第01話 理不尽への抗いと、置き去りの囮
千葉県、野田ダンジョン第六階層。
冷たく湿った石造りの迷宮に、地鳴りのような魔獣の唸り声と、硬い石畳を容赦なく削り取る無数の足音が反響していた。
普段は水滴の落ちる音すら聞こえるほど静寂に包まれているはずの地下迷宮が、今は完全な狂騒と、血と獣の生臭い匂いに満ちた地獄と化している。
壁に等間隔で掲げられた松明の薄暗い灯りが照らし出す通路を、血相を変えた探索者たちが全速力で駆け抜けていく。
彼らは、大手民間ギルド『青銀の翼』に所属する中堅パーティーの面々だった。
日頃は高価な魔法装備に身を包み、余裕の笑みを浮かべて低層の魔獣を狩る彼らの顔には、今やありありと死の恐怖が張り付いている。
彼らの背後、深く暗い通路の奥から雪崩を打って迫り来るのは、ダンジョン内において最も恐れられる現象の一つ。
モンスターハウスが何らかの要因で暴走し、階層中の魔獣が一斉に溢れ出す『魔獣大行進』――通称、モンスターパレードである。
中堅探索者である彼らの実力をもってしても、数百に及ぶ飢えた狼型の魔獣たちを真正面から受け止めることなど、到底不可能だった。
一歩でも足を踏み止まれば、一瞬で文字通り肉片も残さず食い尽くされる。
逃げるしかない。
ただひたすらに、地上へと通じる上の階層のゲートを目指して。
「チッ、足が遅いぞ荷物持ち! これ以上モタつけば、群れに飲み込まれるぞ!」
前方を走っていたリーダー格の男が、血走った目で背後へと怒鳴った。
「はぁっ……! はぁっ……!」
その悲壮な逃走劇の最後尾を、一人の小柄な少女が必死に走っていた。
彼女の名前は、前山田結羽。
年齢は15歳。
高校のダンジョン科に入学し、探索者としての道を歩み始めてから、まだ半年しか経っていない新米だ。
彼女の背中には、自身の背丈よりも遥かに巨大なリュックサックが括り付けられていた。
中には、パーティーのメンバーたちが道中で消費するための予備のポーションやテントなどの野営具、そして討伐した魔獣から剥ぎ取った重たい素材の数々が、限界まで詰め込まれている。
普通の大人でも持ち上げるのが困難なその暴力的な重量が、容赦なく結羽の細い肩に食い込み、走るたびに体力を根こそぎ奪っていく。
肺が焼け付くように熱く、呼吸をするたびに気管が悲鳴を上げる。
喉からは鉄錆のような血の味がした。
だが、彼女は文句一つ言わず、愛用の武器である古代樫の棍を杖代わりに石畳へと突き立てながら、必死に前を走る大人たちの背中を追いかけていた。
結羽がこの過酷なダンジョン探索という仕事を選んだのには、明確な理由があった。
3年前、この野田ダンジョンで発生した小規模なスタンピード――魔獣がダンジョンの外、地上の街へと溢れ出す災害に、彼女の家族は巻き込まれたのだ。
けたたましいサイレンの音と、逃げ惑う人々の悲鳴。
両親は、逃げ遅れた人々を庇い、崩れゆくダンジョンのゲートの奥へと姿を消し、今も行方不明のままだ。
そして、ただ一人助け出された妹の『ふゆ』は、その時のショックか、あるいは未知の魔力障害か、現代の医学では原因不明とされる深い昏睡状態に陥り、病院の真っ白なベッドで眠り続けている。
両親の残したわずかな資産と、国からの補助金のおかげで、住む家を失うことこそなかった。
けれど、妹に最先端の魔導治療を受けさせるためには、莫大な資金が必要になる。
そして何より、ダンジョンに飲み込まれるように消えた両親の手がかりを掴むためには、自分自身が探索者として迷宮の深淵へ挑む力を身につけるしかなかったのだ。
そんな悲壮な決意を胸にダンジョン科の門を叩いた結羽は、入学直後のスキル獲得の儀式において、歴史上でも数少ない『神話級』と鑑定されたURスキルを授かった。
テイマー系スキル、『巨壁の導き手』。
その輝かしい名前に、結羽自身も、周囲の人間たちも、彼女が未来のトップ探索者になることを疑わなかった。
大手ギルド『青銀の翼』が、まだ学生である彼女を異例の高待遇で迎え入れたのも、その圧倒的な将来性を見込んでのことだった。
だが、現実は残酷だった。
