第206話 大人の温もりと、プロの調律(前編)
神奈川県・江の島から、千葉県野田市の本邸ヘリポートへと爆速で飛来した、佐修院家の重厚な魔導結界付き低温冷蔵ヘリコプター。
そのコンテナが、本邸の地下にある最新鋭の魔導調理設備が完備された専用厨房へと運び込まれてから、まだ一時間も経っていない。
そこは今、およそ一般的な高級邸宅のキッチンとは思えないほどの、熱気と緊迫した空気に包まれていた。
調理台の上にうやうやしく置かれたのは、ふゆたちが江の島ダンジョンの中層で命懸けで仕留めた、水の魔獣達の肉であり、中でも一際目立つのは――『アクア・リザード』の新鮮な肉である。
魔力視によって厳選され、不純なミアズマの一滴すら交じることなく、ふゆの物理スナイプで完璧に仕留められたその素材は、いまだに澄み切った青白い『水の気』のオーラを放ち、周囲の空気をひんやりと冷やしていた。
その白く輝く美しい肉塊を前にして、佐修院家の専属総料理長である初老のシェフは、片手に握ったミスリル合金製の薄刃包丁を厳かに構え、深く息を吐き出した。
彼の傍らに控える黒田が、一切の隙のない燕尾服の袖口を少しだけ気にしながら、静かに時計に目を落とす。
「シェフ。……ふゆ様と彩斗美お嬢様が命懸けで持ち帰られた、極上の『命の素材』にございます。どうかよろしくお願いいたします」
「わかっておりますとも。この素材に宿る『水の気』……。これほどまでに清浄で、かつ強靱な生命のエネルギーは、私の料理人人生においても中々目にしたことはありません。他の魔物食材も浄化は十二分。実にやり応えがある仕事です」
シェフは、真剣な表情で包丁の刃先を肉へと当てた。
「この素材に備わる水の気は、ただぶつ切りにするだけでは、旨味ごと霧散してしまいます。微細な筋の繋ぎ目で正確に断ち、かつ肉の繊維を傷つけない……。これこそが、プロの『調律』というものです」
シュッ、シュッ……。
厨房に、極めて精緻で、リズミカルな包丁の音が鳴り響き始める。
シェフの包丁は、水の気を持つ素材の繊維を傷つけることなく、その旨味と効能を最大限に引き立てるための、最高峰の調理が施される。
不慣れな解体で手指を傷だらけにし、自分の無力さに涙をこぼしたふゆの代わりに。
佐修院家の圧倒的なロジスティクスと、プロフェッショナルとしての料理人のプライドが、その命のバトンを受け継いで、完璧な『ごちそう』へと形を変えていく。
そうして出来上がったのは、水の魔獣肉を贅沢に使用し、五行の相乗効果を引き立てるための薬味を添えられた刺身やカルパッチョなどの生食だけでなく、アクアパッツァや、素材を一切無駄にせずブロードを取り、消化に優しいリゾットなども作られた。
◆◆◆
佐修院家本邸の最深部、魔力障壁に囲まれた隔離療養部屋。
防音扉が重々しく開かれ、ふゆが、プロのシェフが仕上げた最高のお料理が乗った銀のトレイを両手でしっかりと抱えて、部屋の中へと入ってきた。
「お姉ちゃん! お待たせ! シェフさんが作ってくれた、とびきりのお料理だよー!」
ふゆはトレイをテーブルに置くと、スープの入った小鉢を手に取り、スプーンでひとすくいして、ふー、ふー、と優しく息を吹きかけて冷ました。
「はい、お姉ちゃん。あーんして!」
「……ありがとう、ふゆ。あ、あーん……」
ぱくり。
スプーンから流れ込んできた、特製スープと柔らかな肉。
その瞬間、結羽の大きな瞳が、驚きに見開かれた。
「これ、すごい……! ただ美味しいだけじゃなくって、美味しさと一緒に、お水の冷たい波が、身体の熱を、奥の方からすーっと洗い流してくれるみたい……!」
ブイヤベースを飲み、具材を食べた結羽は食欲を取り戻したようで、刺身やカルパッチョも、ふゆが口元に運ぶもの全てをぱくぱくと食べた。
そして結羽がそれらを食べるたびに、彼女の全身から立ち上っていた暴力的で赤い『火龍の加護』が、劇的な速度で、青白い冷気の波に包まれるようにして凪いでいく。
一時的な中和ではあるが、その効果は絶大だった。
ふゆの命懸けのアタックと、大人のプロの技術が、結羽の暴走する器を確かに繋ぎ止めたのだ。
「ふぅ……。からだが、すごくスッキリしたよ。ふゆ、本当にありがとうね」
結羽が、数日ぶりに、いつもの穏やかで優しい笑顔を見せた。
結羽のその言葉に、ふゆは嬉しそうに頷く。
だが結羽は、自分の口元に料理を運んでくれる妹の手の様子に今更ながら気がついた。
ふゆの小さな両手。
不慣れな解体ナイフを握りしめ、必死に魔獣を捌いた彼女の指先や手のひらは、細かな切り傷を覆うための、真っ白な絆創膏によって、埋め尽くされていた。
「ふゆ、その手……」
結羽が、ハッとして、布団から重い右手を伸ばしかけた。
「だめ! 動いちゃダメだよ、お姉ちゃん!」
ふゆは慌てて自分の両手をジャージのポケットに隠すようにして、後ろへとステップを踏んだ。
「これくらい、なんでもないよ! わたしはよろず屋の『ふゆ一等兵』だもん! お姉ちゃんがいつも、わたしの命を救うために傷だらけになってくれたのに比べたら……こんなの、絆創膏貼ったらすぐ治っちゃうんだから!」
「ふゆ……」
「お姉ちゃんは、今はただ、早く元気になることだけを考えてて! おやっさんが、地球の裏側から、絶対に『水龍の雫』を持って帰ってきてくれるんだから!」
ふゆの強い、けれどどこまでも姉を想う優しい瞳。
「うん。……わかったよ、ふゆ。わたし、早く元気になるね」
その温かさに、結羽は伸ばしかけた手をそっと布団に戻し、ぎゅっと握りしめて、コクリと力強く頷くのだった。




