第209話 留守番の決意と、地球の裏側の拠点(前編)
千葉県野田市にそびえ立つ、佐修院家本邸の最深部。
何重もの防魔障壁に囲まれ、最新鋭の魔導生命維持装置が静かに駆動音を響かせる隔離療養部屋。
その清潔な室内は、外界の騒々しいセミの声すら遮断された完璧な静寂に支配されていたが、代わりに、どこか生温かく張り詰めた熱気が空間の隅々にまで淀んでいた。
ベッドのシーツの上、全身を「耳なし芳一」の如き赤黒い封印呪の墨書で埋め尽くされた前山田結羽は、弱々しく天井を見つめていた。
ふゆが「お姉ちゃんを絶対に自らの手で救う」と宣言し、佐修院家の大型ポンプ車と共に埼玉の古刹・浄安寺へと旅立ってから、数時間が経過していた。
ふゆが命懸けで江の島ダンジョンから持ち帰ってくれた『水の気』を含む魔獣肉と、佐修院家のシェフが調理してくれた極上の料理のおかげで、一時は呼吸すら困難だった致命的な発熱自体は、どうにか一時的な小康状態を保っている。
しかし、結羽は未だに、指先一つ動かすことすら厳しく制限されていた。
寝たきりの退屈さ。
そして、自分だけが何もできず、ただ布団の中で誰かの助けを待つことしかできないという「お荷物感」が、サバイバリストたる彼女の心を、冷たい泥のように絶えず侵食していた。
(わたし……また、壊しちゃった)
結羽は、布団の下でそっと自らの右手を握りしめようとした。
だが、その指先にほんの少しでも力を込めようとすれば、彼女の脳裏に、あの日の光景が鮮烈にフラッシュバックする。
安静を強いられるもどかしさから、軽く身体を動かそうとするが、制御しきれない怪力によって、触れたベッドのフレームを飴細工のように握りつぶして破壊してしまい、ふゆから「安静にしていて!」と本気で怒られてしまった。
縛仙環の負荷を失い、過剰適応によって限界突破してしまった彼女の筋出力は、本人の意思やブレーキを完全に置き去りにして、暴走状態で外へと漏れ出し、ただベッドのフレームに触れることすら許されない『世界の不自由さ』を結羽に突きつけていた。
(今のわたしがふゆの手を握ったら、ふゆの手を壊しちゃう……。お箸もスプーンも飴細工みたいに曲げちゃう……。こんな化け物みたいな身体じゃ、何もできない)
特級探索者。
新宿の神話級亜種を撃破した、探索者でもトップクラスの万能の戦士。
その輝かしい名声を手にしたはずの少女が、己の力の不自由さに、ただの『使えないお荷物』だった頃の卑屈な自分に戻って、ベッドの上で子供のように縮こまっていた。
『結羽殿。そんなに悲しい波長を部屋中に撒き散らしては、せっかくの薬膳の効果も、溜息とともに霧散してしまいますよ?』
突如、部屋の静寂を破るように、風雅で知的な合成音声が響き渡った。
結羽がハッとして顔を横に向けると、サイドテーブルの上に置かれていた、ふゆがカスタマイズしたタブレット端末。
その液晶画面の奥で、異世界の人工知能を宿した『黄龍』のアイコンが、淡い金色の光を穏やかに明滅させていた。
ふゆが埼玉へと旅立つ際、隔離部屋に残される結羽の体調監視と、何より彼女の話し相手を兼ねて、ふゆの端末からさらに分体化された『アプリ版の黄龍』であった。
「黄龍先生……」
結羽は、潤んだ瞳でその光を見つめた。
「わたし……全然ダメなんだ。おやっさんはわたしのせいで地球の裏側まで行っちゃったし、ふゆも、彩斗美先輩も、黒田さんも、みんながわたしの面倒をみて、お仕事まで休んでお世話してくれてるのに……。わたしはただの足手まといで、ベッドのフレーム一つ、普通の力で握ることもできない。こんな身体で、どうやってお父さんとお母さんを迎えに行くっていうのかな……」
