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第32話 雛鳥の決意と、同位同食の亀

 ふゆが病院のベッドから解放され、野田市のマンションで暮らし始めてから、季節が一つ巡ろうとしていた。


 3年間という残酷な空白の時間は、しかし今、恐ろしい速度で巻き戻され、さらに成長という濃色で塗り替えられようとしている。


 かつては自力で立ち上がることすら叶わなかった細い足は、今やマンションの階段を一段、二段とリズミカルに飛ばして駆け上がるほどのバネを取り戻していた。


「おやっさん、お姉ちゃん! 先に行くねー!」


「おいおいちび助、あんまり無茶して転ぶなよ。重心がブレてるぞ」


「平気だよ! 転びそうになったら、お膝の『気』をギュッてすればいいんでしょ?」


 後ろを振り返り、ひまわりのように笑うふゆの姿に、ドレイクは首のタオルで汗を拭いながら満足げに鼻を鳴らした。


 肉体的にも精神的にも、彼女は完全に復調していた。


 一人で野田の商店街へ買い物に出かければ、「前山田さんとこの妹さん、あんなに元気になって……」と近所のおばちゃんたちが涙ぐんでおまけを持たせてくれるほどだ。


 だが、その無邪気な笑顔の奥、彼女の瞳に宿る『魔力視』の光だけは、日を追うごとに鋭く、深く、世界の理を透過するように澄み渡っていた。



◆◆◆



 結羽の日常もまた、以前とは全く違う次元のルーチンへと移行していた。


 早朝5時。まだ薄暗い近所の公園で、結羽はドレイクとの実戦手合わせから一日を始める。


「甘ぇ! 足裏の粘りが足りねえから、打撃の重さが逃げてんだよ!」


「くっ……! はぁっ!」


 ドレイクの容赦のない、丸太のような蹴りが結羽の脇腹を襲う。


 結羽はそれを古代樫の闘魂棒で受け止めるのではなく、仙気を纏わせた手甲で『滑らせる』ようにして威力を殺し、そのままドレイクの懐へと潜り込んで肘を打ち込む。


 ステータスボードの数字に頼らない、骨格と重心、そして仙術による最適化。


 特級探索者となった今でも、彼女は己の肉体の軋みに耳を澄ませ、貪欲に『理』を吸収し続けていた。


 泥と汗にまみれた朝練を終え、シャワーを浴びてから高校へ向かう。


 既に特級ライセンスを持つ彼女にとって、ダンジョン科の授業はもはや児戯に等しかった。


 だが、一般教養の単位と「普通の学生としての時間」を少しでも保つため、彼女は登校を続けていた。


 教室では、かつて彼女を「ハズレ枠の荷物持ち」と見下していた同級生たちが、今は腫れ物でも触るかのように遠巻きに畏怖の視線を送ってくる。


 だが、結羽はそれを気にする素振りも見せず、ただ静かにノートを取るだけだった。


 そして午後。


 学校が終わると同時に、結羽はドレイクと共に野田ダンジョンの深層へと潜る。


 目的は、ミノタウロスの『周回』だ。


 もはや攻略というよりは「収穫」に近い。


「ふー……」


 結羽の手のひらから放たれる清浄な仙術の光が、解体されたミノタウロスの巨大な背肉を撫でる。


 ドレイクが課した修行――『肉の養気と清浄な魔力を残したまま、余計なミアズマと筋だけを削ぎ落として精肉する』繊細な気のコントロール訓練も随分様になってきていた。


 帰宅後、よろず屋の工房に隣接するキッチンで、その日獲れたての肉が調理される。


 ステーキ、しゃぶしゃぶ、すき焼き、タタキ、ユッケ付き冷麺、そして焼肉。


 三人で囲む食卓には、常にミノタウロス料理が並んでいた。


「ん~美味しい! 今日の焼肉はすっごく柔らかい! お口の中でとろけていくよー!」


「よかったー! 今日はすっごく上手くいったんだよ! ほらふゆ、サンチュもレタスもしっかり食べてね!」


 もぐもぐと口を動かしながら、姉妹が仲良く笑い合う。


 その様子を眩しいものを見たように目を細めながら、ドレイクがビールを煽る。


 召喚者と従魔、師と弟子。


 そんな関係でありながら、そこには確かな絆があった。


 魔力にあてられて昏睡していた三年、ふゆの成長は止められていた。


 だが今、ミノタウロスという規格外の栄養素を日々摂取し、『同位同食』の理を体現することで、彼女は失われた三年間を急速に取り戻すかのように、めきめきと背を伸ばしていた。


