第214話 傷だらけの治療師と、不退転の弟子入り(前編)
ドレイクがアマゾンの奥地で、水龍の巫女による『試し』を受けている、その頃――。
埼玉県川口市。
古くから日本一の植木の街として名高く、ねっとりとした粘土質の赤土と豊かな常緑樹が広がるその湿地帯の奥深くに、寂れた古刹『浄安寺』は静かに佇んでいた。
黒田が運転する、ふゆ、彩斗美が乗り込んだ高級SUV、そして佐修院家が手配した魔導結界付きのポンプ車と、念のため冷蔵状態で運送する方がいいのではという、黒田の気働きで、佐修院家がもつコールドチェーンの冷蔵車までを含んだ車列は、夜が迫る時間帯に、境内裏手の浄安寺の駐車場にずらりと並んでいた。
「あー、はいはい。いらっしゃい。……いやぁ、さすがは名家の佐修院さんちだねえ。ポンプ車まで高級車仕様とは。細々とお寺を営んでるぼくには、ちょっと目の毒だねぇ、あはは」
慈洋は、竹箒を杖のようにして寄りかかり、へらへらとした、掴みどころのない軽い笑い声を上げた。
「安行慈洋様、ですね。佐修院彩斗美です。先日はお電話での快諾、心より感謝申し上げます。……かつては、大変失礼いたしました」
彩斗美が一歩前に出て、かつてのSSランクとしての威風を保ちながらも、丁寧な物腰で深く頭を下げた。
「いやいや、そんなに固くならなくていいですよ。……へえ、黒田さんから電話で聞いたけれど、本当に完全復活したんですねぇ。前に依頼の話をされたときには『ダンジョン探索中の負傷で寝たきりになっている』とだけ聞かされていたけれど……。うんうん、姿勢にも身のこなしにも澱みなし。いやあ本当に、本当によかった」
慈洋は、彩斗美の健常な姿を見て、いつものへらへらとした響きの奥から、ほんの一瞬だけ、本物の治療師としての温かで深い、心の底からの安堵の息を漏らした。
だが、すぐにまた、猫背に戻ってボヤき始める。
「それはさておき、うちのお寺は檀家さんも少なくて、年中火の車でしてね。こんな立派な車で乗り付けられちゃうと、なんだか肩身が狭くなっちゃうね。……あ、美味しいお饅頭、持ってきてくれました?」
「ええ、わたくしどもの地元野田市の銘菓をお持ちしました……ですが、本当に御礼がこれだけでよろしいのですか?」
彩斗美が真摯に問いかけると、慈洋はへらへらと手を振って笑った。
「いいのいいの、電話でも話しましたけど、生活水源にしているわけじゃないですし、こんこんと湧き出ていますからねぇ。以前鑑定してもらったら、少なくともぼくが生きている間に枯れることはないって話ですから。遠慮なく持っていってくださいよ」
その大人のやり取りが終わるのを見計らい、ふゆが一歩前に出て、元気よく頭を下げた。
「あの、安行さん、はじめまして! 前山田ふゆです! 今日は姉のためにお寺の水をわけていただいて、本当にありがとうございました!」
「はいはい、前山田ふゆちゃん、だね。丁寧な挨拶をどうも。さて、お姉さんが大変みたいだね。黒田さんから軽く話は聴いたけれども、よければふゆちゃんからも詳しく聞かせてもらえるかな?」
「はい。お姉ちゃんはダンジョン探索者なんですが、今お姉ちゃんの体の中では、新宿ダンジョンで取り込んだ魔獣のエネルギーと、『火龍の加護』の熱がぶつかり合って、経絡が焼け切れそうになっています。ただの冷たい水じゃダメなんです。お姉ちゃんの中にある熱に負けないくらい強くて、清浄な『水の気』を持った水で、外側からも内側からも熱を宥めないと、器が焼き切れてしまいそうなんです」
ふゆが真剣な眼差しで的確な見立てを伝えると、慈洋は少しだけ驚いたように目を丸くした。
「ダンジョンで取り込んだ気と『火龍の加護』の暴走、ねえ……いやあ、ここ二十年かそこいらで、世の中はすっかり様変わりしちゃったでしょう? スキルとか、ステータスとか? ダンジョン探索を生業にしている人達には、色々なことが起こるもんなんだねえ……」
慈洋は頭を掻きながら、へらへらと笑った。
「あ、ふゆちゃん、ぼくのことは慈洋和尚さんとでも呼んでね。本名は慈洋なんだけどね、お坊さんは名前を音読みで呼ぶんだ。よろしくね。……それにしても『火龍の加護』か……ひょっとして……いやいや……それにしたって霊脈や経絡が焼け焦げるほどの熱なんてなぁ……」
そう自己紹介をすると、慈洋は竹箒に顎を乗せ、ブツブツと何かを呟きながら考え込み始めた。
そんなへらへらと掴み所のないような慈洋の様子を見ながら、ふゆはおでこに跳ね上げていたUIゴーグルを静かに下ろした。
(この人の、体の中……どんな気が流れてるの……?)
ふゆは魔力視を展開して、『裏』では有名な治癒師なのだという慈洋の身体をじっと見つめた。
その瞬間。
ふゆの大きな瞳が、驚愕と言葉を失うほどの戦慄に見開かれた。
視界に映し出された慈洋の体内。
そこには、青く澄み切った、清らかな『水の泉』が無限の魔力を湛えていた。
だが、それ以上にふゆを戦慄させたのは、彼の全身を巡る経絡の隅々にまで、びっしりと刻まれていた無数の傷跡だった。
ボロボロに引きちぎれ、歪に変形し、それを強引に繋ぎ合わせたような痛々しいパッチワーク。
「……っ!」
ふゆが思わず息を呑むと、慈洋が呟きをやめ、へらへらと笑いながらふゆを見た。
「おや、なにか不思議な視線を感じると思ったら、ふゆちゃんは『視える人』なんだね?」
「あ……ご、ごめんなさい! 勝手に、覗いちゃって……」
ふゆはハッとして慌ててゴーグルを跳ね上げ、深く頭を下げた。
興味本位で不躾に魔力視を使ってしまったことを、必死に詫びる。
「まぁ、こんな冴えないおっさんが住職やっているお寺の井戸水がって、不安になる気持ちはわからんでもないからね、構わない構わない」
慈洋は手をひらひらさせながら笑い、ふゆの前に歩み寄った。
「それにしても、ふゆちゃんの手は絆創膏だらけだね。よし、じゃあこっちに来て。黒田さんと佐修院さんは、先にポンプ車のホースやタンクの準備をしておいてもらえるかな? ぼくは、ふゆちゃんと少し話があるからさ」
慈洋に促され、ふゆは境内へと入り、本堂の脇へと進んだ。
そこには、黒光りする古びた鋳鉄製の手押しポンプが佇む井戸があった。
慈洋が慣れた手つきでポンプを動かし、傍らの木桶になみなみと冷たい井戸水を汲み出す。
「じゃあ、ふゆちゃん、絆創膏をはがして、この木桶の水に手を入れてごらん」
「……はい」
ふゆは言われた通りに絆創膏を剥がし、不慣れな解体作業で無数の切り傷がついた両手を、木桶の冷たい水の中へ浸した。
夏だというのに、その井戸水の冷たさが、容赦なく傷口に鋭くしみる。
「つめたっ……」
ふゆが肩をすくませたそこへ、慈洋が自らの大きな両手を水の中へ差し込み、ふゆの小さな手をそっと握った。




