第204話 江の島アタックと、絆創膏だらけの手(前編)
神奈川県、湘南海岸。
観光地としてのまばゆい喧騒が広がる江の島の、切り立った断崖絶壁の真下。
普段は観光客の立ち入りが厳しく制限されている岩礁の奥深くに、その漆黒のゲートは口を開けていた。
水の魔獣の巣窟――『江の島ダンジョン』。
入り口から吹き込んでくる潮風は、どこか生臭く、そして皮膚を刺すような濃密な水の魔素を含んでいる。
その薄暗い海蝕洞窟の通路を、よろず屋パーティーのお留守番組が、迷いのない足取りで爆進していた。
バシュッ!
キィィィンッ!
洞窟の湿った大気を切り裂き、鋭い金属音が立て続けに鳴り響く。
ふゆが構える、ミスリル合金で補強された『魔導シリンジガン改』。
その銃口から放たれたのは、魔法の光弾ではなく、急激に圧縮された仙気によって撃ち出された、水中銃のような鋭い金属製の『物理弾』だった。
放たれた物理の針は、前方の海水が溜まった窪地から飛び出してきた大ぶりの魔獣――青い粘液を滴らせる『アクア・リザード』の首の皮膜の、ミリ単位の隙間を完璧にすり抜けた。
そして、内側の脳幹と魔石の核を正確に貫通する。
「ギャッ……!」
リザードは、自慢の硬質な青い鱗を一切傷つけられることなく、一瞬にして絶命し、その場にどさりと崩れ落ちた。
完璧な、一点集中の物理スナイプ。
「お見事よ、ふゆ! 弾道のブレを、自らの気の循環で見事に相殺しているわね!」
すぐ数歩前で、漆黒のコートをひるがえした佐修院彩斗美が、手元に戻ってきた6個の魔導キューブ『阿羅漢』を軽く明滅させながら、称賛の声を上げた。
「うん! ありがとうございます、彩斗美さん! 黄龍先生、いまの狙撃、どうだった?」
ふゆは、おでこにセットした『UIゴーグル』の位置を直しながら、スマートフォンの画面に向けて笑いかけた。
『完璧です、ふゆ殿。最初の特訓時に生じていた数ミリのブレが、完全に修正されています。足の裏から大地の『気の流れ』を掴み、銃身を自らの肉体と同化させるその感覚。さすがは、結羽殿の修行や実戦を一番近くで見届けてきただけのことはありますな』
スマートフォンのスピーカーから、黄龍の風雅な合成音声が響く。
「へへっ、おやっさんがいない間は、わたしがよろず屋の『ふゆ一等兵』だもん! これくらい、できて当たり前だよ!」
ふゆは、小さな胸を張って、真剣な瞳でリザードの巨体へと歩み寄った。
おでこのゴーグルの奥で、彼女の『魔力視』が鋭く発光する。
(……うん。お肉の中の魔力は、すごく澄んだ綺麗な青色をしてる。……これなら、お姉ちゃんの体の中のマグマを、優しくなだめて冷ましてあげられる!)
ふゆは、自らの魔力視で、魔獣の死骸の中に宿る『水の気』の分布を、克明に立体視していた。
前山田結羽の過剰適応と『火龍の加護』の『火の気』を中和するため、五行相剋の理に基づいて『水の魔獣』を食べさせる。
そのための、完璧な素材の確保。
「ふゆちゃん、時間はあまりないわ。魔素の鮮度が落ちる前に、手早く解体を済ませて、黒田のヘリへと送り届けましょう」
「はい!!」
ふゆは、ウエストポーチから、借りてきた結羽愛用のタングステン鋼の解体用ナイフを抜き放った。
だが。
戦いの完璧なテンポとは裏腹に、そこから先の作業は、十歳の少女にとって、想像を絶するほどの過酷な地獄の始まりだった。
ザシュ。
みし。
ふゆは、魔力視を展開しながら、リザードの青い皮を剥ごうと、ナイフの刃を這わせた。
だが、冷たい海水に晒され、粘液にまみれた魔獣の表皮は、驚くほどに滑る。
(……あ。っ、か、かたい……っ!)
ふゆは、自らの細い腕に必死に力を込め、ナイフを押し当てようとした。
しかし、不慣れなナイフさばきでは、刃が鱗の表面をツルリと滑ってしまい、狙ったラインから大きく外れてしまう。
刃が滑るたびに、自身の小さな指先や手のひらが、冷たいナイフの峰や、魔獣の鋭い鱗の端に激しく擦れた。
チクッ、と、鋭い痛みが走る。
(……痛っ。……ううん、だめ。これくらい、お姉ちゃんがいつも泥だらけになって、骨を折るまで耐えた痛みに比べたら……ぜんぜん、へっちゃらなんだから!)
ふゆは、指先から滲み出た赤い血を、ジャージの裾で無造作に拭うと、再び必死になってナイフを握り直した。
魔力視で、毒素や余分なミアズマが肉に浸透しないように、もっとも清浄な『水の気』が宿る背肉と首元の部位を、慎重に見極める。
だが、見極めることができても、それを自分の手で『完璧に切り出す』ことは、全くの別問題だった。
肉を傷つけてはいけない。
お姉ちゃんに食べさせる、大事なお肉なのだから。
そう思えば思うほど、ふゆの指先は強張り、ナイフを握る手が、もどかしいほどに細かく震えた。
ドレイクが、魔獣の死骸から一切の無駄な傷をつけることなく、スルスルとバターを切るように角や肉を切り出していた、あの『解体の理合い』。
そして、姉が毎晩、深夜まで分厚いノートに魔獣の骨格構造を書き写し、マメだらけの手でボロボロのナイフを研ぎ続けて掴み取った、あの職人技のナイフさばき。
その背中を、ふゆはずっと、憧れの眼差しで見上げていた。
特例Dランク探索者となり、自分も同じ『よろず屋』の一員になれたのだと思っていた。
お姉ちゃんの隣で、同じように理を体現できるのだと、うぬぼれていた。
だが、実際に冷たい泥の上に跪き、自分の手でナイフを握って魔獣の肉に対峙した瞬間。
ただの皮一枚を剥ぐことすら、自分の未熟な筋力と指先では、これほどまでに不自由で、これほどまでに思い通りにいかないという過酷な世界の現実を、ふゆは身をもって知らされていた。
「……っ、ふぅ、……っ、よいしょ……ッ!」
ふゆは、歯を食いしばり、必死にナイフを動かし続けた。
どれだけ時間がかかってもいい。
お姉ちゃんのために、一番綺麗で、一番お水の気の詰まったお肉を、持って帰るんだ。
海水の冷たさで、ふゆの両手はすっかり感覚を失い、かじかんで真っ赤に変色していた。
それでも、彼女は泣き言一つ言わず、ただひたすらに、目の前の食材に対峙し続けた。