『やれやれ。結羽殿。それはご自身の器の大きさを過小評価し、周囲の者たちの「意思」も過小評価しすぎというものです。……今、師父がアマゾンの奥地へ、ふゆ殿と彩斗美殿が江の島や埼玉へ、それぞれの解決のために動いている。それは、あなたが「お荷物」だからではありませんよ。あなたという存在が、彼らにとって何物にも代え難い、命を懸けてでも守り抜くに値する「よろず屋の心臓」だからに他ありません』
黄龍の、優しく、けれど論理的な諭し。
『『水の気』の料理を取り込んで、悩むくらいには回復できたのです。ならば、結羽殿自身が経絡に仙気を回すだけでも回復は早まります。自己嫌悪の溜息をついている暇などないのですよ。仲間の献身に報いるとはそういうことです。今は身体を治すことを第一に。そして快復したその先に、よろず屋パーティーが果たすべき、真の大目的を、その胸にしっかりと刻み直すのです』
黄龍の宝珠の光が、知的な青色へと反転する。
『お二人のご両親、明殿、および信彦殿が、アストライアの深淵から新宿へ送り届けてくれた、あの純白のコンテナ。……あのコンテナに詰められていたものは、ただの特級物資だけではありませんでしたね。アストライアで暮らす、三年前のダンジョン禍で転移させられてしまった、数多くの行方不明者たちの「生存の証」たるビデオメッセージの魔導具。これを手にしたあなたたちには、果たすべき三つのロードマップがあるはずです』
黄龍が、空間に青白いホログラムを静かに投影し、結羽の前に「よろず屋の未来のロードマップ」を一つずつ提示していく。
『第一に、ビデオメッセージの配達。快復後、アストライアに散らばる生存者たちの生存の証を、この地球上で今も生存を信じて待っているご家族のもとへ、すべてあなたたちの手で確実に届けること』
「うん、お父さんたちの仕送りの中にあった……ビデオレターを配達しなきゃ、だね」
結羽の瞳に、確かな光が宿り始めた。
『第二に、行方不明者の情報収集。……ご両親のように、ダンジョン禍に巻き込まれて異世界へと転移させられてしまった、地球の罪なき人々、その手がかりを、日本中、世界中のダンジョンの情報から根こそぎ集め、全容を解明すること』
「うん……」
『第三に、恒久的ゲートの完成。それらの情報が指し示す遺跡型・機械化型のダンジョンを踏破・掌握し、アストライア側への干渉力をこちらの制御下に置くこと。その上で、ご両親たちが自力で安全に地球へと帰還できる『安定した恒久的ゲート』を、この地球に完成させることです』
よろず屋パーティーのリーダーとしての、最高に熱い「標的」。
『この三つのロードマップを完遂するためには……リーダーであるあなた自身が、誰よりも頑強で、誰よりも健康な姿で、前線に立ち続けなければなりません。そのための一歩が、今、このベッドの上で「留守番を全うする」ということなのです。これでも、ただの無価値な時間だと思われますか?』
黄龍の論理的で、心強い励まし。
その言葉は、結羽の胸の奥底で燻っていた卑屈な煙を、一瞬にしてカッと熱いド根性の炎へと切り替え、燃え立たせた。
「……ううん、思わない。……わかりました、黄龍先生!」
結羽は、涙を袖でごしごしと力強く拭うと、ベッドの上で姿勢を正し、強く、強い光を宿した瞳でタブレットを見つめた。
「わたし、今は全力で甘えて、全力でお留守番をします。……一秒でも早くこの熱を下げて、普通の力でベッドのフレームもドアノブも握れるようになって……。ふゆが、彩斗美先輩が、おやっさんが帰ってきたら、最高の笑顔で『おかえり!』って言ってあげる。……そして、みんなと一緒に、お父さんたちを迎えにいく恒久的ゲートを完成させる!」
ただ守られるだけの子供からの、完全な精神的脱却。
結羽は、自らの内に流れる富士川のド根性の血脈を、曾孫としての、よろず屋の『リーダー』としての不退転の覚悟として、その胸の奥に深く、熱く、確かに刻み直すのだった。




