第31話 姉妹の反撃と、欠けた月が満ちる時
退院の日を迎えたふゆは、結羽とドレイクと共に野田市のマンションの入り口に辿り着いた。
結羽がいつもの癖でエレベーターのボタンを押そうとした時、ドレイクの分厚い手がその手首を優しく、けれど強固に制した。
「……おやっさん?」
「結羽、エレベーターはやめだ。……ふゆ。今日からお前さんのリハビリは、この階段だ」
「えぇっ!? おやっさん、家は八階ですよ? ふゆは病み上がりなのに……」
「甘ぇよ、結羽。病み上がりだからこそ、重力の使い方を覚えなきゃならねえ。……いいか、ふゆ。階段の一段一段には世界の理が詰まってる。膝の角度、足裏の重心、地面を蹴るんじゃなく、重力を味方につけて浮く感覚……。これを身体に叩き込まずにいちゃあ、いつか必ず足元を掬われる……やるか?」
ドレイクはふゆの目線の高さまで腰を落とし、静かに問いかけた。
ふゆは、己の細い足を見つめ、それからドレイクの黄金の瞳を真っ直ぐに見返した。
そこには、結羽と同じ前山田家のド根性が宿っていた。
「うん! わたし、お姉ちゃんをずっと待たせちゃったもん。……これからは、わたしがお姉ちゃんを支えられるくらい強くなる!」
「――よし。行くぞ、ふゆ」
一歩、また一歩。
ドレイクが後ろからリズムを刻み、結羽が隣で支えながら、ふゆはゆっくりと階段を登る。
四階を過ぎたあたりでふゆの全身は汗にまみれ、膝が笑い始めた。
けれど、彼女の呼吸は乱れない。
ドレイクが教える内功の呼吸法が、彼女の細い血管を、魔力という名の熱い奔流が駆け巡る。
八階の自宅のドアを開けた時、ふゆは崩れ落ちるように結羽の胸に飛び込んだ。
「……の、登りきったぁ……! ただいま……おうちだあ!」
「おかえり、ふゆ。……よく頑張ったね」
三年の時を経て、前山田家の玄関に、二人の少女の笑い声が響いた。
◆◆◆
それからの日々は、まさに規格外という言葉が相応しい生活だった。
結羽とドレイクが、ふゆの成長を加速させるための肉を求めて野田ダンジョンへ周回に向かう間、ドレイクの工房では黄龍による授業が行われた。
『ふゆ殿、次は墨書の時間です。……指先に気を集中し、一点一画に理を込めるのです。墨をするところからはじめましょう』
マンションの前山田家のお隣の一室。
黒田が手配してくれた最新鋭の工房兼店舗である、よろず屋ドレイク。
墨の香りが漂う中で、ふゆは習字セットを開いて、硯に墨をあてていた。
墨が海に溜まれば、書くのは一般的な漢字と、ドレイクと黄龍がアストライアから持ち込んだ、複雑怪奇な古代文字だ。
「うん……こうして、こうで……うん」
筆を持つ指先までの精密な魔力制御。
それが墨書の真の目的だった。
一画書くごとに、ふゆの魔力視は筆先から紙へと流れる気の筋を捉える。
さらに黄龍は、浮遊しながらふゆに内功や気の練り方を教え、また算術やこの世界に来てからネットワーク介入で得た知識から、社会科や理科の授業も行った。
その内容は七歳で昏睡状態に陥り、三年もの間寝たきりであったふゆにとっては全てが新鮮であり、また黄龍から放たれる軽妙かつ穏やかな言葉は、ふゆの学習意欲を大いに刺激した。
通常の小学生が三年かけて学ぶ以上のこと――それは書画や風流を愛する黄龍がアストライアにかつて花開いていた文化や哲学にまで渡った。
ふゆはそれを、遊びのように楽しみながら、驚異的な速度で理解していった。
◆◆◆
一月、二月と経つ頃。
結羽たちがダンジョンから帰還すると、玄関でふゆが元気いっぱいに迎えるのが日常となった。
「お姉ちゃん、おやっさん! おかえりなさい! 今日もいーっぱいお肉獲ってきてくれた?」
「ああ。今日の牛っころは受肉したての活きがいい奴だ。……結羽、今日はお前が浄化の仙術で肉を仕上げてみろ」
「はいっ!」
キッチンの作業台で、結羽はミノタウロスの巨大な背肉に対峙する。
ドレイクの指導は、戦闘だけでは終わらない。
