第205話 江の島アタックと、絆創膏だらけの手(後編)
江の島ダンジョンの外。
夕暮れの薄赤い陽光が、打ち寄せる波頭を黄金色に染め上げる、ベースキャンプの脇。
佐修院家が手配した、巨大な魔導結界付きの低温冷蔵ヘリコプターが、爆音を立ててプロペラを回転させ、冷たい風を周囲に吹き荒らせていた。
そのヘリのカーゴスペースへ、ふゆたちが命懸けで切り出した、新鮮な水の魔獣肉が収められた冷蔵コンテナが、使用人たちの手によって慎重に運び込まれていく。
コンテナが運び込まれるのを見届けた黒田が、静かに一礼した。
「ふゆ様、彩斗美お嬢様。……素晴らしい素材でございます。ただちにヘリを飛ばし、本邸のシェフの元へと直送いたしましょう。……結羽様がお待ちの隔離療養部屋へ、鮮度100%の食材として、一時間以内にお届けすることをお約束いたします」
「うん。……黒田さん、おねがい、します……」
ふゆは、コンテナを運ぶヘリを見送りながら、ぽつりと力なく答えた。
ヘリの爆音が、夕暮れの空へと遠ざかっていく。
潮風が、ふゆの少しだけ汗ばんだ額の髪を優しく揺らした。
その場にぽつんと立ち尽くしていたふゆは、自らのスマートフォンの画面に表示される、黄龍の明滅を見つめながら、自らの両手をそっと見つめた。
ふゆの両手は、不慣れな解体ナイフの滑りや、硬い魔獣の皮革に何度も擦られ、切り裂かれたせいで、手のひらも、指先も、細かな切り傷と、それを覆うための絆創膏によって埋め尽くされていた。
ただの一体。
たった一体のリザードを捌くだけで、自分の手はこれほどまでにボロボロになってしまった。
お肉の表面は、ふゆの不器用な刃口のせいで、ところどころが不格好に削れ、傷ついてしまっていた。
(おやっさんなら……一瞬で、傷一つなく、鏡みたいに綺麗に捌けたのに)
(お姉ちゃんなら……もっと、もっとお肉を傷つけずに、完璧な『ごちそう』として切り出せたのに)
それに比べて、自分のこの手はなんだ。
自分は『よろず屋の頭脳』だなんて、偉そうに言っていた。
倒れたお姉ちゃんを、今度は自分が救う番だ、なんて豪語していた。
だけど、いざ実戦のフィールドに出てみれば、自分は何もできない、ただの無力で不器用な子供のままだった。
お姉ちゃんが、どれほどの激痛に耐え、どれほどの傷を身体に刻みながら、自分のためにミノタウロスを狩り、特効薬を持ち帰ってくれたのか。
その命の重さに、今の自分のこの絆創膏だらけの手では、到底追いつけない。
「……わたし、やっぱり……なにも、できないや……」
ふゆは、絆創膏だらけの両手を見つめたまま、ぽろぽろと、大粒の涙をこぼした。
堪えようと、何度も奥歯を噛み締めた。
前山田の、そして富士川の女は、この程度のことで折れちゃダメなんだと、必死に自分に言い聞かせた。
だけど、冷たい潮風の寒さと、手のひらのジンジンとした痛みが、彼女の小さな心を、どうしようもない無力感で引き裂いていく。
ふゆは、その場にぽつんと立ちすくみ、小さな肩を激しく震わせて、声を押し殺して泣きじゃくった。
その時だった。
そっと、ふゆの背後から、温かくて、そして気高い大人の香りが漂ってきた。
細く、けれど確かな芯の通った温かい両手が、ふゆの小さな、傷だらけの身体を、背後から包み込むようにして、そっと抱きしめた。
「彩斗美……さん……?」
ふゆが涙で濡れた瞳を向けると、そこには、よろず屋の頼もしいコマンダーである佐修院彩斗美が、夕暮れの赤い光を浴びて、どこまでも優しく微笑んでいた。
「よく頑張ったわね、ふゆちゃん。……本当に、えらかったわよ」
彩斗美は、ふゆの小さな頭を、自らの胸元へと優しく引き寄せ、そっと抱きしめた。
「でも……わたし、お肉をいっぱい傷つけちゃったの。おやっさんみたいに、お姉ちゃんみたいに、きれいに解体できなくて……。わたし、やっぱり、ただのお荷物で……」
「そんなことないわ。ふゆちゃん、あなたはできることを十二分に、完璧にやり遂げたのよ」
彩斗美は、ふゆの傷だらけの、絆創膏だらけの小さな手を、自らの温かい手で優しく包み込んだ。
「あなたは、お姉さんを救うために、自らの恐怖を乗り越えて、この冷たいダンジョンへと挑んだ。そして、あなたの魔力視と、命懸けのスナイプで、一番美味しい、お水の気がたくさん詰まった完璧な状態で、魔獣を仕留めてみせたわ。……それだけで、結羽さんにとって、これ以上ない最高のごちそうになるのよ」
彩斗美は、ふゆの濡れた頬を、優しい指先でそっと拭った。
「解体にしても、調理にしても。何もかもを、あなた一人だけで抱え込もうとしなくていいの。……よろず屋には、私や黒田のような、頼るべき大人がたくさんいるのだから」
「大人の、力に……甘える……?」
「ええ。そうよ。……完璧な解体は、黒田が手配した専門の解体業者に任せればいい。そして、結羽さんの体調に合わせた最高の薬膳料理は、佐修院家の一流のシェフたちが、その腕を振るって形にしてくれる。……私たちは、最高の『素材』を届ける役割を、完璧に果たしたの。……だから、大人の兵站に、存分に甘えなさい。それもまた、立派なよろず屋の『理』なのよ」
大人の温もり。
そして、自分の未熟さを優しく包み込み、許してくれた、最高の仲間の言葉。
ふゆの大きな瞳から、先ほどまでの冷たい悔し涙ではなく、温かい感謝の涙が、ボロボロと溢れ出して、彩斗美のコートの肩口へと小さな染みを作っていった。
「……う、うぅ……っ。彩斗美さん……、黒田さん……。ありがとう、ございます……。おねがい、します……っ」
ふゆは、彩斗美のコートの裾を小さな手で強く、強く握りしめながら、大人の温かさに身を委ねて、子供のように声を上げて泣いた。
ただ守られるだけだった少女は、大人の温かさに甘える『理』を知り。
そして、よろず屋パーティーの頼もしい一員として、姉の命を背負って立つための、真の精神的成長を遂げようとしていた。
夕暮れの湘南海岸に、ヘリのプロペラ音と、少女の再生を祝福するような、波の優しいさざめきだけが、いつまでも、いつまでも響き渡るのだった。




