第208話 不思議な御縁と、お話のわかる御仁
千葉県野田市、佐修院家本邸。
ふゆが得た「水の気を持つ井戸水の活用」という閃き。
そして、それを受けて黄龍がスキャンした、埼玉県川口市にある古刹・浄安寺の「観音の井戸水」。
かつて佐修院彩斗美がダンジョンの過剰適応とヒュドラの毒で寝たきりだった頃、非公式かつ情報非開示での打診を行ったがためにすれ違いを生んでしまった、あの裏の治療師――安行慈洋の寺。
黒田が語った、隠された過去の真実。
それは、ただの頑固者ではなく、自らの確固たる信念を貫く治癒師としての安行慈洋の格を、浮き彫りにしていた。
「これならば、安行様のルールにも、一切抵触いたしません。……早速、問い合わせの電話を入れてみましょう。今回はお嬢様が復活を遂げられた報告も兼ねて、礼儀を尽くして交渉いたします」
黒田は、スマートデバイスの画面を操作し、かつて一度だけ発信したことのある、埼玉の古刹・浄安寺の番号へと、静かにコールを繋いだ。
長い廊下に、スピーカーモードでの呼び出し音が、プー、プー、と規則的に響く。
ふゆは、絆創膏だらけの手をぎゅっと祈るように胸の前で握りしめ、彩斗美と顔を見合わせながら、その交渉の行方を息を呑んで見守っていた。
彩斗美もまた、自らの黒髪をそっと一房かき上げながら、心臓が高鳴るのを感じていた。
かつて自分の治療を断った男。
金で動く男ではなく、自らの能力の行使に厳格なルールを設けている者が、自身の領域下にある水の譲渡に色よい返事を出してくれるのか、少しの不安がよぎる。
電話の呼び出し音が何回か響いたあと、カチャリという静かな受話器の上がる音が聞こえた。
黒田はすぐに姿勢を正し、いつもの完璧な執事としての物腰で受話器へと語りかけた。
「もしもし。夜分に恐れ入ります。……私、以前に探索者の治療依頼の件でお声がけさせていただいた、佐修院家の黒田と申します。安行様、その節は大変失礼いたしました」
電話の向こうから聞こえてきたのは、およそ高名な裏の治癒師とは思えないほどの、へらへらとした、どこか俗っぽくて脱力感のあるアラフォー男性の声だった。
「あー、はいはい。佐修院さんね。……へえ、わざわざお電話なんて、どうしたんですか? うちのお寺、檀家さんも少なくて、年中火の車だから、寄付のお話なら大歓迎ですけどねぇ」
その僧侶らしからぬ受け答えに、黒田は小さく苦笑しながらも誠実に言葉を続けた。
「いえ、実は寄付のお話もさることながら……。安行様、以前治療依頼をお願いした当家の探索者……佐修院彩斗美が、先日、完全復帰を遂げました。それも、かつての現役時代を凌駕するほどの健康を取り戻されたのです。まずは遅ればせながら、そのご報告をさせていただきたいと思いまして」
その報告を聞いた瞬間、電話の向こうの慈洋の声から、いつものへらへらとした響きがすっと消え、ほんの一瞬だけ、静かで深い、本物の治療師としての温かな息遣いが聞こえた。
「……ほう。あのときの探索者さんが。完全復帰ですか。それは……本当に、よかったですねぇ。……あの時はお役に立てず、申し訳なかった。でも、よく生き抜いてくれた。本当によかった」
慈洋の、心の底からの安堵の言葉。
「ありがとうございます。……そして、本日はもう一つ、大変不躾ながら、お願いがございます。……実はお嬢様の復活を後押ししてくださった、当家が支援する探索者……前山田結羽と申します。彼女が、激しい発熱に苦しんでおりまして」
「それはまた……原因は?」
「公には深い情報を伏せられておりますが、先日の新宿ダンジョンのスタンピードに立ち向かった結果でございます。探索中に負傷したというわけではないのですが、ダンジョンで取り込んだエネルギーを昇華させることができず、力が暴走し、発熱につながっている様子です」
「ああ、あの新宿ダンジョンの……すんでのところで外に溢れ出さなかったという話は、『裏』にまで届いていますよ。なるほど、佐修院家の探索者さんも出陣なさっていたんですね」
「はい。その暴走を安全に鎮め、治癒へと導くための特効薬を調達するべく、当家の別の探索者がすでに地球の裏側へと旅立っております。……ただ、彼が特効薬を持ち帰るまでの数日間、暴走を一時的にでも緩和するため、効果のある水が必要となりまして……浄安寺様の境内に湧き出る「観音の井戸水」を、枯らさない程度に、分けていただきたいのです。もちろん、相応の対価、およびお寺への喜捨は、佐修院家として存分に行わせていただきます」
黒田が、極めて誠実に、一切の嘘偽りなく事情を説明しきった。
長い、静かな沈黙が、電話回線を通じて流れる。
やがて、受話器の向こうから、いつもの、へらへらとした、掴みどころのない軽い声が、ふっと戻ってきた。
「いいですよ。井戸水は生活水源にしてるわけでもないし、枯らさない程度なら、対価なんていらないですよ。存分に持っていってくださいな。新宿ダンジョンのスタンピードは関東に住まう者には余所事じゃなかったからね。そういうことなら、どうぞどうぞ。井戸水の効果のほどはぼくには保証できないけれど……お水くらいなら、いつでも喜んでどうぞ。助けになればいいんだけどね」
あまりの快諾ぶりに、黒田も一瞬、あっけにとられたように目を丸くした。
「……よ、よろしいのですか? 対価も支払わずに、ただで頂戴するなど……」
「いいのいいの。うちは井戸水くらいしか自慢がないですからねぇ。ええ、お寺を壊さないでくれるなら、好きなだけポンプでも何でも使って汲んでいってよ。……ああ、どうしても御礼をというなら、お金よりも何か美味しいお饅頭でもお土産にしてくれる方が、よっぽど嬉しいかなぁ。ご本尊様にお供えできますから。ははは」
電話の向こうで、慈洋は俗っぽい笑い声を上げていた。
「はは……。承知いたしました。とびきり美味しいお饅頭を、持参いたします。安行様、本当に、ありがとうございます」
黒田が穏やかな微笑みを浮かべて受話器を置くと、廊下で待っていたふゆと彩斗美の前に、深く一礼した。
「ふゆ様、彩斗美お嬢様。……井戸水の件、ご快諾いただけました。……相変わらず雲のようではありますが、なかなかに話のわかる、不思議な御仁にございます。こちらの誠意を、確かに受け取ってくださったのでしょう」
「やったぁ! お水、もらえるんだね、彩斗美さん!」
ふゆが、絆創膏だらけの手をぎゅっと握りしめてジャンプした。
「ええ、本当に、本当に嬉しいわ。……黒田、すぐに手配を」
「はっ。ただちに、佐修院家のロジスティクスを動かします。水の気の井戸水を大量に、かつ一切の魔素の低下なく、安全に運搬するためにポンプ車のタンクに魔導結界を施して、浄安寺へと向けて出動させましょう」
黒田は、すぐに動き出した。
彼の指先がスマートデバイスの画面を高速で操作し、各方面に次々と指示を出す。
ドレイクに留守を任せられた、ふゆと彩斗美の『結羽を絶対に救う』という誓いと願い。
それは、埼玉の古刹・浄安寺へと向けて、素早く動き始めるのであった。




