第210話 留守番の決意と、地球の裏側の拠点(中編)
日本で留守番をする結羽が、静かに「待つ覚悟」をその胸に定めていた、まさにその同じ時間帯。
舞台は一転して、酷暑の太陽と、むせ返るような大気の湿度が支配する、地球の裏側――南米ブラジル、アマゾナス州の州都マナウスへと移っていた。
中東経由での果てしなく長いフライトを終え、マナウス国際空港のロビーに降り立ったドレイクは、まとわりつくような熱帯特有の熱気に顔をしかめながら、ジャージの首に巻いた使い古しのタオルで汗を拭った。
「ミスター・ドレイクですね? お待ちしておりました! 佐修院家より手配を承っております、現地ガイドのカルロスです」
人混みの中から、日に焼けた肌にアロハシャツを着た日系ブラジル人の初老の男が、流暢な日本語で愛想よく近づいてきた。
彼はドレイクの、身長185センチを超え、丸太のように太い四肢と強面の巨体を前に一瞬だけビクッと肩をすくめたものの、すぐにプロの笑顔を取り繕った。
「長旅お疲れ様でした。佐修院家からは最上級のVIP待遇をと仰せつかっております。まずはマナウス市内でも最高級のホテルにスイートルームをお取りしてございます。お食事はシュラスコになさいますか、それとも――」
「悪いが、そんなもんはパスだ。ホテルだのなんだのはお前さんに任せる。俺はすぐにでもアマゾンに向かいてえ」
ドレイクは、ガイドの愛想の良い提案を、重々しい声で即座に遮った。
「えっ……? す、すぐに、ですか? しかし、アマゾンの奥地となると準備も必要ですし……」
「行く先は未踏のジャングルどころか、ダンジョンになってるって話だ。一日……いや、二日くらいはかかるだろうよ。お前さんは、通信が繋がるギリギリの、連絡拠点にできる現地の集落まで案内してくれりゃいい。戻ったらそこから連絡する」
ドレイクの黄金の瞳が、有無を言わさぬ迫力でカルロスを見据えた。
その瞳の奥には、地球の裏側で高熱に苦しんでいる弟子の姿が焼き付いている。
豪華なベッドで寝たり、優雅に飯を食っている暇など、今の火龍には一秒たりとも存在しなかった。
「わ、わかりました……! すぐにボートと車を手配します!」
カルロスはドレイクの気迫に圧倒され、慌ててスマートフォンを取り出し、現地のコネクションをフル回転させて移動の手配を始めた。
数時間後。
四輪駆動のオフロード車で舗装されていない泥道を走り抜け、さらにエンジン付きボートに乗り換えて濁ったアマゾン川の支流を遡上する。
鬱蒼と生い茂る熱帯雨林と、濁流に潜むワニやピラニアの気配。
アマゾン特有の息苦しい湿度と泥臭い匂いが、ドレイクの鼻腔を容赦なく刺激した。
「ミスター・ドレイク。ここが、外部と通信が繋がるギリギリの原住民の集落です。これより先は完全に未踏の魔境……巨大な魔獣も出没する境界型ダンジョンと化しています。本当に、お一人で行かれるおつもりですか?」
「ああ、十分だ。案内ごくろうさん」
ボートが小さな集落の船着き場に接岸するや否や、ドレイクは軽い身のこなしで陸地へと飛び移った。
「あとは近くの街で俺からの連絡を待っててくれ。そう長くはかからねえ」
カルロスが何か言いかけるよりも早く、ドレイクは一切の迷いなく、鬱蒼としたジャングルの奥深くへと向かって、大きな背中を揺らしながら泥濘の中へと足を踏み入れていった。
◆◆◆
連絡拠点とした原住民の集落を出て、黄龍の指し示す方向へとアマゾンの奥へ奥へと進むドレイク。
巨大な蛇やワニなどを退けつつ進むと、鬱蒼とした熱帯雨林の環境を、さらに煮詰めたような湿度と、その果てにはスコールが降り注いでいた。
圧倒的な『水の気』。
結界を踏み越え、境界型ダンジョンに足を踏み入れた瞬間だった。
物理的にも魔素的にも濃密な『水の気』が纏わりつく。