彼女のスキルは、スライム一匹、下級ゴブリン一体すらテイムすることができなかったのだ。
スキルが本人の魔力やレベルに準拠するシステムである以上、神話級の器を持つスキルを発動させるには、低レベルの結羽の魔力では全く足りなかったのか。
それとも、低級のモンスターではスキル自体が反応しなかったのか。
誰もその理由を教えてはくれなかった。
結果として、彼女のレベルは上がらず、ステータスの数値は這いつくばったまま。
戦闘においては何の役にも立たない『ハズレ枠』の烙印を押されることになった。
同級生たちからは「URスキルの無駄遣い」「万年レベル1の器用貧乏」と嘲笑われた。
それでも、結羽は諦めなかった。
前衛で戦えないのならと、魔獣の血抜きや解体の技術を必死に学んだ。
毎晩、一人で深夜まで分厚いノートを開き、魔獣の骨格構造を書き込み、マメだらけの手で解体の真似事を繰り返した。
毒草の知識を詰め込み、迷宮のマッピング技術を磨き、罠解除の構造を頭に叩き込んだ。
怪我の手当てを行い、野営の際には持ち込んだ限られた食材で、少しでも美味しく温かい料理を振る舞った。
重い荷物を背負い、探索者として生き残るため、どんな雑用でもこなす裏方として、必死にこの理不尽な世界に食らいついてきたのだ。
すべては、眠り続ける妹と、帰らぬ両親のため。
だが、効率と利益、そして『数値』としての強さだけを絶対視する現代のダンジョン業界において、戦闘力を持たない彼女の地道な努力など、システム上は無価値なものとして処理されてしまう。
「……すまない、結羽!」
突如、前方を走っていたリーダーの男が、手にした杖を背後へと振るった。
放たれた不可視の風魔法の刃が、魔獣ではなく、最後尾を走っていた結羽の足元を正確に薙ぎ払う。
「きゃっ……!?」
バランスを崩した結羽は、リュックの暴力的な重量に振り回されるようにして、冷たく硬い石の床へと激しく転がり込んだ。
擦り剥いた膝から生温かい血が滲み、強打した肩の痛みで立ち上がれない。
「パーティーの全滅だけは避けねばならない。俺たちが必ず救助隊を呼んで戻ってくる、それまで囮として耐えてくれ!」
男の言葉は、パニックによる見捨てや、純粋な悪意によるものではない。
現代のダンジョンという過酷な環境において、より多くの命を救うため、そして組織の被害を最小限に抑えるための、冷徹でセオリー通りの「損切り」だった。
結羽が手を伸ばすより早く、彼らの背中はあっという間に迷宮の角を曲がり、暗闇へと消えていった。
「あ……ぁ……」
背後から迫る地鳴りのような足音が、いよいよすぐそこまで近づいていた。
振り返れば、暗闇の中に無数の赤い瞳が、ギラギラと飢えた光を放っている。
狼型の魔獣――ウルフの群れが、鋭い牙から生臭い涎を垂らしながら、倒れ伏した獲物へと殺到しようとしていた。
死の恐怖が、真っ黒な影となって結羽の心をすっぽりと覆い尽くそうとした。
(自分が、神話級のスキルに選ばれたからって……思い上がっていたんだ)
結羽の視界が、恐怖と涙で滲んでいく。
実力もないくせに、身の丈に合わない階層にまで踏み込んで。
周囲にキャリーされてばかりで、どんどんお荷物になっていって。
少しぐらい解体やマッピングができて、器用貧乏に立ち回れたからって、こんな極限状態では、なんの役にも立たないじゃないか。
(ごめんなさい、お父さん、お母さん。……手がかりも、まるで掴めないままだった)
脳裏に浮かぶのは、真っ白な病室のベッドで、静かな寝息を立てている妹の顔だ。
定期的に面会に行き、冷たくなった小さな手を握って語りかけた日々。
(ふゆを、一人残して……)
あの子は、いつか目を覚ました時、たった一人きりの世界でどうやって生きていけばいいのだろう。
誰も守ってくれる人がいない、この冷たい世界で。
自分が死ねば、ふゆの治療費は途絶え、あの子は二度と目を覚ますことはないかもしれない。
(なんで……なんでわたしなの……!)
先頭の一匹が、結羽の喉笛めがけて大きく跳躍する。
もう、逃げ場はない。
結羽はぎゅっと目を閉じ――直後、激しい怒りが恐怖を上回って爆発した。
(……ふざけないでよ!)
