第213話 神話級のステゴロと、反逆のカウンター(後編)
巨壁と呼ばれた火龍本来の1/100の力を解放しているとはいえ、人間の肉体の枠組みで脳への直接的な強撃を受ければ、平衡感覚を一瞬、奪い去られる。
視界がぐるりと回り、脳が激しく揺れる。
強固にロックしていたはずの両手の力が抜け、ルアナの足首がすっぽりと抜け落ちた。
ルアナはその絶望的な隙を見逃さず、空中で体勢を立て直すと同時に、ドレイクの軸足を鋭い刈り足で払った。
ズシャァァァッ!!
バランスを崩していたドレイクの巨体が、受け身も取れずに神殿の濡れた床へと無様に倒れ込んだ。
背中と後頭部が冷たい大理石に叩きつけられ、激しい水飛沫が上がる。
床を滑るように倒れ伏したドレイクを見下ろし、ルアナは勝利を確信した。
彼女は自らの身体ごと空中へと鋭く跳躍し、空中で前転を描きながら、倒れ伏したドレイクの顔面めがけて、全体重と水の魔力のすべてを乗せた必殺の『シバータ(前転踵落とし)』を真っ直ぐに落としてきた。
落下する、恐るべき質量と推進力を乗せた踵。
水龍の加護によって極限まで圧縮されたその一撃が直撃すれば、頭蓋骨など一瞬で粉微塵に粉砕される。
回避は不可能。
防ぐ手立てもない。
だが、その死の影が目前に迫ったまさにその瞬間。
床に倒れ伏していた黒ジャージの強面のおっさんの口元が、ニヤリと、これ以上なく凶悪に歪んだ。
「――待ってたぜ、お嬢ちゃん」
ドレイクは、仰向けにダウンした状態から、背中と腰、そして腹筋に至る全身の筋肉のバネを極限まで収縮させた。
それはまるで、極限まで圧縮された巨大な鋼のスプリングが弾けるかのような動きだった。
そのまま全身のバネを使って強引に上半身を跳ね起こし、ルアナの落下してくる踵めがけて、一番頑強な部位である自らの額を真っ直ぐに、下から上へと突き上げるようにして叩き込んだ。
カウンターの頭突き。
それは、全身から絞り出した仙気を一点集中で凝縮させた、絶対の『剛の理』。
ゴォォォォンッ!!!
神殿全体が、まるでもぎ取られたかのように激しく震え、大音響が轟いた。
ルアナの全体重が乗った必殺のシバータは、ドレイクの跳ね起きざまの頭突きによって完全に軌道を止められ、激突した空間からすさまじい衝撃波が円形に吹き荒れた。
自らの運動エネルギーを完全に跳ね返されたルアナは、その反動で足首から膝にかけて強烈なダメージを受け、空中で完全に姿勢を崩した。
ドレイクはその激突の瞬間、衝撃で脳をさらに激しく揺らされながらも、空いた両手を瞬時に伸ばした。
そして、バランスを崩して落下してくるルアナのその蹴り足を、ガシィッと、今度は絶対に逃がさぬよう完璧にキャッチした。
「一本もらうぞ」
ルアナの蹴り足の爪先を脇に抱えるや、身体ごと強引に膝を軸に踵を捻る。
膝関節を捻じ切る殺し技、「ヒールホールド」である。
元より強靱な身体を持つドラゴノイドであり、水龍の加護を受けた巫女とはいえ、二足歩行である以上、関節の可動域や関節の構造は決まっている。
ブチブチッと怖ろしい音を立てて、ルアナの右膝の靱帯は捻じ切られた。
「ギャ、アァァァァァァァッッ!!!?」
神殿の美しい静寂を、膝を構成する筋腱が破壊される生々しい破壊音と、ルアナの悲痛な絶叫が切り裂いた。
膝の関節を強引にねじ曲げられ、靱帯を断裂したルアナは、たまらず後方へ跳ねるようにして着地し、激痛に身をよじらせた。
右足は完全に力を失い、奇妙な角度でだらりと垂れ下がっている。
