第30話 貪欲なる再誕と、魔眼の深淵
野田市内の総合病院、その最上階にある厳重なセキュリティで守られた特別個室。
窓から差し込む柔らかな午後の陽光の中で、ふゆのリハビリは続いていた。
「よいしょ、……よいしょ」
ふゆは、ステンレス製の補助バーを小さな両手でしっかりと掴みながら、一歩、また一歩と確かな足取りで病室内を歩いていた。
三年間という長い間、霊穴塞ぎの呪いによってベッドで眠り続けていた子供の筋肉は、本来なら歩行どころか、自分の体重を支えて立ち上がることすら数ヶ月単位の時間を要するはずだ。
筋肉は萎縮し、骨密度も低下しているのが医学的な常識である。
しかし、ふゆが奇跡的な目覚めを果たしてから、まだ一週間も経っていない。
担当の理学療法士が「医学の常識を超えている。彼女の細胞は、まるで冬眠から覚めた獣のように周囲のエネルギーを吸い上げている」と頭を抱え、カルテにどう書くべきか悩むほどの、驚異的な回復速度だった。
「ふゆ、無理しちゃダメだよ。座って休もう? 汗かいてるし」
傍らで心配そうに見守る結羽が、タオルを差し出しながら声をかける。
すると、ふゆは額に薄っすらと汗をかきながら、向日葵のような満面の笑顔を返した。
「平気だよ、お姉ちゃん!」
その細い脚はプルプルと震えてはいるものの、しっかりと大地を踏みしめようとする強い意志が感じられた。
その光景を、隠形を解いた状態で病室の壁に寄りかかって眺めていたドレイクと、テーブルの上で淡い光を放つ黄龍が、プロの目線で静かに分析していた。
『……ふむ。元から魔力に対する素養もあったのかもしれませんが、霊穴塞ぎの元凶を近親者――血の繋がった姉たる結羽殿が打倒し、その角髄を取り込んだことで、あの機人化した牛鬼の強力な霊気や養気が、ふゆ殿の細胞そのものを強烈に再構築しておりますな』
黄龍の風雅で知的な念話が、部屋の空気を微かに震わせる。
「ああ。ただ取り込んで治るだけじゃなく、足りねえ三年分を補うように、周囲の魔力まで貪欲に自分の血肉に変えてやがるな。普通のガキなら、起きるだけでも数ヶ月はかかるところだろうによ。……こいつもまた、結羽と同じで磨けば光る珠ってことだ。血は争えねえな? 結羽」
ドレイクは首に巻いた使い古しのタオルをもてあそびながら、愉快そうに鼻を鳴らした。
ステータスというシステムの枠を外れ、純粋な生命力と理によって進化していく教え子たちの姿を見るのは、彼にとって何よりの娯楽になりつつあった。
「お、おやっさん。そんな、ふゆまでバケモノみたいに言わないでくださいよ。ふゆは普通の、可愛いわたしの妹なんですから」
結羽が少しだけむくれて苦笑いしながら答える。
その会話を聞いていたふゆが、リハビリの歩行訓練を終えてベッドに戻り、不思議そうに二人と一玉を交互に見つめた。
「ねえ、お姉ちゃん。……お姉ちゃんの先生のおやっさんと、水晶玉の黄龍さん。二人とも、なんだかお姉ちゃんと同じ匂いがするね」
「……匂い?」
結羽が首を傾げる。
ドレイクは毎日ダンジョンに潜っているし、仙気による独特のオゾン臭のようなものはあるかもしれないが、ふゆが言っているのはそういう物理的な匂いのことではないようだった。
ふゆは、細い指先でドレイクを真っ直ぐに指差した。
「うん。匂いっていうか、見え方が同じなの。……お姉ちゃんのまわりには、赤くて温かい火がめらめら燃えているし、おやっさんの周りには、すっごく大きくて、お部屋がいっぱいになっちゃうくらいの真っ赤な火がごおーって燃えてるのが見えるよ。……それと、黄龍さんは、ピカピカきらきらした歯車と、金色の砂時計みたいなのが、すっごく明るく燃えてるの……」
「なっ……!?」
結羽は息を呑み、ドレイクと黄龍を見た。
ドレイクの本来の姿である神話級の火龍が放つ圧倒的な炎の気配。
そして、世界の構造と時間を計算する、黄龍の魔導演算の核たる歯車と砂時計のイメージ。
それを、魔術の知識など一切ないはずの、たった十歳の少女が、明確な視覚情報として捉えているのだ。
『ほう。……師父、これは予想以上ですな。先ほどの回復力の件といい、やはりあの角髄と師父の仙気は、ふゆ殿に劇的な変異をもたらしたようです。ふゆ殿の魔力視は、単に視覚として魔力の色や波長を見分けるだけでなく、その対象の本質を直感的に捉え、脳内で立体視をし始めているようです』
「例の魔力視ってやつが五感全体に影響を及ぼしているってわけか。……カッカッカ! 協会の審査官とかいう偉そうなやつでも、俺の芯を見抜くことなんかできなかったってのによ。この嬢ちゃんは、一目で俺たちが何者かを見透かしやがった」
ドレイクは、自らのジャージの袖をギュッと掴んできたふゆの頭を、大きな手でガシガシと乱暴に撫で回した。
「あはは、くすぐったいよおやっさん!」
ふゆは笑い声を上げる。
ドレイクはしゃがみこんで視線の高さをふゆに合わせると、ふざけた態度を収め、その紅い瞳でふゆの目をしっかり見据えて優しく、しかし真剣な声で語りかけた。
「いいか、ふゆ。……お前さんのその目は、この先いろんなもんを見ちまうことになる。俺たちみたいなでっかい火だけじゃねえ。綺麗なもんだけじゃなく、泥臭えもんや、ヘドロみたいに醜いガラクタ、悪意を持った黒いモヤみたいなもんも、嫌でも目に入ってくる」
「……それって、怖いもの?」
「ああ、そういうもんもあるだろうよ。見えすぎるってのは、時として毒になる。だから、お前さんはそうしたもんに飲み込まれないように、心と体を強くしなきゃなんねえ。……わかるか?」
「うん。だから、リハビリ頑張ってるよ! 早くお姉ちゃんたちみたいに、強くなりたいから!」
「ああ! 今はそれだけでも十二分過ぎるほどだ! あとのことは、消毒液くせえこの病院を出てから、少しずつ考えていきゃあいい。お前さんには、頼りになる強い姉貴と、この俺たちがついてるんだからな」
ドレイクはふゆの肩に大きな手を置いてそう言うと、結羽の方を顎でしゃくってみせた。
「そうだよ、ふゆ! お姉ちゃん、すっごく強くなったんだから! もう誰にも、ふゆをいじめさせないよ!」
結羽が腕まくりをして、頼もしくなった力こぶを作ってみせ、妹に満面の笑みを向ける。
「うん、でも……お姉ちゃんよりすごくすごーく強いおやっさんと、物知りでピカピカの黄龍さんも、一緒にいてくれるんでしょ?」
ふゆが小首を傾げて問い返すと、ドレイクは一瞬だけ虚を突かれたような顔をし、それから腹の底から湧き上がるように豪快に笑った。
「カッカッカ! 違いねえ! そうだな、俺と姉ちゃんと黄龍が、お前さんの歩く道くらいはきっちり掃除しといてやるよ! だから安心して、でっかくなりな!」
「うんっ!」
ふゆの元気な返事が、清潔な病室に明るく響き渡る。
三年の空白を埋める日常の裏側で、ステータスの枠に囚われない最強のバディに、世界の本質を見透かすもう一つの目が加わろうとしていた。