肉の養気と清浄な魔力を残したまま、余計なミアズマと筋だけを削ぎ落とすという、高度な仙術による精肉修行だ。
結羽の手のひらから淡い光が放たれ、肉の表面を撫でる。
少しでも気を緩めれば魔力が抜けてパサパサになり、込めすぎれば肉質が凝固してゴムのように硬くなる。
こうした浄化の仙術の基礎は、身体を癒やす回復の仙術にも繋がる。
それはダンジョンでの生存率を大いに上げる修行でもあった。
そしてその日の夕食。
特製のミノタウロスステーキを口にしたふゆが、小さく眉を寄せた。
「……ん。美味しい! ……けど、今日のステーキは、昨日よりちょっとだけかたいね?」
「カッカッカ! そこまで違いがわかるか! おい結羽、聞いたか。ふゆは随分とグルメになっちまったみたいだぞ?」
ドレイクが豪快に笑う。
結羽はガックリと肩を落とした。
「……やっぱり、まだまだですね。……ふゆ、ごめんね。わたしの浄化が下手だったみたい。明日からは挽肉にして、ハンバーグとか肉団子にするから。それで我慢してね……」
「ううん! ふゆ、かたいステーキも美味しいよ? ……でも、ハンバーグはうれしいな!」
ふゆの無邪気なフォローに、結羽は再び闘志を燃やす。
「絶対、口の中でとろけるようなステーキを焼いてみせるからね! 焼肉も、しゃぶしゃぶも、すき焼きも、タタキも、ユッケも、おやっさんより上手に作れるようになるから!」
ふゆの身長は、この二ヶ月で驚くほど伸びていた。
昏睡していた三年間を取り戻すどころか、成長期特有のエネルギーが、ミノタウロスという規格外の栄養素と結びつき、彼女の身体を最適化させていく。
その知能の成長も、肉体に負けず劣らず異常だった。
◆◆◆
ある日の午後。
ドレイクがオーダーしていた触媒や素材――空間収納袋の修復に使う特殊な魔導繊維――を届けに、黒田がよろず屋を訪れた。
黒田がドレイクの工房に足を踏み入れた。
そこにはノートパソコンのキーボードを高速で叩き、タブレットで何らかの表を管理しているふゆの姿があった。
「……おや。ふゆ様、もしやそれは、よろず屋の台帳ですか?」
「あ、黒田さん! うん、お姉ちゃんたちの稼ぎ、数字がバグってて大変だったから整理してるの。あとね、黄龍先生から教わった世界の構造についても、パソコンで図解説明できないか考えてるんだよ!」
黒田が覗き込んだ画面には、よろず屋ドレイクのキャッシュフローが完璧に視覚化され、さらに別のウィンドウには、現代物理学と魔導工学を融合させたような、ダンジョンの位相に関する高度な考察が綴られていた。
「……これは」
黒田の眼鏡の奥の瞳が、驚愕で見開かれる。
十歳の少女が、特級探索者の稼ぎ出す億単位の資産を管理し、かつ世界の真理にまで手を伸ばしている。
「素晴らしい。……素晴らしすぎます、ふゆ様。ですが、ドレイク様」
黒田は居住まいを正し、作業台でスパナを回していたドレイクへと向き直った。
「黄龍様とドレイク様の教育は、確かに素晴らしいものです。……しかし、このままではふゆ様の知識が異界と暴力に偏りすぎてしまいますな。現代社会の一般常識、そして上位探索者や特級探索者……そうした特権階級としての立ち振る舞い。これらが欠けては、彼女の才能を表の世界で正しく運用することは叶いません」
黒田はスッとふゆの前に膝をつき、恭しく頭を下げた。
「ふゆ様。もしよろしければ、この老骨にもお手伝いをさせてください。現代の学問、そしてこの歪な世界を賢く生き抜くための教養を、私が教授いたします。いかがですか?」
「わぁ! 黒田さんも先生になってくれるの!? やったぁ!」
結羽たちがダンジョンで泥にまみれて肉を獲ってくる裏側で、よろず屋では黄龍という人工知性体、そして商人にして佐修院家の万能執事という、贅沢な教師陣による天才児育成計画が静かに始まろうとしていた。
――欠けた月が満ちる時。
前山田姉妹の世界に対する反撃が、そこから始まろうとしていた。