見捨てられたことへの怒りではない。
何もできない、ただ消費されるだけの自分への怒りだ。
こんな理不尽な理由で、誰の記憶にも残らず、ただの『コスト』として死ぬなんて、絶対に嫌だ。
結羽は震える膝に力を込め、血の滲むような力で『古代樫の棍』を握り締め、無理やり己の身体を起こした。
「やってやるわよッ!! 来るなァァッ!!」
ヤケクソのフルスイング。
だが、その一撃はただのデタラメな素振りではなかった。
半年間、重い荷物を背負い続けて無自覚に鍛えられた足腰のバネと、泥臭いサバイバルで培われた絶妙な重心移動の賜物。
そして何より、深夜までノートに書き込み続けた魔獣の骨格構造の知識が、彼女の眼にウルフの明確な急所を映し出していた。
ドゴォッ!!
空中にいたウルフの下顎のジョイントを、重たい棍が正確に捉え、脳を激しく揺らして頭蓋を粉砕した。
光の粒子となって消えるウルフ。
結羽は血に塗れた顔を上げ、さらに飛びかかってきた二匹目の顔面を柄で打ち据え、三匹目の前足の腱を強かに叩き折る。
『LEVEL UP!』
『LEVEL UP!』
『LEVEL UP!』
結羽の視界の端で、長い間ピクリとも動かなかったステータスボードのシステム音が、狂ったように鳴り響いた。
これまで這いつくばってこなしてきたマッピングや解体、罠解除といった「裏方としての経験値」が、最初の一匹を自力で倒したことによって一気に解放されたのだ。
「いける……! わたしでも、戦える……!?」
希望の光が見えた、その直後だった。
「が、あ……ッ!?」
結羽の身体が、突然鉛のように重くなり、膝から崩れ落ちた。
全身の血管が沸騰するような異常な熱さと、視界がぐるぐると回る強烈な吐き気。
ダンジョンの過酷な理――『レベルアップ酔い』である。
得た莫大な経験値を受け止めるだけの土壌や、肉体の最適化に必要とされる栄養が、今の結羽の身体には圧倒的に足りていなかった。
急激な成長というシステムの変化に、人間としての肉体が悲鳴を上げ、強制的なシャットダウンを起こしてしまったのだ。
「あ、あぁ……身体が、動か、ない……」
莫大な魔力が体内を暴れ回り、指先一つ動かすことができない。
その絶望的な隙を、魔獣の群れが見逃すはずがなかった。
四匹のウルフが同時に跳躍し、結羽の四肢めがけて鋭い牙を突き立てようと迫る。
結羽は倒れたまま、震える腕で棍を盾のように掲げて防ぐのが精一杯だった。
ガキンッ! と牙が棍に食い込み、凄まじい力で押し込まれる。
ミシミシと木の軋む音。
迫る生臭い獣の息。
もう、無理だ。
押し潰される。
(巨壁ってなんなのよ。……テイマーって、なんなのよ!)
結羽は、魂の底から、血を吐くような声で絶叫した。
祈りでも、呪いでもない。
ただ純粋な、生への渇望。
「わたしが導き手だっていうなら……助けてよォォォォォォォッッ!!!!」
その悲痛な叫びが、冷たい迷宮の空気を震わせた、まさにその瞬間だった。
カッ……!!!
極限の命の危機という強烈な負荷がトリガーとなり、彼女の『神話級』の器の奥底で眠り続けていたスキルが、ついに次元の壁を穿った。
光の奔流が空間を激しく歪め、結羽と魔獣の群れの間に、巨大で複雑な幾何学模様の魔法陣を瞬時に描き出す。
ズォォォォォンッ!!!
鼓膜を破る轟音と共に、迷宮の石畳が大きくひび割れ、魔法陣の中からもうもうと白い煙が立ち込めた。
はじめましての方ははじめまして、お久しぶりの方はお久しぶりです。
みやもと春九堂@月館望男と申します。
本作『よろず屋ドレイク召喚記 ~異世界で火龍に転生したおっさん、現代ダンジョンに召喚される~』は、完結済みの拙作の『【外伝】悪役令嬢の兇器はドス黒い鈍器《パイプ椅子》です ~よろず屋ドレイクのおっさんは、なかなか穏やかに過ごせない。β版~』から誕生しました。
よろず屋ドレイク、という異世界に火龍として転生したおっさんの物語が前日譚として存在しますが、そちらを読んでも読まなくても楽しめるように書いていくつもりです!(前日譚はコチラ:https://ncode.syosetu.com/n1712lk/285/)
おっさんを書くのが楽しすぎるので、娯楽作を目指すおとぎ話として書いていきますので、よろしければお付き合いいただければ幸いです。




