは、埼玉の静かな郊外にひっそりと佇む、完全予約制の高級すっぽん料理店だった。


 手入れの行き届いた見事な日本庭園の奥に、長い歴史を感じさせる趣のある数寄屋造りの建物が建っている。


 打ち水がされた石畳の先には、風格のある暖簾が風に揺れていた。


「……おやっさん。ここ、すっごく高そうなお店なんですけど……」


 結羽は、自身の着ている動きやすさ重視の地味な服装と、隣に立つドレイクの「いつものジャージに首タオル」という出で立ちを交互に見比べ、明らかな場違い感に尻込みした。


 特級ライセンスを手に入れ、口座残高が一生遊んで暮らせるほどの額になったとはいえ、結羽の金銭感覚は未だに「もやし一パックの値段を気にする女子高生」のままなのだ。


「カッカッカ! 口座の残高が変わっても、店構えを見て高そうってだけで尻込みするのは、サバイバルにおいて大事な感覚だな。身の丈に合わねえ場所に無警戒に踏み込むのは死を招く。だが安心しろ。今日はスポンサー様(佐修院家)の奢りだ。堂々としてりゃいい」


 ドレイクは豪快に笑うと、まったく臆することなく、堂々とした足取りで暖簾をくぐった。結羽も慌ててその広い背中を追いかける。


 和服姿の仲居に丁寧に出迎えられ、通されたのは、美しい枯山水の庭を独占できる静かで広々とした個室だった。


 黒田が事前に手配を済ませていたのだろう。


 座敷のテーブルにはすでに、この店の看板メニューである『極上すっぽんのフルコース』の準備が整えられていた。


 まずは食前酒代わりの、すっぽんの生き血のリンゴジュース割り。


 結羽は一瞬ギョッとしたが、思い切って飲んでみると、リンゴの爽やかな酸味が血の生臭さを完全に消し去っており、スッと喉を通っていった。


 飲んだ直後から、胃の奥がカッと熱くなるような強烈な活力が全身を駆け巡るのがわかる。


 続いて、美しく透き通ったエンペラの湯引き、外はサクサクで中はジューシーなすっぽんの唐揚げが運ばれてきた。


 どれもこれも、これまでの結羽の人生で味わったことのない、洗練された極上の味だった。


 そしていよいよ、メインディッシュであるすっぽん鍋が運ばれてくる。


 仲居が卓上のコンロに火を入れると、年代物の黒い土鍋の中で、琥珀色に輝く黄金のスープがグツグツと煮立ち始める。


 部屋いっぱいに、醤油と生姜、そしてすっぽんの濃厚な出汁の香りが広がり、暴力的なまでに食欲を刺激した。


「いただきます!」


 結羽は熱々のスープと、骨付きの身を小鉢に装い、火傷しないようにふーふーと息を吹きかけてから、一口すすった。


「……っ! 美味しい……!」


 思わず、感嘆の声が漏れた。


「生臭さが全然なくて、お肉はぷるぷるでコラーゲンたっぷりだし……何より、このお出汁がすっごく濃厚です! 口の中に入れた瞬間に、旨味が爆発するみたい!」


「おう。俺が作るダンジョンの野戦飯とはまた違った、繊細で奥深い味だ。時間をかけて丁寧にアクを取り、臭みを消し、素材の味を極限まで引き出してる。……これぞ『食の文化』ってやつだな。光華王朝の宮廷料理にも引けを取らねえ見事な仕事だぜ」


 ドレイクも満足げに何度も頷き、熱々のすっぽんの身を、骨ごとバリバリと噛み砕いて次々と平らげていく。


 だが、食事が進むにつれ、結羽はあることに気がついた。


 ドレイクの視線が、鍋の中の美味そうな肉やスープよりも、その『器』そのもの――煮え滾る黒い土鍋に向けられていることに。


 ドレイクはふと食事の手を止め、火から下ろされた空の土鍋の表面を、太い指先でそっと、慈しむように撫でた。


「……見事なもんだ。何十年もコークスの業火で繰り返し焼かれ冷やされを繰り返した結果、表面に細かい貫入(ヒビ)がびっしりと入り込んでやがる。そして、そのヒビの奥の奥まで、すっぽんの極上の出汁と脂が黒光りするほど染み付いている。こりゃあ、ただの土焼きの鍋じゃねえ。……何代にもわたる職人の執念と歴史が宿った、立派な『魔導具(アーティファクト)』だぜ」


 神話の火龍の瞳が、職人の道具としての凄みをはっきりと見抜いていた。


 魔法使いが魔力を込めて作ったわけではない。


 ただひたすらに、美味いものを作るという目的のためだけに何十年も使い込まれた結果、道具そのものが魂を持ち、物理的な強度と保温性を常識外れのレベルまで引き上げているのだ。