 ダンジョン周回、極上の飯、そして黄龍と黒田による英才教育。


 この歪で、けれど温かい日常が、いつまでも続くのだと、結羽は信じて疑わなかった。



◆◆◆



 そんなある夜のこと。


 結羽とドレイクが周回から帰宅すると、リビングにはすでにお茶を淹れて待機している黒田の姿があった。


「おかえりなさいませ、前山田様、ドレイク様。……本日は、少々ご相談がございまして」


「相談? いつもの素材の買取の話じゃなくてですか?」


 結羽が首を傾げると、黒田はスッと姿勢を正し、隣で黄龍の立体ホログラムを使った図形問題を解いているふゆへ視線を向けた。


「ええ。……ふゆ様の、今後についてでございます」


 その言葉に、部屋の空気がわずかに張り詰めた。


「ふゆ様の持つ『魔力視』の力、そして黄龍様とドレイク様の指導により開花しつつある途方もない知能と身体能力。……申し上げるまでもなく、彼女は現代の同学年の子供たちと比較して、あまりにも抜きん出すぎております」


 黒田の眼鏡の奥の瞳が、冷静な商人の光を帯びる。


「この能力と希少性を抱えたまま、彼女を普通の義務教育課程……地元の小学校へと復学させればどうなるか。高い確率で周囲からのやっかみやいじめに遭うか、あるいはその異端性に気づいた企業やギルドから、良からぬ接触を受けることになるでしょう」


「……」


 結羽は息を呑んだ。自分自身が「ハズレ枠」として周囲からどう扱われてきたかを考えれば、黒田の懸念が痛いほど理解できた。出る杭は打たれ、弱者は弱者で叩かれるのが、この世界の一つの真実だ。


「そこで、ご提案がございます。佐修院家が運営に深く関わっている、県外の『探索者特別育成学園』の初等部……そちらへ、ふゆ様を特待生として転入させるというのはいかがでしょうか。全寮制であり、セキュリティは国家の重要施設並み。何より、同じ『力』を持つ同世代の子供たちと、正しい教養を身につけることができます」


「全寮制……」


 結羽の顔が曇る。


 3年間、ずっと冷たいベッドで眠っていた妹。


 ようやく目覚めて、毎日一緒にご飯を食べて、笑い合えるようになったばかりなのだ。


 それなのに、また離れ離れにならなければいけないのか。


「あの……もう少し、待ってくれませんか。ふゆはまだ小さいし、急にそんな寮に入るなんて……」


 結羽が断りの言葉を口にしようとした、その時だった。


 結羽のジャージの裾を、小さな手がぎゅっと強く握りしめた。


「……わたし、行くよ」


「ふゆ……?」


 結羽が振り返ると、そこにはいつもの無邪気な妹ではなく、一人の「探索者の卵」としての強い光を宿した少女が立っていた。


「わたしね、お姉ちゃんが毎日泥だらけになって、怪我して帰ってくるの、ちゃんと見て、知っているからね。お姉ちゃんとおやっさんは、お父さんとお母さんを探しに、もっともっと危ないところへ行かなきゃいけないんでしょ?」


「それは……」


「わたし、お姉ちゃんの足手まといになりたくない。……ただおうちで待ってるだけの、守られるだけの子供でいたくないの」


 ふゆは結羽の裾から手を離し、真っ直ぐに黒田を見据えた。


「学園でお勉強して、自分の力で立てるようになる。……だから、わたしをその学園に入れてください」


 その堂々たる宣言と共に頭を下げたふゆに、黒田は目を見開き、やがて深く、敬意を込めて一礼した。


 結羽は目頭が熱くなるのを堪えきれず、ふゆの小さな背中をきつく抱きしめた。


「……わかったよ、ふゆ……でも、あんまり寂しくさせないでよね?」


「えへへ、お姉ちゃん! 大丈夫だよ、ビデオ通話もできるし、お休みの日にはお姉ちゃんの獲ってきた美味しいお肉、食べに帰ってくるから!」


 ふゆが満面の笑みで飛びつき、結羽はそれをしっかりと受け止めた。


「……黒田」


 部屋の隅で腕を組んで黙っていたドレイクが、低く地鳴りのような声で口を開いた。


 彼から放たれる微かな神話級の気迫が、リビングの空気をビリビリと震わせる。


「ねえとは思うが、一応訊ねておくぜ。……お前さん方、ふゆを『囲い込もう』ってわけじゃねえよな? 佐修院の派閥争いだか何だか知らねえが、そんなくだらねえ事情にこのちび助を巻き込むってんなら……話は別になるぜ?」


「滅相もございません」


 ドレイクの殺気にも似た圧力の中、黒田は涼やかな顔で首を横に振った。


「確かにふゆ様は貴重な才能の持ち主ですが、どちらかといえば、これは私の『下心』でございます。……ドレイク様と結羽様という最強の矛に、一切の懸念なく、後顧の憂いなくダンジョンアタックをしていただきたい。ふゆ様の安全を我々が担保することで、お二人に思う存分暴れていただくための投資ですよ」


「……ふん。なら、いい。あとは結羽とふゆの意思次第だ」


 ドレイクは圧力をスッと収め、満足げにタバコを取り出して火をつけると再び作業台へと背を向けた。


 だが、その背中は「お前が決めた道なら、俺が最後まで付き合ってやる」と、無言で姉妹を肯定していた。

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