第3話 火龍のぼやきと、規格外のデコピン(前編)
「わたしが導き手だっていうなら……助けてよォォォォォォォッッ!!!!」
血を吐くような、魂の底からの絶叫だった。
死の恐怖と、何一つ成し遂げられなかった己への強烈な怒り。
すべてを絞り出した祈りが、冷たく湿った迷宮の空気をビリビリと震わせた、まさにその瞬間だった。
カッ……!!!
結羽の身体の中心から、目を焼くような強烈な光が爆発した。
極限の命の危機という強烈な負荷。
それが絶対的なトリガーとなり、彼女がこの半年間、誰にも評価されずに這いつくばって蓄積してきた「裏方としてのすべての経験値」が、一瞬にして爆発的な魔力へと変換されたのだ。
彼女の魂の奥底で、重い鎖に繋がれたまま眠り続けていた『神話級』の器――URスキル『巨壁の導き手』が、ついに次元の壁を穿ち、その真の力を解放した。
光の奔流が空間を激しく歪め、結羽と、牙を剥いて迫り来る魔獣の群れの間に、見たこともないほど巨大で複雑な幾何学模様の魔法陣を瞬時に描き出した。
ズォォォォォンッ!!!
鼓膜を破るような轟音が轟き、頑強なダンジョンの石畳がメキメキと音を立てて大きくひび割れる。
同時に、魔法陣の中心からもうもうと白い煙が立ち込めた。
結羽の四肢に食らいつこうとしていた四匹のウルフたちも、突如として現れたその圧倒的で異質な魔力の波動に、生物としての本能的な恐怖を刺激され、ピタリと動きを止めた。
殺気に満ちていた無数の赤い瞳が、怯えの色を帯びて白煙の奥を注視している。
(あ、このとんでもない魔力……! なにを召喚しちゃったの?! 悪魔……? それとも天使……?)
レベルアップ酔いによる激しい吐き気と全身の熱に苦しみながらも、結羽は眩い光から目を庇い、すがるような思いでその白い煙の奥を見つめた。
自身の命と引き換えに現れる、神話の存在。
世界を救う輝かしい英雄か。
あるいは、すべてを滅ぼす恐ろしい神獣か。
心臓が早鐘を打ち、時間の流れがひどく遅く感じられる中、煙が少しずつ晴れていく。
そして、ゆっくりと姿を現したのは。
『――あ? なんだこの空間?』
不機嫌極まりない、低くドスの利いた声だった。
『俺は今、第三世代魔導コンロの極細配線を繋いでたんだぞ。……老眼で目が疲れてんだよ、クソが』
そこに立っていたのは、片手に油まみれのスパナを持ち、もう片方の手に複雑な機械の基板を握りしめた、巨漢の男だった。
身長は一八五センチは優に超えているだろう。
丸太のように太い腕には血管が浮き出ており、分厚い胸板は服の上からでもその尋常ではない筋肉量を主張している。
しかし、その服装はなぜか、どこにでも売っているような見慣れたスポーツ用のジャージの上下であり、太い首には汗拭き用の古びたタオルが無造作に巻かれていた。
どう見ても、休日にパチンコ屋か工事現場からふらりと抜け出してきたような、ガラの悪い強面のおっさんである。
光り輝く神話の英雄でもなければ、禍々しい恐ろしい魔獣でもない。
あまりにも日常的で、あまりにも場違いなその存在に、結羽は痛みを忘れてぽかんと口を開けた。
『……おい、若ぇの。ここはどこだ?』
おっさんは、首の骨をポキポキと鳴らしながら、怪訝な顔で倒れ伏している結羽を見下ろした。
その口から紡がれたのは、ひどく低く、腹の底の臓腑にまで響いてくるような重低音。
だが、その言葉の響きは、結羽の知る現代のどの言語とも異なっていた。
英語でもなければ華国語でもない。
半島語でもない。
もちろん日本語でもない。
強いて言えば、学校の授業で聞いたことのある、古代のファンタジー言語に近い発音だった。
「え……?」
結羽が言葉を理解できず、完全に硬直していると、男は不機嫌そうに舌打ちをした。
『ちっ。なんだ、言葉が通じねえのか。これだから召喚なんてもんは面倒なんだ。俺は配線の修理で手が離せねえってのに、いきなり呼び出しやがって』
男は手元の基板とスパナを睨みつけ、一人でブツブツと文句を言い続けている。
だが、そんな謎の男のボヤキを、現実は待ってはくれなかった。
一瞬だけ未知の魔力に怯えて足を止めていたウルフたちだったが、現れたのがただの丸腰の人間(に見える男)だと認識した途端、彼らの飢餓感が再び恐怖を上回ったのだ。
結羽の背後――いや、今は男の背後から、血に飢えた数百匹の魔獣たちの群れが、怒涛の勢いで殺到してきていた。
獲物を取り返すべく、狂ったような咆哮を上げて、最前列の十数匹が一斉に跳躍する。
鋭い牙と爪が、無防備に立ち尽くす男の背中と、その後ろで倒れている結羽の喉笛めがけて迫る。
「危ないッ!!」
結羽は悲鳴を上げ、思わず両手で自分の顔を覆った。
この巨大な男がどれほどの力を持っていようとも、背後からの完全な不意打ち、しかも束になってかかってくる狼の群れを躱せるはずがない。
食い殺される。
そう覚悟した、次の瞬間。
迷宮に響き渡ったのは、男の断末魔ではなく、酷く苛立った低い怒声だった。
『やかましいな! ちっと黙ってろ!! 話してんだろうが!!』
男は、振り返ることすらしなかった。
手にしたスパナも基板も、手放すことはない。
ただ、少しだけ腰を落とし、右手の親指と中指で輪を作り、背後に迫っていた巨大な狼の鼻先に向けて、肩越しに無造作に指を弾いただけだ。




