第2話 理不尽への抗いと、置き去りの囮(後編)
「きゃっ……!?」
バランスを崩した結羽は、リュックの暴力的な重量に振り回されるようにして、冷たく硬い石の床へと激しく転がり込んだ。
擦り剥いた膝から生温かい血が滲み、強打した肩の痛みで立ち上がれない。
「パーティーの全滅だけは避けねばならない。俺たちが必ず救助隊を呼んで戻ってくる、それまで囮として耐えてくれ!」
男の言葉は、パニックによる見捨てや、純粋な悪意によるものではない。
現代のダンジョンという過酷な環境において、より多くの命を救うため、そして組織の被害を最小限に抑えるための、冷徹でセオリー通りの「損切り」だった。
結羽が手を伸ばすより早く、彼らの背中はあっという間に迷宮の角を曲がり、暗闇へと消えていった。
「あ……ぁ……」
背後から迫る地鳴りのような足音が、いよいよすぐそこまで近づいていた。
振り返れば、暗闇の中に無数の赤い瞳が、ギラギラと飢えた光を放っている。
狼型の魔獣――ウルフの群れが、鋭い牙から生臭い涎を垂らしながら、倒れ伏した獲物へと殺到しようとしていた。
死の恐怖が、真っ黒な影となって結羽の心をすっぽりと覆い尽くそうとした。
(自分が、神話級のスキルに選ばれたからって……思い上がっていたんだ)
結羽の視界が、恐怖と涙で滲んでいく。
実力もないくせに、身の丈に合わない階層にまで踏み込んで。
周囲にキャリーされてばかりで、どんどんお荷物になっていって。
少しぐらい解体やマッピングができて、器用貧乏に立ち回れたからって、こんな極限状態では、なんの役にも立たないじゃないか。
(ごめんなさい、お父さん、お母さん。……手がかりも、まるで掴めないままだった)
脳裏に浮かぶのは、真っ白な病室のベッドで、静かな寝息を立てている妹の顔だ。
定期的に面会に行き、冷たくなった小さな手を握って語りかけた日々。
(ふゆを、一人残して……)
あの子は、いつか目を覚ました時、たった一人きりの世界でどうやって生きていけばいいのだろう。
誰も守ってくれる人がいない、この冷たい世界で。
自分が死ねば、ふゆの治療費は途絶え、あの子は二度と目を覚ますことはないかもしれない。
(なんで……なんでわたしなの……!)
先頭の一匹が、結羽の喉笛めがけて大きく跳躍する。
もう、逃げ場はない。
結羽はぎゅっと目を閉じ――直後、激しい怒りが恐怖を上回って爆発した。
(……ふざけないでよ!)
見捨てられたことへの怒りではない。
何もできない、ただ消費されるだけの自分への怒りだ。
こんな理不尽な理由で、誰の記憶にも残らず、ただの『コスト』として死ぬなんて、絶対に嫌だ。
結羽は震える膝に力を込め、血の滲むような力で『古代樫の棍』を握り締め、無理やり己の身体を起こした。
「やってやるわよッ!! 来るなァァッ!!」
ヤケクソのフルスイング。
だが、その一撃はただのデタラメな素振りではなかった。
半年間、重い荷物を背負い続けて無自覚に鍛えられた足腰のバネと、泥臭いサバイバルで培われた絶妙な重心移動の賜物。
そして何より、深夜までノートに書き込み続けた魔獣の骨格構造の知識が、彼女の眼にウルフの明確な急所を映し出していた。
ドゴォッ!!
空中にいたウルフの下顎のジョイントを、重たい棍が正確に捉え、脳を激しく揺らして頭蓋を粉砕した。
光の粒子となって消えるウルフ。
結羽は血に塗れた顔を上げ、さらに飛びかかってきた二匹目の顔面を柄で打ち据え、三匹目の前足の腱を強かに叩き折る。
『LEVEL UP!』
『LEVEL UP!』
『LEVEL UP!』
結羽の視界の端で、長い間ピクリとも動かなかったステータスボードのシステム音が、狂ったように鳴り響いた。
これまで這いつくばってこなしてきたマッピングや解体、罠解除といった「裏方としての経験値」が、最初の一匹を自力で倒したことによって一気に解放されたのだ。
「いける……! わたしでも、戦える……!?」
希望の光が見えた、その直後だった。
「が、あ……ッ!?」
結羽の身体が、突然鉛のように重くなり、膝から崩れ落ちた。
全身の血管が沸騰するような異常な熱さと、視界がぐるぐると回る強烈な吐き気。
ダンジョンの過酷な理――『レベルアップ酔い』である。
得た莫大な経験値を受け止めるだけの土壌や、肉体の最適化に必要とされる栄養が、今の結羽の身体には圧倒的に足りていなかった。
急激な成長というシステムの変化に、人間としての肉体が悲鳴を上げ、強制的なシャットダウンを起こしてしまったのだ。
「あ、あぁ……身体が、動か、ない……」
莫大な魔力が体内を暴れ回り、指先一つ動かすことができない。
その絶望的な隙を、魔獣の群れが見逃すはずがなかった。
四匹のウルフが同時に跳躍し、結羽の四肢めがけて鋭い牙を突き立てようと迫る。
結羽は倒れたまま、震える腕で棍を盾のように掲げて防ぐのが精一杯だった。
ガキンッ! と牙が棍に食い込み、凄まじい力で押し込まれる。
ミシミシと木の軋む音。
迫る生臭い獣の息。
もう、無理だ。
押し潰される。
(巨壁ってなんなのよ。……テイマーって、なんなのよ!)
結羽は、魂の底から、血を吐くような声で絶叫した。
祈りでも、呪いでもない。
ただ純粋な、生への渇望。
「わたしが導き手だっていうなら……助けてよォォォォォォォッッ!!!!」
その悲痛な叫びが、冷たい迷宮の空気を震わせた、まさにその瞬間だった。
カッ……!!!
極限の命の危機という強烈な負荷がトリガーとなり、彼女の『神話級』の器の奥底で眠り続けていたスキルが、ついに次元の壁を穿った。
光の奔流が空間を激しく歪め、結羽と魔獣の群れの間に、巨大で複雑な幾何学模様の魔法陣を瞬時に描き出す。
ズォォォォォンッ!!!
鼓膜を破る轟音と共に、迷宮の石畳が大きくひび割れ、魔法陣の中からもうもうと白い煙が立ち込めた。