それは『火の気』の根源たる神代の火龍であるドレイクにとっては、極めて不快な環境であり、ともすれば不利な環境でもあった。
だが、愛弟子にして並行世界の位相を超えた曾孫である結羽を救うという強い意志を持ったドレイクにとって、そんな環境は些末な問題に過ぎなかった。
ドレイクは結羽の器の拡張に伴い取り戻した、本来の百分の一程度――その力を惜しげもなく解放していた。
体にまとわりつく雨や湿気は触れるより先にジュウッと音を立てて蒸発していく。
襲いかかるピラニアを数十倍のサイズにしたような、飛びかかってくる人食い魚の魔獣を無造作に打ち払い、十メートルを超すようなワニや蛇の魔獣を踏み潰す。
行く手を塞ぐ蔓や枝を黒鋼の剣鉈で打ち払いながら、さながら無人の野を行くが如く、密林の奥へ奥へと進んでいった。
◆◆◆
地表のあらゆる光を遮るほどに巨大な樹々の隙間を抜け、さらに地脈の底へと続く洞窟を抜けた先に、そのエリア型ダンジョンの最深部は口を開けていた。
ドーム状に広がる巨大な地下空間。
そこは、通常のダンジョンのような冷たく無機質な岩肌ではなく、澄み切った地下水が幾何学的な水路となって縦横無尽に走り、その周囲に美しい白い石造りの神殿が佇む、ドラゴノイドの神殿集落であった。
水陸両生の生活に特化し、水龍の清澄な加護を強く受けて暮らす、誇り高き水龍の民。
その集落の境界線に、一人の巨漢が、泥だらけのジャージ姿のドレイクは、のっそりと足を踏み入れた。
だが、彼がその場に一歩足を踏み入れた瞬間、水龍の民の集落全体に、凄まじい緊張感が走った。
彼らが誇り、体内に宿しているのは、清らかで、澄み切った絶対零度の「水の気」。
対して、ドレイクの全身から漏れ出しているのは、物理法則すらもへし折りかねない、神話級火龍としての絶対的な「極炎の熱気」であった。
水と火。
相反する属性の激突。
「シャァァァァッ!!」
「侵入者だ! 火龍の覇気を感じる! ……武器を構えろッ!!」
水路の影から、白い大理石の物陰から、鋭い槍や弓を持ったドラゴノイドの若い戦士たちが、次々と飛び出し、ドレイクの周囲を幾重にも取り囲んだ。
彼らの放つ殺気と、冷たい水の魔力の矢が、一斉にドレイクの大きな身体へと向けられる。
一触即発の、極限の緊張。
通常の探索者であれば、一瞬にして塵にされるような絶体絶命の包囲網。
だが、ドレイクは、無造作にベルトにさした黒鋼の剣鉈を手にする素振りも、ドラゴノイド達の包囲に戦闘の構えをとる様子も見せなかった。
彼は、ただ静かに、ジャージの首に巻いた使い古しのタオルを、自らの大きな手でぎゅっと無造作に握りしめた。
それから、ドラゴノイドたちの殺気を見据えたまま。
ゆっくりと、その185センチの巨躯を折り曲げ、深く、深く、彼らの前に頭を垂れた。
「――ことを構えに来たんじゃねえ。……この通りだ、水龍の民の衆」
ドレイクの、低く、腹の底の臓腑にまで響いてくるような重々しい、嗄れた声が響き渡った。
「俺の可愛い弟子っこが、適応暴走と俺の火の気の加護に当てられて、今、ベッドの上でのたうち回ってやがる。……火龍の俺じゃ、あいつの火を消してやることができねえ。……だから、お前さんたちの神殿にある、『水龍の雫』を、分けてもらいたい。……この通りだ、頼む」
愛弟子を救うための、一切のプライドを捨て去った、泥臭い大人の覚悟。
かつてアストライアにおいて『巨壁』と呼ばれ、いかなる軍勢の猛攻を浴びても一歩も退くことのなかった、誇り高き神話の火龍。
その男が、今、愛弟子の命を救うためだけに、水龍の眷属たちの前に、平然と、深く、その頭を垂れた。
「な……ッ!?」
「火の王が……、我らの前に、頭を下げている、だと……!?」
ドラゴノイドの若い戦士たちの間に、激しい動揺と、言葉を失うほどの衝撃が走った。




