第212話 神話級のステゴロと、反逆のカウンター(前編)
地球の裏側、南米アマゾンの最奥に隠されたドラゴノイドの地下神殿。
外界の光を完全に遮断した巨大なドーム状の空間は、今代の水龍の巫女・ルアナが展開した『水の結界』によって完全に外界から切り離され、逃げ場のない闘技場と化していた。
ルアナは、大河のうねりと同調するように、その場で滑らかに身体を左右へと揺らしている。
変幻自在の舞闘――カポエイラ。
基本ステップ『ジンガ』の足運びが、濡れた大理石の床に規則的なリズムを刻む。
対するドレイクは、着ならした黒いジャージの袖を捲り上げ、丸太のように太い両腕をだらりと下げて無手で構えていた。
今、ドレイクの全身に満ちているのは、アストライアの神話の時代に誇った、火龍としての『本来の姿』のものではない。
地球という魔素の薄い環境と、召喚者である結羽の未熟な器に引きずられ、彼はこの人間の姿へと強制的に制限されていた。
かつて召喚された当初、彼が絞り出せた出力は本来の『一万分の一』。
魔素の濃いダンジョン内でさえ『千分の一』に過ぎなかった。
だが、結羽が数々の死線を越えて器を拡張したことで、パスを通じて引き出せる力も劇的に向上している。
現在、地上で千分の一。
そして、この魔素の濃密なアマゾンの境界型ダンジョンの底であれば――本来の『百分の一』の仙気と出力を引き出すことができる。
百分の一とはいえ、神代の火龍が練り上げる闘気。
それがドレイクの肉体を鋼のように補強し、絶対的な『物理の理』を支えていた。
(百分の一でも出せりゃあ十分だ。結羽を救うために、とっととこいつを黙らせて『雫』をもぎ取らせてもらうぜ)
一触即発の極限の緊張。
その静寂を切り裂くように、ルアナの足が、鏡のように美しい濡れた床を強く弾いた。
バシャアッ!!
床の水を激しく吹き飛ばし、彼女のしなやかな巨躯が、文字通り一瞬にして目の前から掻き消えた。
ジンガのステップの踏み込みから、一切の予備動作なく一気に距離を詰める驚異的な神速。
次の瞬間、ルアナの引き締まった褐色の腰の回転が生み出す爆発的な遠心力が、強烈な『内回し蹴り』となって、ドレイクの側頭部へと真っ直ぐに迫った。
キィィィンッ! と、空気を引き裂く凄まじい風圧。
ルアナの放った蹴りには、高圧の水流と、重いアマゾンの泥水が遠心力に引きずられる形でウォーターカッターのように纏わりついていた。
コンクリートの塊や鉄骨の壁であれば、綿菓子を千切るかのように一瞬で粉々に吹き飛ばし、消滅させてしまうほどの絶対的な破壊力。
だが、ドレイクは避けることも退くこともしなかった。
彼はだらりと下げていた太い前腕をスッと持ち上げ、あえてその一撃をガードで真っ向から受け止めた。
バヂバヂッッ!!!
鞭のようにしなる、しなやかで鋭い蹴りの連撃。
それがドレイクの前腕に衝突した瞬間、火龍の仙気と水龍の冷気が触れ合い、高圧のショート音のような破裂音が連続して神殿内に響き渡った。
ドレイクは、頑強な筋肉と1/100の仙気でその突進を微動だにせず受け止め、焼け焦げるような魔力の蒸気の中で、口角を獰猛に吊り上げた。
「なるほど、悪かねえ。だが、グラップラー相手に足を差し出すのは悪手だぜ?」
グラップラーにとって、相手の伸びきった四肢は、関節を極めるための格好の取っ手に過ぎない。
ドレイクはガードした瞬間に筋肉を硬直させて衝撃を殺し、強引に距離を潰してルアナの足首を掴み取ろうとした。
だが、水龍の巫女の流麗なコンビネーションは、そこで止まりはしなかった。
ルアナは蹴り足を床に着くよりも早く、驚異的な体幹のバネで両手を床へと突き、側転するようにしてもう片方の足をドレイクの顔面めがけて鋭く跳ね上げた。
カポエイラの空中での三次元的な連続蹴り。
ドレイクは掴みかけていた腕を瞬時に引き戻し、すぐさま上体を大きく反らして、追撃の蹴りを紙一重で躱した。
蹴りと共に放たれた刃のように鋭い水流が、鼻先数ミリを掠めて天井へと突き抜け、大理石のドームに深い亀裂を刻み込む。
二人は軽く間合いを取り、静かに互いの理合いを測る。
神殿の結界内に、ピチョンという水滴の音が響く。
だが、その静寂は次の瞬間、ルアナの猛烈な波状攻撃によって完全に粉砕された。
水龍の巫女の攻撃速度が、先ほどまでとは比較にならないほどに急上昇し、目にも止まらぬ速さへと跳ね上がる。
カポエイラ特有の大きくアクロバティックな動きは影を潜め、実戦における殺戮のための、直線的で冷徹な連撃へと洗練されていた。
両手を床につき、後方からサソリの尾のように突き上げられる刺突蹴り。
大気中の水分を凝縮し、旋風となって襲いかかる鋭い回し蹴り。
そして、ドレイクの足元の地盤を強引に削り取るような、低空からの鋭い刈り足。
一撃一撃が、時速数百キロで突進してくる大型トラックの衝突にも匹敵する推進力の塊。
床を蹴るたびに大理石が砕け散り、舞い上がる水飛沫が青白い刃となって襲いかかる。
だが、ドレイクは慌てなかった。
彼はその頑強な身体とガードの技術で、敵の打撃を的確に捌き、威力を逃し続けた。
ドゴォォンッ!!!
打撃が衝突するたびに衝撃が神殿の石畳を砕く。
ドレイクは泥まみれになりながらも、肉体と感覚のすべてを使って、ルアナの高速の攻撃の中から、次に組み付きを仕掛けるための最適なタイミングを冷静に計り続けていた。
相手の攻撃の速度が速ければ速いほど、そのベクトルが一直線になればなるほど、次の切り返しの瞬間に生じる『重心のズレ』は大きくなる。
物理的な肉体を動かしている以上、その武術の理から逃れることはできない。
ドレイクが、ルアナの足払いを躱し、強引に組み付こうと一歩踏み込んだ、その瞬間。
ルアナは床に手をついてバク転するように華麗に躱し、そのまま身を翻す。
側転の要領で身体を捻りながら、頭部を狙った連続の側転回し蹴り『エスドブラード』が放たれる。
右、そして左。
ドレイクは、左の蹴りが放たれたタイミングを完璧に見切り、分厚い筋肉で覆われた肩と首で、その蹴り足を受け止めるや、両手でそのままホールドした。
完璧なタイミング。
半分逆立ちになった状態で蹴り足を獲られた以上、いかなる体術の達人であろうとも、次の動作に繋ぐことは不可能。
これで動きを完全に封じた――そう確信した、まさにその刹那だった。
ビシィィッ!!!
拘束されたルアナの腰の辺りから、人間には存在し得ない不気味な影が、目にも止まらぬ速さで射出された。
それは、水龍の加護を極限まで取り込み、巫女の肉体に具現化した、水の魔力を帯びた巨大な尾。
しなやかで、かつ鋼鉄以上の硬度を誇る水龍の尾が、至近距離の死角から、ドレイクの側頭部を強かに打ち付けた。
ゴガァァァンッッ!!!
とんでもない衝撃がドレイクの脳を揺らした。




