第4話 火龍のぼやきと、規格外のデコピン(後編)
デコピン。
子供の悪ふざけのような、その極小の動作。
パァァァァァンッ!!!!!
だが、放たれた音は、爆弾が直撃したかのような凄まじい轟音だった。
男の指先から、空気が極限まで圧縮されて生み出された目に見えない衝撃波が放たれる。
それは巨大なウルフの顔面を的確に捉え、頭蓋を粉砕するどころか、細胞の一つ一つに至るまで完全に消し飛ばした。
さらにその余波は、後続の魔獣たちをも巻き込み、巨大な円錐状の暴風となって通路の奥へと広がっていく。
「ギャンッ!?」
「キャインッ!!」
最前列で牙を剥いていた数十匹の狼たちが、まるで暴風に巻き上げられた枯れ葉のように、抗う術もなく後方へと吹き飛んでいく。
彼らの肉体は、迷宮の分厚い石壁に激突し、断末魔の悲鳴を上げる間もなく光の粒子となって次々と消滅していった。
血飛沫すら巻き起こらない、圧倒的な質量の暴力。
たった一発のデコピン。
それだけで、魔獣の先頭集団が文字通り、完全に「蒸発」したのだ。
「え……?」
顔を覆っていた手をそっとどけた結羽の思考が、完全に停止した。
魔法の詠唱も、魔力の発光もなかった。
それなのに、頑強なはずのダンジョンの石壁には、隕石でも落ちたかのような巨大なクレーターが穿たれている。
『……なんだぁ……?』
しかし、そのデコピンを放った当の男は、自分の指先をまじまじと見つめながら、ひどく不満そうに眉をひそめていた。
『千分の一も魔力が出てねえ。……魔素が薄いからか?』
数十匹の魔獣を一瞬で蒸発させ、壁を穿つほどの異常な破壊力を見せておきながら、その破壊力に驚くでもない。
まるでオーダー違いの料理をテーブルに届けられたかのように憮然とした表情で、己の指先とウルフを弾き飛ばした先を何度か見比べている。
男は首の骨をゴキリと鳴らし、ようやくゆっくりと結羽の方へ向き直った。
『こりゃ大陸の言葉じゃダメか……』
男は何かを考えるように無精髭の生えた顎を撫で、小さく息を吐き出した。
そして、ゆっくりと、ひどく懐かしいものを口にするような調子で言葉を紡いだ。
『――「おい嬢ちゃん、助けがいるか?」なんてな……』
それは、紛れもない、結羽が聞き慣れた「日本語」だった。
どこかドスの利いた、ガラが悪いが、腹の底に響くような温かみのある日本語。
異世界の住人のような規格外の力を持つ男から突如として飛び出した、母国語。
その「助けがいるか?」という不器用な温かさに触れた瞬間、結羽の中で張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
ずっと一人で強がって、重い荷物を背負って、雑用係として蔑まれても必死に笑って耐えてきた半年間。
誰にも評価されず、最後には囮として見捨てられた冷たい迷宮で、初めて、無条件に自分を庇ってくれる存在が現れたのだ。
目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
声も出せないまま、結羽は何度も、何度も大きく首を縦に振った。
「なるほどな。どういうことやらまだわからんことだらけだが、状況だけはわかったぜ」
男は、泣きじゃくりながら必死に頷く少女を見て、口の端を少しだけ吊り上げた。
「聞きたいことは山とあるが、後回しだ。……お嬢ちゃん、この棍、借りるぜ?」
男は、結羽の足元に転がっていた棍を、空いた手でひょいと拾い上げた。
その手にはまだスパナと基板が握られており、実質的に指の数本だけで、結羽の背丈ほどもある太い棍を弄んでいる。
男は棍を二、三度軽く手のひらで叩き、バランスと重さを確かめるように振った。
「悪くねぇ棍だ! 材質は?」
「こ、古代樫……!」
結羽が涙声で絞り出すように答えると、男は満足げに深く頷いた。
「よく手入れしてある! 俺の力でも数発は耐えられそうだ」
その言葉に、結羽の胸が熱くなった。
ただの器用貧乏だと、誰も褒めてくれなかった彼女の努力の結晶である武器の手入れ。
それを、こんな途方もない強者があっさりと、そして確実に肯定してくれたのだ。
「……ここはどこだ?!」
「野田ダンジョンの第六階層!!」
「ダンジョン? 野田? 野田ってなぁ、あの醤油臭え千葉の野田か?」
「そう、です!」
会話のキャッチボール。
それは、背後で再び態勢を立て直し、先ほどの惨劇すら理解できずに怒り狂って殺到してくる、残りのモンスターパレードの群れを横目に見据えたまま行われていた。
ブォォォォォンッ!!
結羽と会話を交わすその合間に、男は振り返ることすらなく、片手間で古代樫の棍を振るった。
魔力が出ないなら、純粋な物理的質量で弾き飛ばすまで。
ただの、無造作な横薙ぎ。
だが、その一振りから生み出された風圧は、まるで巨大な竜巻のように迷宮の通路を蹂躙した。
襲いかかってきた魔獣の群れが、棍に直接触れる前に、巻き起こった暴風によって軽々と宙へ巻き上げられていく。
悲鳴を上げる間も与えられない。
数十匹のウルフたちが、見えない巨大な壁に激突したかのように次々と迷宮の天井や壁に叩きつけられ、光の粒子となって消滅していった。
男にとって、中堅パーティーを壊滅の危機に追いやった数百の魔獣の群れなど、ただの雑草の草刈りと何ら変わらない作業のようだった。
瞬く間に通路から魔獣の姿が消え去り、迷宮に不気味なほどの静寂が訪れようとした、その時だった。