 食事が終わり、最後の雑炊まで綺麗に平らげた頃、個室の襖が静かに開き、この料亭の女将が挨拶に訪れた。


 上品な和服に身を包み、白髪交じりの髪を綺麗に結い上げた初老の女性だ。


「本日はご来店いただき、誠にありがとうございます。お料理は、お口に合いましたでしょうか?」


 丁寧にお辞儀をする女将に対し、ドレイクは正座に居住まいを正し、ジャージ姿のまま深く、真っ直ぐに頭を下げた。


「女将さんよ。最高に美味いすっぽん料理だった。五臓六腑に染み渡る、見事な味だ。……不躾な話だが、一つ頼みがある」


「は、はい。なんでございましょうか?」


 二メートル近い巨漢の男が、突然自分に対して深く頭を下げたことに驚きつつ、女将は戸惑ったように瞬きをした。


「……もう何年も前になるが、仲間を逃がすために一人残って猛毒を食らって、それ以来ずっと寝たきりになっちまったダチがいてな。そいつに、この最高のすっぽん料理を……この命の活力を、なんとか食わしてやりてぇんだ」


「まぁ……」


 ドレイクの絞り出すような、ひどく真摯な言葉に、女将の表情がハッと変わる。


 隣で聞いていた結羽も、思わず息を呑んだ。


 佐修院彩斗美のことを、ドレイクが「ダチ(友人)」と呼んだからだ。


 出会ってまだ間もない。


 年齢も種族も、生きている世界も全く違う。


 スポンサーと探索者というビジネス上の関係でしかないはずの彼女を、ドレイクは、その不屈の闘魂に敬意を表し、すでに自分の大切な「仲間」として認めているのだ。


 友を救うために、誰に憚ることもなく真っ直ぐに頭を下げる師匠の背中に、結羽の胸の奥が熱く焦がされる。


「出張料理とまではいわねえ。お前さん方の味を勝手に盗むような真似もしねえ。……だが、コークスで何十年も鍛え上げられ、すっぽんの最高の出汁が奥底まで染み込んだ、その『土鍋』を一つ……どうか、俺たちに譲っちゃくれねえか。俺たちはダンジョン探索者だ。金に糸目はつけねえ。この通りだ。頼む」


 ドレイクは、畳に両拳をつけると、さらに深く頭を下げた。


 特級探索者の稼いだ大金に物を言わせて、強引に買い叩くことなど彼には簡単だったはずだ。


 だが、彼はそうしなかった。


 料理人としての技術と、その道具に込められた歴史に対する、最大限の敬意。


 そして、友を救いたいという純粋な情熱。


 それを伝えるためには、人と人としての真っ直ぐな交渉しかないと知っているのだ。


 静かな個室に、重い沈黙が降りた。


 老舗の料亭にとって、使い込まれた土鍋は店の命そのものだ。


 おいそれと素人に譲れるようなものではない。結羽は緊張に拳を握りしめた。


 やがて、女将はそっと目元をハンカチで拭い、ドレイクに向けて、彼と同じくらい深くお辞儀を返した。


「……どうか、頭を上げてくださいな。……そのご友人の方も、探索者さんなんですか?」


「ああ。昔の話だが、日本のトップを張ってた、不器用で真っ直ぐな大馬鹿野郎さ。自分の命より、他人の命を優先しちまうようなな。その上、付き合いの浅い後輩の面倒まで見る、お人好しだ」


「……そうですか」


 女将は、慈しむような、そしてどこか遠くを懐かしむような微笑みを浮かべた。


「……私の親類にも、探索者がおりました。今はもう、迷宮の奥深くに眠っておりますが……。私達の今のこの平和な暮らしがあるのも、見えない地下の暗闇で、命を懸けて前線に立ってくださっている探索者の皆様のおかげです。……承りました。そのお鍋、どうかお持ちください。そして、世界で一番美味しいすっぽん雑炊を、ご友人の方に食べさせてあげてくださいな」


「……! 女将さん……」


 その言葉の温かさに、結羽の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「ありがてえ。本当に、恩に着るぜ、女将さん」


 ドレイクは顔を上げ、この世界に来てから一番の、人間臭くて温かい笑顔を見せた。


 女将の粋な計らいにより、ドレイクたちは大金という数字以上の「人の情け」と共に、年代物の至高の調理器具を譲り受けたのだった。


 店を出て、再び黒田の待つ車に乗り込む。


 ドレイクは後部座席で、柔らかい布に幾重にも包まれた黒い土鍋を、まるで壊れ物を扱うように大切そうに膝の上に抱えていた。


「……おやっさん。わたし、絶対に最高のすっぽんを獲ってきます。彩斗美先輩に、あの土鍋で最高のお鍋を食べてもらうために」


 結羽が涙を拭いながら力強く宣言すると、ドレイクはニヤリと、いつもの獰猛な笑みを浮かべた。


「おう。最高の鍋は手に入った。これでもう、器が割れる心配はねえ。あとは極上の『中身』を調達しに、泥沼へ潜るだけだ」


「はいッ! ……それにしてもおやっさんが、彩斗美先輩のことを友達って思っていたなんて、ちょっと驚きでした。あんな風に頭を下げるなんて」


「……へっ、極上の土鍋を手に入れるための、ただの方便ってやつだよ。大人は嘘吐きなんだぜ」


 ドレイクはふいと窓の外に顔を向けた。


「ふふっ、そういうことにしておきます!」


 いざ、決戦の地へ。


 よろず屋バディの絆と、名店の想いを乗せた車は、さいたまダンジョンの入り口へと力強く走り出した。

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