ドレイクはゆっくりと立ち上がり、首の骨をゴキリと鳴らして、首のタオルで顔の泥を拭った。
「……もういいんじゃねえか? お嬢ちゃん。これ以上やると、お前さんの足が一生動かなくなっちまうぞ」
ドレイクは、苦痛に顔を歪めるルアナを見つめ、静かに問いかけた。
だが、水龍の巫女の瞳に、降伏の文字は存在しなかった。
ルアナは、完全に破壊されて力なくだらりと垂れ下がった右足を引きずりながらも、残された無事な左の軸足と、背中の巨大な「水龍の尾」を激しくうねらせ、再びドレイクめがけて攻勢に出た。
「水龍様の、試練は……っ、まだ終わって、いません……!!」
その忠義と執念。
ルアナは軸足を使わない変則的な跳躍から、水の気を纏わせた激しい尾の薙ぎ払いと、左の蹴り弾を交互に繰り出してくる。
だが。
右膝を完全に破壊され、絶対的な「重心の支点」を失った彼女の攻撃は、先ほどまでの目にも止まらぬ流麗さと威力を完全に失っていた。
軌道は単調で、速度は半分以下にまで落ちている。
ドレイクにとって、そんな手負いの攻撃など、子供の遊びを躱すよりも容易かった。
「お前さんのその闘魂は、嫌いじゃねえ。……だが、無茶とド根性は、別の話だぜ」
ドレイクは、ルアナが放った最後の、速度の落ちた左の蹴り足を、脇でガシィッと優しく、しかし強固に捕らえ、挟み込んだ。
足関節を狙う完璧な姿勢。
もはやルアナには、抵抗する術は残っていなかった。
「こっちも、もらっとくか」
それでも無理に跳ね飛んでホールドされた体勢から逃れようとするルアナに対し、ドレイクは鰐が咬みついた獲物を仕留めるデスロールのように、ルアナの左足ごと自らの巨体を勢いよく回転させた。
プロレス技――『ドラゴンスクリュー』で、逆足の膝も破壊したのだ。
メキキィィッッ!!!
「あ、がぁ、あぁぁぁァァッッ!!!?」
生々しい関節の粉砕音が神殿内に木霊し、ルアナのもう片方の無事だった左の膝関節も、完全にあり得ない方向へとねじ曲げられ、破砕された。
両膝を完全に無力化され、絶対的な戦闘能力を失った水龍の巫女は、水飛沫を上げて神殿の冷たい床へと崩れ落ち、ついにその戦いの幕を閉じた。
ドレイクはふぅと長く熱い息を吐き出した。
勝負はあった。
ドレイクがそう確信した、まさにその刹那だった。
フッ、と。
倒れ伏していたルアナの身体から、突如として尋常ではない冷気が吹き荒れた。
痛みを堪えていた、彼女の澄んだ水色の瞳の奥から、理性の光が完全に消え去り、底知れない深淵のような暗闇が広がった。
『――年若い眷属の娘を打倒したとて、どれほどの『試し』かよ。お主の不遜な態度は、昔から何も変わらんな、火龍よ。……ここからは、儂が変わるわい』
ルアナの薄い唇から零れ落ちたのは、彼女自身の丁寧で涼やかな少女の声ではなかった。
それは、地脈の底から響くような、実質数万年、悠久の時を生き抜いた年経た何者かの、尊大にして冷徹な響きを帯びた『水龍そのもの』の声だった。
ルアナの肉体に、神代の古代龍である水龍が完全憑依を果たしたのだ。
ルアナの細い身体が、まるで巨大な津波のエネルギーを内包したかのように、青白く、そして禍々しい水の魔力で満たされていく。
破壊されていたはずの両膝の関節が、水龍の神話級の治癒魔力によって瞬時に、そして強引に元の形へと再構築され、彼女は糸で吊られた操り人形のように、ゆらりとその場に立ち上がった。
空間そのものを凍てつかせるような、神話級の絶対的な魔力が、ドレイクを完全に呑み込もうと異常なまでの膨張を始めた。




