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第207話 大人の温もりと、プロの調律(後編)

 隔離療養部屋の外、長い廊下。


 部屋から空になった銀のトレイを持って出てきたふゆの前に、腕を組んで待っていた彩斗美と、黒田、そして給仕を終えた総料理長が、穏やかな表情で控えていた。


「お疲れ様、ふゆちゃん。結羽さんの様子はどうかしら」


「彩斗美さん! うん、お刺身もリゾットもスープも全部きれいに食べてくれたよ! お熱も、魔力視で視てみたら、随分静かになってて、お姉ちゃん、身体がすごく楽になったって笑ってくれた!」


「そう……よかったわ。シェフ、貴方のプロの腕に感謝するわ」


 彩斗美が微笑むと、総料理長は深く頭を下げた。


「彩斗美お嬢様、ふゆ様、素晴らしい状態の素材でした。料理が結羽様に馴染んだようで何よりです」


 シェフは顔を上げ、料理人としての、そしてプロとしての何気ない『調和』の理をポツリと呟いた。


「今回の水の魔獣肉、極上ではありましたが、調理の工程で、どうしても『水の気』が散逸してしまいました。特に加熱の調理工程が難しいところでした。とはいえ生食ばかりというのも飽きましょう。そこで考えたのですが……例えば、同じ産地や同じ気風の水や調味料を使って料理を仕上げることで、その味わいや調和が劇的に高まるように……今回結羽様にお召し上がりいただいた『水の魔獣肉』の薬効も、同じように『高純度な水の気を持つ清浄な水脈の水』を用いて調理すれば、その効能はさらに増すのではないでしょうか?」


「水そのものの、水の気……?」


 ふゆが、小首を傾げて問い返す。


「……水そのものも『水の気』を宿すものを使う。なるほど。その発想はなかったわ」


 彩斗美も、納得したように深く首肯した。


 その言葉は、ふゆの脳裏に、電撃のようなインスピレーションを走らせた。


「――そうだ! お水! お料理だけじゃない! お風呂や顔洗いでも、水の気を持つお水でお姉ちゃんの体を外側から満たしてあげれば、もっと安全にお姉ちゃんの火龍の力を冷ませる!」


 ふゆの閃き。


「黄龍先生! 日本国内の地脈と水脈のスキャンをお願い! アストライアの水龍と同じ波長を放っている水源はないかな!?」


『了解しました、ふゆ殿。……地脈・水脈の広域探査スキャンを起動。水龍の霊子波長を検索キーとして、この地球のフィルターへと重ね合わせます……。おや、これは……』


 ふゆのスマートフォンから、黄龍の風雅な合成音声が、珍しく深い驚愕の色を帯びて響き渡った。


 スマートフォンの画面に、幾何学的な魔術回路のマップがスクロールしていく。


『ヒットしました。……驚きましたね。日本国内には、ただ一箇所。……水龍が放つ霊子波長と完全に一致する水源が存在します』


「本当!? 黄龍先生、どこなの、そこは!?」


『……埼玉県川口市。……そこにある古刹『浄安寺』の境内に湧き出る湧き水――『観音の井戸』ですな』


「埼玉……川口の、浄安寺……」


 ふゆがその名前を口にした、まさにその瞬間だった。


 傍らに控えていた老執事の黒田が、驚きに眼鏡の位置を直し、ハッとして、眼鏡の位置を指先でクイと押し上げた。


「おや、これはこれは……。なんという、不思議な御縁にございましょうか」


「黒田さん? どうかしたの?」


 彩斗美が不思議そうに尋ねると、黒田は、深く感慨深そうに、けれどどこか畏敬の念を込めて、静かに語り始めた。


「お嬢様。……こちらの浄安寺の御住職であらせられる『安行慈洋』様。……実は、かつてお嬢様がヒュドラの毒と過剰適応で伏しておられた際、私ども佐修院家が、裏の治療師候補として、一度だけ非公式に交渉を試みたお方にございます」


「あら、そうなの? 確かに不思議な縁があったものね」


 彩斗美の美しい瞳に、過去の苦い記憶を思い出したような、驚きの光が宿った。


 黒田をはじめとする佐修院家の者たちは、彩斗美を救うため、全国各地の魔導医や有能な治癒師を探して、文字通り地を走るようにして交渉を繰り返していた。


 その「有力な候補者の一人」として浮かび上がったのが、埼玉県川口市に隠棲しているという、裏の治療師――安行慈洋だった。


「黒田、私の治療の打診を断った人でしょう? 水がそこにあるとして、交渉するとしても佐修院の名前を出すと難しくならないかしら?」


 彩斗美の問いかけに、黒田は静かに首を横に振った。


「ええ。確かに当時は、彩斗美お嬢様の治療の件は決裂いたしました。……ですがお嬢様、それは私たちの側に、(スジ)が通っていなかったからにございます」


「理が、通っていなかった……?」


「はい。当時、私どもは佐修院家の情報非開示と情報の秘匿性を重んじるあまり、詳細を完全に伏せたまま交渉に臨みました。お嬢様が部下を逃すために単身囮となり、ヒュドラと死闘を繰り広げたという、その経緯を何一つ明かさぬままに……」


 黒田は、自らの眼鏡を外し、懐から取り出したシルクのハンカチで静かにレンズを拭い始めた。


「当時はただ、『ダンジョンで大怪我を負った、我が家の高位探索者を救ってほしい。対価は望むだけ支払う』と打診いたしました。……医師免許や治療師免許を持たず、裏で静かに隠棲されている安行様にとって、詳細のわからない探索者の治療依頼など、大きなリスクと責任を背負ってまで受けるスジがないと判断されるのは当然のこと。……安行様は、自らの治癒の力を「目の前で理不尽に命を失おうとしている者を救う為に使う」という、極めて強固なルールがおありでしたから」


 黒田の言葉は、ただただ静かだった。


「あの時、安行様は掴みどころのない態度を崩さないまま、こう仰いました。「私では力になれない、お引取りを」と。へらへら笑いながら、こちらの財力や地位を以てしても一歩も引かず、実に丁重にお断りになられましたな。……今思えば、あれはただの偏屈ではなく、治療師として、また裏の存在として、ただならぬ強固な理合いと、自制心を感じました。私どもの浅はかな秘密主義が、すれ違いを生んでしまったのです」


 黒田が語る、隠された過去の真実。


 それは、ただの頑固な人物ではない、自らの確固たる信念を貫く治療師としての安行慈洋の格を浮き彫りにしていた。


「そう……そんな、すれ違いがあったのね。……安行殿、なんだかドレイク殿と同じくらい、不器用で、真っ直ぐな人のようね」


 彩斗美が、フッと柔らかい微笑みを浮かべた。


「ええ。雲のようではありますが、本物の信念をお持ちの、不思議な御仁にございます。そして今回、ふゆ様が求められているのは、安行様に重いお立場や危険を伴わせる治療依頼ではございません。「身内の命を救うために、境内の井戸水を少し分けてほしい」という依頼です。真摯に事情を隠さず説明すれば、無碍に断られることはないかと思います」


 黒田は眼鏡を再び装着し、静かに次の交渉への準備を進めるのだった。

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